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    #ヴェノカネ
    venocane

    過去ログ28拳で他人を打ち付けるようなことは過去に何度もあった。喧嘩であれ諍いであれ。そして悪人を罰する瞬間であれ。それは確かに暴力だった。そして今この瞬間もそれは一方的な暴力以外なんでもないだろう。すでに消灯時間は過ぎて暗くなった静かな牢の中に殴打の音が響く。合間合間に悲鳴のような苦痛の喘ぎを漏らす惨めな男の声も。その音は看守の耳にも届いているのだろう。しかし駆けつけてくる気配はない。それもそうだろう。エディにわざわざ目の前のクソッタレ殺人鬼の話を吹き込んでエディの嫌悪感を掻き立てたくらいだ。こうなることは予想し、望んでいたに違いなかった。
    鼻腔から流れた血で濡れた胸ぐらを掴み、壁際に押し付ける。牢獄の壁はコンクリート張りだ。冷たく硬い無機質さがクレタスの体を通じて伝わってきた。身長差も助けられ、その痩せた体は軽々と宙に浮き上がる。多少の抵抗はあるかと思ったが力なく両足はだらりと下がるだけだった。無抵抗のままでいればことが済むとばかりの様子に一層エディの怒りが湧き出てくる。罪のない市民を喜んで嬲り殺したと語った男のその浅ましさにも、今のこの態度にも。全てがエディの神経を逆撫でする。

    「なんとか言ったらどうなんだ?」

    優れた腕力を活かしてクレタスの後頭部を壁に叩きつけた。首が絞まる苦痛に喘いだ拍子に血が絡む唾液が滴った。数十人は殺したと語った男の表情は苦悶に満ちている。それを見てもエディの心は冷え切っていた。罪人を罰する喜びも高揚感もない。これがヴェノムの仇であるスパイダーマンであればまた違っただろう。だがこの男は殺すにも値しない。エディにとってあまりにも無価値な存在だった。だが、それでも湧き上がる怒りは抑えることができなかった。こんなちっぽけな男に殺されていった市民たちのことを考えれば怒りは暴力に象られてクレタスを糾弾する。拳を握って振り上げる。迷うことなく拳の骨はクレタスの頬を撃った。すっかり腫れ上がった頬の肉が潰れるのを感じたがそれでも嫌悪も憎悪の炎は萎えない。クレタスは首元をエディに固定されているものの、殴られた衝撃で後頭部をしとどに壁に叩きつけた。脳震盪はすでに起こしていただろうが、強烈な一撃で意識が遠かったのだろう。壁に背中を預ける姿勢で力が抜けていくのを感じていた。

    「っ……ぅ、……ぐ」

    これ以上は殺すことになるだろう。鼻腔からも唇の端からも止めどなく新鮮な血が滴っていた。後頭部も壁に打ちつけた際に切ったのか頸を濡らす血が除いていた。今さら同房の犯罪者を殺したところでエディの罪は変わらないだろう。むしろ市民から称賛されることだろうなと自嘲気味に笑えば掴んだ胸ぐらを離してやった。自身の血で濡れた体はまっすぐ地面に叩き落とされる。今の今まで無抵抗だったクレタスの体がようやく自衛に駆られたのか身を丸めるのが見えた。ほんの些細な仕草だった。本能的な仕草といえばそれだけのものだというのにそんな自己防衛のものでさえエディの怒りの琴線に触れた。

    「……シリアルキラーのくせに自分の身を守ることだけは一丁前か?」

    点々と散った血溜まりを踏み躙りその背中を強く蹴り上げた。たったのひと蹴りで細い体が横転し、また壁に叩きつけられた。シンビオートに寄生をされていたときであれば収まらぬ怒りも暴力も正当性を証明できただろう。だが今ここにいるのはエディ一人だ。この暴力性も怒りも嫌悪も、全てエディがクレタスに向けるのものだった。

    「頼、む……。ブロック……! もう……、やめてくれ……」

    壁際に追い込まれやっと放った言葉は情けない命乞いだった。立ち上がる気力もないのか。身を横たえたまま腫れ上がった顔の前に腕を構え、これ以上の暴力から身を守っていた。理不尽な暴力を受ける子供のように。

    「お前に殺された皆はそう言っただろうさ」

    一歩近づき、血と汗で額に張り付いた前髪を掴み上げた。

    「だから俺もまた容赦はしない」

    また拳を振りかぶった。今度こそ邪悪に満ちた頭を砕いてやろうと。その中で覗き見た瞳はてっきり恐怖に怯えていると思ったが、エディの想像とは裏腹にひどく暗い色を湛えていた。嵐のような暴力への諦念がそうさせる色だった。その瞳に身に覚えがあった。過去の自分自身だ。生まれてこの方、唯一の肉親の注目を集めることもできず、尊厳も自尊心も育めなかった幼い日々の自分だ。父に期待されない。それどこか生すら喜ばれなかった悲しい自分のものだった。振り上げた拳から急激に力を失った。行き場のない暴力が萎んでいく。
    番号が刻まれた囚人服の袖から伸びるクレタスの腕にはほんの微かだが、肉が抉れたような跡が複数残っていた。一回の折檻ではそうはならないだろう。何度もしなやかな鞭状のもので打たれたような、それこそベルトで何度も打たれたような……。意識して見なければわからないほどの傷跡だったが、エディの気分を萎えさせるには十分すぎるものだった。同時に異様な自己嫌悪さえ込み上げてくる。だが同情はしなかった。身を守れなかった過去を持つクレタスを哀れだとは思ったが、同時に言いようのない嫌悪感が後味を悪くさせる。
    エディとクレタスはイカれた殺人者として同じ牢の中に閉じ込められた。エディはそれ以上の共通点はないと思っていた。だがそれ以外の共通点を見つけ出して感じるのはゾッとするほどの侮蔑だった。お揃いの過去を持つことを嘲笑する気にすらならない。
    エディは、自分は努力してきたという自信があった。結局認められることはなかったが勉学もスポーツも努力を惜しまなかった。そうして培ってきたものは全て結果として返ってきていたはずだった。それらの輝かしいものはスパイダーマンに出会うまでの過去の話だったが。だから、この男と自分は違う。そう信じたかった。

    「……俺の、親父もそう言って俺を殴ったよ」

    クレタスがやっとまともな言葉を紡いだ。血で濡れた舌はもつれ辿々しい。だが言葉は澱みなく続けられる。

    「似ているんだよ。ブロック。俺の親父に……。当然、俺にもそっくりだ」

    口の中で固まり始めた血を吐きながらクレタスが口元を拭った。極度の痛みと緊張で軋む腕をついて起き上がる。咳き込み、今にも崩れ落ちそうなほどに満身創痍だった。だが、その瞳は怒りと殺意にギラついていた。殺人鬼が放つこの瞳の輝きがいかに危険かエディは理解していた。その視線を真っ向に受けても戦意は蘇らない。

    「黙れ、キャサディ。お前の妄言に付き合うのはカウンセラーだけで十分だ」

    「なあ……、暴力に正当性はあると思うか?」

    先程までの弱々しい様子とは打って変わった態度に困惑よりも不快感が勝った。その質問もただの狂人の戯言だ。答える気にはならない。
    何より、導き出されるだろう答えは自分の首を絞めることに繋がることを察していた。そして自滅して苦しむ様子を高みから面白おかしく見下ろしたいのだろう。自分を痛めつけた男が自責する表情を見たいだけだ。エディは記者としてのキャリアは長い。インタビューや対談を通して様々な人間と関わってきた。その中には当然、犯罪者もいた。それらの経験がクレタスの歪んだ自尊心を直感させていた。答えるべきではないと。

    「……案外、頭いいんだな」

    暴行の後が残る、生々しい痣が浮かんだ頬を抑えながらクレタスが笑った。ほんのひととき垣間見えたはずの弱さをすっかり隠しながらだ。ついぞ疲労さえ感じなかった腕に急なだるさが襲った。腕に感じる倦怠感が、殴りつけて捲れた拳の皮膚が、シンビオートがエディの中にいないことを物語る。それだけではない。嫌な疲労感だけがエディを襲っていた。

    「お前こそ。お前の殺人に正当性があったとでも?」

    赤い血が滲む拳を指で撫でる。そこに蠢く黒い気配はない。

    「殺したかったから殺した。俺にとってこれ以上の正当性はねえよ」

    エディの肌の下に潜む友はいない。だが、そのかけがえのない友人はエディに一つ置き土産を残していた。以前より輪をかけて強くなった激情だ。理性を忘れているとエディが自覚したときクレタスは殴り倒されまた地面に伏せることになっていた。腕に残るジンジンとした痺れが如何に強く顔を殴りつけてやったのかを実感させる。どこか他人事のように冷めた視線を投げつけておきながら、あまりの怒りで意識が遠のきそうだった。だというのに体はまるでシンビオートに乗っ取られたかのように現実味がなかった。痛みで上下する首を右手が掴み、また壁にクレタスの頭を叩きつけた。左手が伸び、両手で青ざめた首を締め上げる。親指の付け根の下で喉仏が潰れる感触がした。
    殺したかったから殺すのが彼にとっての正当性であれば、これこそ正当性なのだろう。

    「ぁ……、ッが、ぐ……ッ!っヒュ、……ッ!」

    全身の筋肉が隆起するほどに怒り任せにクレタスの首を締め上げる。みるみる鬱血していくも止めてやろうという気持ちはさらさらなかった。こいつを今ここで生かしておくわけにはいかないという良心だ。仮に死刑を待つ身であっても、1秒でも早く葬らなければならない悪の存在を初めて感じていた。

    「……生まれてこなければよかったのにな。クレタス。」

    無意識に溢れた言葉はかつてエディの父に言われたものだった。ひどく複雑な気持ちではあったが嘘偽りのない本音だった。断末魔の苦しみに悶えた結果か。びくついた足がエディの足を出鱈目に蹴り上げる。しかしその程度でよろつくほどにエディはひ弱ではなかった。首の骨まで軋ませ始めた手を引き剥がそうとクレタスの指が触れた。爪が肉を削いでもエディは怯まなかった。
    もしここにいるのがヴェノムであればその首はとうに握りつぶされて地面を転がる羽目になっていただろう。その分、味わう苦しみは一瞬だけだったことは違いない。

    「ッ、……っ!テメー、も、だろ……ッ」

    気道を塞がれてまともに息も吸えていない筈だった。今にも消えてしまいそうなその声は害意にべっとりと塗れていた。その一言だけ絞り出したかと思えば、エディの右目に痛烈な光が弾けた。いいや、感じたのは光ではない。一歩遅れて痛みが弾けた。

    「ッが、ぁ?!」

    無事な左目が捉えたのはクレタスの血の気が失せた白い腕だった。エディの吐き捨てた言葉に反射的に伸ばされたのだろうか。その伸ばされた指の先がエディの右目を突いたのだ。痛みで反射的にクレタスの首から手が緩んだ。潰れたと思うほどに弾けた痛みは鋭く脳天に突き上がる。幸い、酸欠と痛みで震える腕はまともに機能しなかったのだろう。頬を濡らすものを拭うそれに濁りはない。反射と刺激で溢れる涙で視界はぼやけているし、焦点は合わせにくい。だが一時的なものだろう。だが、クレタスはどうだろうか。その場に崩れ落ちて膝つき激しく咳き込んでいた。やっと肺に取り込めた酸素にさえ苦しみながら何度もえづいている。その首にはゾッとするほどに赤黒い指の痣が浮かび上がっていた。誰もが見てもエディの殺意は明らかだった。

    「殺してやる……!このクソサイコ野郎……!」

    表面を爪で押された程度だろうが、膿んだ傷のようにしつこく目が痛む。痛みも加わった憤りは一層強く燃え広がった。そんなエディの殺意も発言も実に嬉しそうにクレタスが肩を震わせた。

    「正義漢ぶるのはもう終わりか?」

    正義を盾にせず、自身だけの怒りに呑まれただけのエディを見てクレタスは実に嬉しそうだった。

    「お前は、……いい父親になれるぜ。エディ」

    なぜ、あんな過去のことを思い出すのかエディには分からなかった。そして今も。正しい父親像なんてものをエディはホームドラマ以外に知らなかった。何となく自分の中にある理想をそのまま模倣しているだけ。息子の話に耳を傾け、可能な限り穏やかに接して、生活に困らぬよう家事をして、それが果たして本当に正しい父親の姿なのかは分からなかった。現実味もない、輪郭すら危ういものを模倣するのが果たして健全な家庭なのか。

    「俺には何も分からない」

    エディが血を分けた我が子であるディラン。彼にとっていい父親である自信がない、とピーターに悩みを打ち明けたことさえもあった。最初はその殊勝な態度のエディに驚きを隠せないようだった。だがやはり彼は親切だった。誰もが憧れるヒーローらしく。自分も実の父親に育てられたわけではないし自信はないけど……、という前置きで答えを口にした。

    「皆、そういうもんじゃない?」

    他人事かと口にしたが、考えてもみれば実際にそういうものなのだろう。いつも遅れて納得する形になるのは自身の成長のしなさにうんざりしてしまうが。
    理想はあれ、必ずしも正しいものはないことをエディは身に染みて理解していた。スパイダーマンとヴェノムで求めた正義が違ったように。今となっては随分遠いところまで来たものだと、窓に残る結露を指で拭いながら思った。
    息子と暮らす一室には淹れたてのコーヒーの香りが満ちて、トースターの中でパンが香ばしい匂いを立てながら焼かれていく。平穏な朝だった。
    この朝に、かつてのエディが切望した父親の姿があることを祈りながらディランがまだ眠る部屋へと静かに足を運んだ。
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    pa_rasite

    DONEブラボ8周年おめでとう文
    誰かが見る夢の話また同じ夢を見た。軋む床は多量の血を吸って腐り始めている。一歩と歩みを進める度、大袈裟なほどに靴底が沈んだこの感触は狩人にとって馴染みのものだった。獣の唸り声、腐った肉、酸化した血、それより体に馴染んだものがあった。

    「が……ッひゅ……っ」

    喉から搾り出すのは悲鳴にもならない粗末な呼気だ。気道から溢れ出る血がガラガラと喉奥で鳴って窒息しそうになる。致命傷を負ってなお、と腕を手繰り寄せ振り上げる。その右腕に握るのは血の錆が浮いたギザギザの刃だ。その腕を農夫のフォークが刺し貫いた。手首の関節を砕き、肉を貫き、切先が反対側の肉から覗いた。その激痛にのたうちまわるどころか悲鳴さえも上げられない。白く濁った瞳の農夫がフォークを振り回す。まるで集った蝿を払うような気軽さのままに狩人の肩の関節が外された。ぎぃっ!と濁った悲鳴を上げればようやく刺さったフォークが引き抜かれた。その勢いで路上に倒れ込む。死肉がこびりついた石畳は腐臭が染み込んでいる。その匂いを嗅ぎ取り、死を直感した。だがこれで死を与える慈悲はこの街にはなかった。外れた肩に目ざとく斧が叩き込まれたのだ。そのまま腕を切り落とす算段なのだろうか。何度も、何度も無情に肩に刃が叩き込まれていく。骨を削る音を真横に聞きながら、意識が白ばみ遠のきだした。いっそ、死ねるのであれば安堵もできただろう。血で濡れた視界が捉えるのは沈みゆく太陽だ。夜の気配に滲んだ陽光が無惨な死を遂げる狩人を照らし、やがて看取った。
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    鼻腔から流れた血で濡れた胸ぐらを掴み、壁際に押し付ける。牢獄の壁はコンクリート張りだ。冷たく硬い無機質さがクレタスの体を通じて伝わってきた。身長差も助けられ、その痩せた体は軽々と宙に浮き上がる。多少の抵抗はあるかと思ったが力なく両足はだらりと下がるだけだった。無抵抗のままでいればことが済むとばかりの様子に一層エディの怒りが湧き出てくる。罪のない市民を喜んで嬲り殺したと語った男のその浅ましさにも、今のこの態度にも。全てがエディの神経を逆撫でする。
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    pa_rasite

    CAN’T MAKE俺に同棲設定は無理だったよ
    供養机の上に置かれているのは真新しいフォークだ。どこでも買えるような安物だがその切先は鋭い。肌を突いてみれば容易く皮膚が裂けて血が溢れるだろう。そんな物騒なことをクレタスは夢想した。だがそれが叶わない妄想だということはよく分かっている。拘束されてもいない腕は自由にならない。害意を持ってそのフォークを握ることはできないのだ。ましてやそれを自分の首に突き立てることだってできない。自由を奪われることは苦痛だ。その苦痛をより上回るのが現状だった。
    陽光が差し込む一室は穏やかな日常そのものだ。机の上に置かれた白い皿が反射して目が眩む。舌打ちをして目を逸らせば陽の光を遮るように腕が伸びた。そうして皿の上に置かれたのは焼き立ての薄いパンケーキだった。バターの溶ける香りはこの状況でさえなければ食欲を誘っただろう。だが今は胃がひっくり返るような拒絶感を招くばかりだ。挽いたコーヒー豆の香りも嫌に脂っこく感じて喉の奥がひりつく。檻の外で、ダイナーでもなく何処かのアパートらしき一室で朝食を用意されるなんて経験はクレタスは初めてだった。だが新鮮な驚きもない。あるのは焦燥感だけだ。どうすればこの現状から逃れられるのかそればかりが思考を渦巻く。
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    過去ログ26全身に走った衝撃と痛みで意識が朦朧とする。受け身も取れず後頭部を叩きつけたせいだろう。薄い膜を隔てたように視界はぼやけて痛みも吐き気も衝撃も、全て現実味がなかった。しかし、現実味がないのは今日だけではなかった。クレタスにとって全てが古いレンズ越しに覗いたように色の褪せた虚像でしかなかった。祖母も母も飼い犬も。
    そんな中、暴力だけが常に自分に親身に寄り添っていたとクレタスは確信していた。家族の虐待も、父の暴力も、孤児院の子供のいじめも全てが自分を親身に育ててくれたのに何故。どうして今となって暴力までもが自分を負けに導いたのかクレタスにはわからなかった。
    焦点が定まらぬ視界に真っ黒な影が落ちる。昔、孤児院で夜中まで起きていると悪魔がやってきて攫っていくという噂が流行ったことを思い出した。フランシスもクレタスもそんな噂話を恐れなかったし、そんなものがいるのなら皮を剥いで標本にでもしようかと肩を並べ語り合ったこともしっかりと思い出せる。あれは、雨上がりの午後のことだった。蜘蛛の巣には雨粒がいくつも煌めいていて、羽をむしり取った蝶を巣に引っ掛けながら話した日のことだった。指についた鱗粉は妖精の魔法の粉のように輝いていた。それをフランシスの手指に擦り付けた瞬間にだけ、クレタスは確かに安らぎを感じていた。その日々さえ遠くに去り、ここにはない。
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