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    sumitikan

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    sumitikan

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    さねひめ、全年齢。モブあり、手も握りません。軽く戦って鬼の首が飛びます。

    #鬼滅の刃
    DemonSlayer
    #さねひめ
    goddessOfSpring

    吉原実弥は鬼殺後の夜明けの田舎道を歩いて、街中の乗合馬車の停留所に着いたのが何時になるのか分からない。朝っぱらから立ちん坊だった。明け方からやたらと風が強い日で、停留所に娘を連れた男が来て、三人で立っていた。

    正面の通りを吹き渡ってきた空っ風の土埃に当てられて娘が咳き込みはじめた。悪い所に入ったのだろう、咳は長々と続いて、ついに娘を連れに来た男がくどくどと叱り始めた。

    「おい、いい加減にその辛気臭い咳をやめねえか。折角いい妓楼を紹介してやろうってのに、お前がそんなじゃ務まらねえぞ。田舎の旦那の使いでのいい後家にしようってんじゃねえ。いいか、吉原ってところは気立てが大事だ、咳なんかしてねえで、どこでも何でも愛想よく笑って見せなきゃならねえところだ。妓楼の遣手や楼主に愛想の一つもよくしなきゃならねぇって時に、なんだお前は、咳なんかこさえてる場合か。こら。親も肋膜でなくしたんなら猶更、意気地ってものを覚えてやってかなきゃならねえのによ。なんだてめえは、ええ?こんこん咳して病人でございだあ?そんな病みついた餓鬼を引き取る妓楼がどこにある。病気もちは俺だって勘弁だ。その咳を今すぐやめろ。やめねえか……」

    さっきから同じ停留所に待っているのは父と娘ではなく、女衒と買われた娘だった。こういうことはよくある話だ。往来を行き来する勤め人達が通り掛かり、たまに人力車や馬車が行き過ぎて行くのをぼんやりと眺めていた。馬車は来なかった。

    鬼殺の後は藤の家で休みたいが、この辺りにあった藤の家は暖簾を下した。父祖の代から続いていた家の主人も代が改まり、やめることは産屋敷家に届け出があった。藤の家が畳まれるのを聞いたのはこれで二度目で、逆に藤の家が出来た話もぽつぽつ聞いた。

    昼は眠い。それまでに寝床に潜り込めればどこだっていい。実弥はそんな気持ちでいた。娘の咳は収まらず、女衒がいつまでも娘を責めていた。

    両親を亡くして吉原に売られる娘の身の上を聞いて、実弥は一人しかいない弟のことを思い浮かべていた。吉原で働くということは、吉原以外ではやって行けなくなる体になるということで、それは女ばかりではない。男もそうだ。背肌に墨や朱を刺して、身分を弁え、女たちの用を足す。あの世界の上下は厳しいと聞く。まさかそんな所にはいないと思う。思いたい。

    馬車は来なかった。男の繰り言に終わりはなかった。聞いていると鬱々としてきて、嫌な気持ちになってくる。玄弥の奉公先での扱いの程が思われて気持ちが塞いだ。この女衒の根性悪の口の嫌さに、いっそ歩いて街道を行こうかと思い始めた。

    そこに、枝道から通りに入ってきた人影があった。その背の高さを実弥は一人しか知らない、悲鳴嶼だった。この街道沿いの停留所に来たという事は、藤の家がなくなったからだ。彼を眺めた、歩いて来る横に妙な禿頭の男がついていた。

    「あんたが優しいってのは分かってんだ。ええ、道に倒れた年寄りを運んでやるなんて、この頃じゃ滅多に見ない心映えだね、うちは丁度そういう気の優しい力持ちを探してた所なんだよ。縄抜けの人がちょっと腰をやってしまって、出し物に穴が開いてしまう。そこをね、あんたの怪力でちょっとやるだけでたんまりと金になる。ええ、力がある所を見せるだけですよ。そりゃ勿論、うちに場所代は払って貰うことになるけれど」
    「済まぬが、私の力は他に用のあるもので、見世物にはあまり向かない。他を当たってくれないか」
    「そんなことを言わずに、お願いしますよ旦那。旦那が人助けをするお優しい方だってことは知っていますよ。しかも心映えこそ素晴らしいが大事な両の目の玉が見えないときた。その分だと色々とお困りでしょう。目の見える頼りになる人が必要でしょう?ええ?盲と言われて往来を追い払われたことは?店先で買い物をする時に、一厘一銭五銭玉をわざと混ぜて渡されて困ったことがあるんじゃないですか?不当に取り分が少なくなっていたなんてことが、これまでにもあったんじゃないんですかい。見えないもんは仕方ない、けれど、横に目明きがいて教えて守ってくれりゃと思ったことは?だからそこをさ、私たち一座が助けてあげようじゃないか、という話なんですがねえ……」

    禿頭の男の言いざまを聞いて、実弥の機嫌は臍を曲げた。仮にも鬼殺隊最強にそんなことを言って詐欺同然に身売りさせるなど、見過ごすことは出来なかった。

    実弥の苛立たしさに拍車をかけたのは悲鳴嶼の従順な態度もあった。鬼殺で最強という力のある男だというのに、健常人が弱みに付け込んで来るのを許しているように見えたのが歯痒かった。

    「オイそこのハゲェ」
    「ああ?なんだってえ?」
    「俺はその人の連れだよォ。ここで待ち合わせしてたんだァ。さっきから口先だけは偉ェようだが、どこのスジのチンピラだてめえはァ。おう、とっとと俺の前から失せやがれェ」

    実弥は凄んだ。顔と体の傷を見せ、この身丈の筋骨のある自分から凄まれるのはかなりの圧だと分かっている。禿頭の男は実弥の風体を見て、その顔の傷と腰の刀に特に注目したようだった。すぐ顔をしかめて唾を吐いた。

    「チッ!もう筋者が目ェつけていやがったかよ。てめえもはっきり一家のもんになったんだと言いやがれ、デカブツのウスノロが!この盲の独活の大木め!見えねえ癖に人に損させやがって!畜生が!!」

    後ずさって離れながら言いたいだけの悪態をついて、禿頭の男は半ば怒ったような足取りで停留所を後に、元の枝道に急ぎ足で戻って行った。その気配を視線で追ってから、悲鳴嶼は実弥を見た。

    「不死川、いたのか」
    「いたのかじゃねェ。絡まれてるのに何で断らねぇんだよォ」
    「南無。そうだったのか、それは助かった」
    「あのまま見世物に売られてたらどうしてたんだァ?」
    「……売られるって、もしかして私がか?」

    全く予想外という表情で、実弥は呆れていた。

    「ありゃあそういうやり口ですよォ。あの男はアンタをまるめこんで見世物をしている旅の一座に紹介して、一座とアンタの両方から紹介料をせしめようとしたチンピラですよォ」
    「南無……そんな稼業があったとは、知らなかった」
    「あんなそこらにある手口に引っかからないで下さいよォ。ほんと気を付けてくれませんかァ」
    「ありがとう不死川、私を助けてくれたのだな。私は少しも気付かなかった。あの男が付いて来た理由が何のことかも分からなかった。私は売られる所だったのか……?」
    「ええ、そうですよォ。ついて行ったらアンタは旅の一座の厄介になっていたでしょうねェ。それで日輪刀はァ?」
    「壊れたのを隠が回収して、替わりの物が家に届く手筈になっている。問題ない」

    悲鳴嶼が無手でいるのは、そういう理由があるらしかった。この辺りに藤の家がないというのは、今後の鬼殺隊士の苦労の種になるだろう。

    二人の会話を、間に挟まれた女衒が頭越しに聞かされて、愚痴はふっつりと止んでいた。二人の男が筋者らしいと見当をつけたか、それから黙りこくって、娘の咳に小言を言うでもなかった。咳をしていた娘は悲鳴嶼のあまりの大きさに見上げてぽかんとした顔をしていた。

    「この図体にそんな利用の仕方があるとはな……慧眼に恐れ入る」
    「馬鹿言わないで下さいよォ。一体、何やってあんなのに目ェつけられたんですかァ?」
    「そうだな。最初は、朝の散歩をしていた老人が倒れ、側にいた若い女性が困っていたのを、家まで運んであげたのだ。どうやらそれを見られていたらしい」
    「……」
    「その家から停留所まで尋ねて来る間中、ずっとついて来て喋り通しで、何のことか分からなかった。まさかそんな形で金を取ろうとはな……あれが因縁をつけると言うものか?」
    「因縁をつけるってェのは、もっと脅しつける時ですよォ」
    「南無……」
    「アンタって人は、見えないけれど心の目で何人も人を見て来た、とか言う割には世間知らずなんだからァ。ちゃんと気を付けなきゃだめですよォ」
    「南無、済まぬ。面目ない」
    「わかりゃいいんですけどォ」

    大きな男二人に挟まれるように、女衒と娘は立っていた。日が高く上がっているのか、薄曇りの雲に遮られて分からない。風ばかりが強く吹き付けて来ていた。

    そうしてどれだけ立って待っていただろうか。体感で昼時も過ぎたかという頃に、人が数名やってきて言った。

    「おうい、あんたら、馬車は来ないよ」
    「え……?」
    「あたしらは乗合馬車の会社の者で、こうして停留所を回って歩いて、欠便の札を張りに来ている所だ。ここに来るはずの馬車が壊れて、動かんようになった。たった今から欠便だ。いつ直るかわからん」
    「ええ、そいつは困るよ。明日の夕までの仕事があるんだ」
    「だが直らんのだから仕方あるまい」

    停留所の札に、糊で欠便と大書した紙を貼り、男たちは次の停留所に向かうようだった。

    「……こんな所に宿なんてねェだろォ」
    「いや、一軒ありやすぜ、旦那」

    女衒が初めて実弥に口をきいた。


    宿の部屋はあいておらず、一階の広間に女衒と娘と同室だった。悲鳴嶼と一緒に名刺を出して宿帳に名を書いて貰い、実弥は早速宿に頼みごとをした、飯を食ってさっさと寝たい。朝飯もまだだったから、塩鮭と麩の味噌汁で飯を五杯も食べた。それは悲鳴嶼も同じで、宿では米の追い炊きをしているようだった。

    広間は古く、あちこちから煙草の脂の匂いがしていた。布団は干してあるようだったが、押し入れの匂いが染みついていた。実弥は刀を布団の中に入れた。そのことについてだろうか、女衒が何か口の中でぼやいているのを聞きながら目を閉じた。

    覚めたのは、午後も遅くなってからだった。実弥の隣に敷いた布団で、悲鳴嶼はまだ眠っていた。小さな布団に体を折り畳むようにして、不自由そうな寝相だった。

    起き上がって部屋の中を見回した。女衒はどこかに出かけていて、小さな娘がぽつんと座っていた。

    「すまねェがァ、水でもないかァ」

    声を掛けると、娘は立って部屋の襖を開け放して出て行った。せめてと思って寝る前に脱いだ羽織を着なおした。布団を畳んでいると、悲鳴嶼も目を開いた。

    「起こしましたかァ」
    「……何時だ?」
    「俺も今起きた所で、時計はまだ見てないですねェ」
    「そうか。後で教えてくれるか」
    「ええ」

    悲鳴嶼も起きて布団を畳んだ。衣桁に掛けておいた羽織を肩にする。

    「私は絶佳を報告に行かせたままだ。お前は?」
    「同じです。後は帰るだけなんですがァ……」
    「仕事は明日以降のこととなりそうだな」
    「動きようがねェ。大人しくしてますよォ」
    「明けたら街道を行くか……」
    「夜のうちに行かねェんですかァ?」
    「夜は鬼が出る。私は無手だ。戦えない訳ではないが、やめておきたいな……」
    「わかりましたァ」
    「偶にはお前と昼の道を歩くのもいい」
    「そうですねェ」

    話していると、娘が戻ってきた。手に麦茶の薬缶を持ち、宿の女中が切った真桑瓜を持ってきた。布団を敷いていたから片寄せられていたちゃぶ台の上に品が並べられて、娘は皆に茶を注いだ。

    ちゃぶ台の回りに座り、それぞれ皿に瓜が乗った。俯きがちの娘に実弥は聞いた。

    「お前、名前なんてえんだァ?」
    「……フキ」

    そう言って娘は含羞んで俯いた。悲鳴嶼は黙って瓜を口に運んでいた。実弥も今夏で何度目になるか分からない瓜を食べた。甘い汁を含んだ実が涼しかった。

    「どこから来たァ?」
    「蔵利……」
    「どこだァ?」
    「ここから五里ほど離れた村ですよ。去年から肋膜がひどく流行ってるって話で、誰もあっちには行きたがりません。あそこから来たのかい」
    「……」
    「まさか病気なんて持ってないだろうね?いやだよ、この子は。移さないどくれよ」

    娘は女中の問いに俯いて答えなかった。女中は瓜を運んできた盆を置いて、客用に置いてある湯呑に自分の分も麦茶を注いだ。午後の休憩をこの部屋で取る気でいるようだった。

    「この辺はね、このところおかしな話が多いんですよ。肋膜が流行る話も嫌ですけど、なんだか夜に人が居なくなるというんです。不気味な話で、嫌ったらないですね」
    「人がァ?どんな風にィ?」
    「さあ、私は見た訳じゃないですけど、それでいいなら」
    「ああ。教えてくれるかァ」
    「ええ、なんでもね、家の人が急にいなくなるって話ですよ。朝方起きたら、隣にいた布団の中にいないもんだから探しに出ようとしたら、玄関先の突っかけが無くなってるんだとか。突っかけが、外に出てちょっと行った道端で落ちているって。そこらに寝る時に着ていた寝間着が落ちているとかで、裸で一体どこ行くっていうんだか。とにかく、そうやって消えた人は絶対に見つからないと噂になっているんですよ。……そんな話が三つ向こうの町からこっちまで来ているようで、なんだか気味が悪くってね」
    「へェ。そいつはまた不気味なもんだなァ」

    女中の話を聞きながら、この辺りを鬼がうろついているのを実弥は確信していた。悲鳴嶼は黙り込んで黙々と食べ、娘も一切れの黄色い実にありついて夢中だった。

    「そうなんですよ。不気味なんです、人を捕まえて売るにしたって、若い子ならわかります。裸にして抵抗できなくして、吉原や大陸に売るとかの話なら。そういう悪い奴らがいるのは、私だって分かっています。でも違うんです。隣町ではその証に、年寄りが何人も取られたって話です。それがなんだか恐くって仕方ないんですよ。このことを巡査に訴えたところで注意するの一言で終わっちまうし。警察なんて役に立たないもんですよ、事件が終わった後に来るんだから。全く……」
    「寺には行ってみたのか」
    「ああ、坊主はだめ。金払いのいい檀家の相談には乗るけど、腰を上げて本山に聞いてどうにかしようという気はないようで。経文を唱えに来ちゃあ慰めてくれるけど、心付けが要る人達で、あんまり実になる話には……。結局、旦那や妻が逐電したって話になっちゃうんですよねえ。どこの馬の骨と手を取り合って落ちていくのか、どうしたって聞こえは良くないもんですから。消える前に家の金を一銭も持って行かないのはおかしいって話してはいるんだけど……金も持たずに、裸でねえ……一体どこに行くんだか……老人ならボケて徘徊して川に落ちたという話になるし、子供だったら人さらいがいると騒いで。この辺りじゃそんな風に、あちこちで人が消えてね」

    女中は湯呑の麦茶を飲んで、ぼんやりと手元を見ていた。悲鳴嶼は何でもないように二切れ目の瓜を手に取った。実弥も皮を置いて、もう一切れを手に取った。

    子供の頃の真桑瓜は高級な御馳走だった。切り分けるといくらも食べない内に終わってしまう。実弥は長男だから瓜を食べるのに不平等がないか弟妹を見る役目を玄弥と分け合っていたのを思い出していた。

    娘は瓜に夢中でかぶりついていた。悲鳴嶼は二切れでやめて、残りを娘の好きにさせる気でいるようだった。いつもより消極的な優しさが不自然だった。悲鳴嶼はかつて寺に子供たちといた。ならば、この娘くらいの子供も扱い慣れているだろう。

    いつのことだったか、悲鳴嶼は財布丸ごと五十円出して心中の男女の命を買った事がある。今度も財布を与えて娘を買うかと実弥は内心で心配していた。いまのところ娘を買い取ろうという気はないようだった。大体買い取ったところでどうするのか。置く場所は岩屋敷か育手の家か。結局この娘を殺すのか、藤襲山の試練で、日々の鬼殺で。

    花柳界は苦界だが、鬼殺隊も輪をかけて苦界だった。隊士になれずに隠になったからと言って無事に済む訳ではない。甲の隊士が女の隠に無理無体にしてしまったという不始末の話を実弥も聞いた事がある。夫婦約束はせず、女の隠は産屋敷家の手で外に奉公を得て出て行き、甲は結局闘死した。

    悲鳴嶼は娘を助ける気はないのか、じっと見守っているだけだった。実弥の財布には二十円ほど入っていて、宿の支払いは産屋敷家につける気でいたから、悲鳴嶼から借りれば娘を買う分の金はあった。悲鳴嶼はあの時とは違って娘に入れこまず、よそよそしい態度を貫いていた。

    「悲鳴嶼さん。今財布に幾らあるゥ?」
    「前と同じ、五十円と少しだが……」
    「そうかァ」

    悲鳴嶼がなぜそんな大金を持ち歩いているのか、心中の男女を財布ごと買うなら、この娘を買っても良さそうだが、そういう気配は見られなかった。不思議と無関心に冷たい態度が不可解だった。売られて行く娘は哀れで、十分に彼の涙を誘うのではないかと思うのだが。

    娘は取り分の瓜を食べてしまうと、盆の上に残った二切れをじっと見て、周りの男と女中の顔を窺うようだった。

    「……そこの瓜はてめェんだ」

    実弥が短く声を掛けると、ぱっと目が輝いた。実弥がわざと残した西瓜の一切れを貰った玄弥の幼い顔が重なって見え、どこかが痛んだ。情が移りそうで困った。いや、もう移っている。
    悲鳴嶼は固く黙り込んだまま、麦茶を飲んでいた。

    悲鳴嶼から借りれば娘を買える。買ってどうする。行く末は鬼殺隊士か隠にするか。この娘が嫁に行くまでの間の面倒を見られるのか。

    無心に瓜を食べている頬に妹の横顔を思い出す。十になる前に儚くなって、実弥は玄弥と荼毘の火を見た。他にすることが何もなかった。この世の全てが色を失い擦り切れて褪せていた。


    「女中の話ですけどォ」
    「ああ」
    「どう思いますゥ?」
    「鬼だな」

    悲鳴嶼は麦茶を飲んで、のんびりした顔で話し始めた。廊下の奥にある厨房から、女中が娘に何か話している声が微かに聞こえた。

    「鬼は外に人を誘い出して食っている。人が素直に家を出て食われているところが不可解だ」
    「血鬼術かなァ?」
    「そうだな、夜中に人に疑われずに外に呼び出す。声に関わる血鬼術だろうか?人のいる屋内に呼び掛けて疑われない声……一人ずつ路上で食べるようだな。食べている所を見つけられたらいいのだが」
    「チッ、こういうのは探しにくいぜェ」
    「不死川。鬼がいることをまず鴉に伝えなくては」
    「まだるっこしい事を言いますねェ」
    「鬼殺途中で見つけた鬼を退治することはままあるが、今回はそれとは違う。まだ鬼の噂話でしかない。話だけならば確かに鬼だが……」
    「アンタは休んでろよォ。こいつは俺の獲物だァ」
    「ならば、もう少し寝るといい。お前は今夜から歩き通しになるのだから」

    悲鳴嶼に勧められて、実弥は大人しく布団に横になった。目が覚めたばかりで、とても眠れる気はしなかったものの強いて目を閉じた。娘が戻ってきた気配がする。悲鳴嶼を見て遠巻きに座敷の中に座るのが分かった。

    ふと気が付いたのが、女衒の吸う煙草の臭いだった。旅館は電気が点いていた。

    「起きたか」
    「ええ……」
    「先ほど女中に聞いた。夕刻の五時半だそうだ」
    「飯はァ?」
    「炊ける匂いがしたから、もうじきだろう。私達は客としては遅く着いたし、もう少し待つことだな」
    「それでも客は客だ。しっかり賄って貰わねぇと。払うものは払うんだからな」

    女衒の言葉に悲鳴嶼は逆らわなかった。

    「待てば賄いは来る。怒る事ではない」
    「怒ってなんかいねえよ。ただ馬車がな……チッ、ついてねえ。人に聞いて電話を借りに行ったが、無駄足になったのが腹が立つねえ」

    そう言って、男は無遠慮に煙草を喫んだ。部屋の中に煙が濛々としている。娘が立って襖を開け放し、その襖の側に座って俯いていた。

    帝都の下町では自働電話が五分で十五銭ほどで、使ったことはないが使える話は知っている。それを使うほどの値か、それ以上を求められ、女衒は金を払う心算もなかったのだろう。市外電話は高くつく。

    実弥は布団を畳み、刀を膝の側に、少しひげが伸びて来ているのを撫でた。女衒の男は人の値が上がっていることを話し、悲鳴嶼が相槌を打っていた。この娘はせいぜい並玉がいい所で五十円が相当だと評し、言われた時の娘が無気力で、その様が痛々しかった。

    先に来た人々に配られた後で、広間にも食事の膳が運ばれてきた。塩鮭に厚揚げと菜のおひたし、塩わかめの味噌汁だった。煙草の煙の匂いの残る中で黙々と食べた。

    まだ日は沈み切っていなかった。女衒の男はゆっくりと食後の一服をつけている。娘が麦茶を貰いに厨房に行ったのは、煙草の煙が嫌なのだろう。実弥はただ時を待ち、悲鳴嶼は何を思うのか、彼ならあの娘に哀れみを掛けそうだと思っていたのが予想外に冷たくて、実弥も戸惑っていた。

    売られる前に買い戻す。そんなのは自分の役柄ではない。悲鳴嶼の感じやすい情動が人助けをすることだ。自分の抱いた情が苛立たしく邪魔に思えた。それ所ではなかった、鬼殺だけを考えていたかった。

    時が過ぎ、女衒は宿に酒を一本頼んだ。娘は麦茶を皆に配り、その後はじっと蹲っていた。

    「済みません。警察です」

    そんな声が玄関先から聞こえてきた。誰も何も言わなかった。宿の大玄関の扉をどんどんと叩く音がした。「警察です。すみませんが」もう一度言って扉をどんどんと叩いた。宿の女中が遠い所ではいと答えた。

    「……あ。これかァ」

    実弥は納得して立ち上がり、刀を腰に差した。警察が相手なら、誰でも気を許して突っかけを履いて玄関先に出るだろう。話があるからと路上に誘い出され、そこで食われる。

    実弥の納得を聞いたからか、悲鳴嶼は何も言わなかった。実弥は大股に広間を出て、廊下を小走りに来た女中に言った。

    「あの警察は俺に用がある。俺が出るゥ」
    「え、ええ、そうですか?……」

    実弥が刀を腰に差しているのをちらりと見て、背に殺と大書した羽織を着ているのも知っている。女中は大人しく引き下がった。

    雪駄を履き、玄関先の扉をがらりと開けて外に出て、ぴったり閉める。戸一枚向こうの夜の世界に実弥は立った。鬼は警察の制服を着て、路上に立って実弥を見ていた。濁った眼は、どうやら驚いているようだった。

    どうやってか知らないが、鬼は柱の姿を知っている。この鬼も実弥の顔と、何者なのかを知っていた。

    鬼は腰に手をやり、官給品によく似たサーベルを抜こうとした腕を実弥は抜き払いざまに斬り落とした。鬼は猫の威嚇するような声を上げ、腕が生えてくる前に実弥は踏み込み、首に横薙ぎの一閃を食らわせていた。驚いた顔をした首がごろりと落ちた。

    「ケッ、雑魚鬼がァ」

    それで今夜は仕舞いのようだ。実弥は納刀し、月夜を見上げた。また布団の中に寝転がって眠れるだろうかと、寝ることに憂いていた。足元の鬼はどんどん崩れていた。

    そこに玄関の戸が開いた。女中が外を覗いていた。

    「あの、警察は?」
    「帰ったァ。俺じゃなかったァ」
    「あら。そうですか、何の用でした?」
    「なんでもねェよォ。泥棒が出るとかで、戸締りしてるかって話でよォ。てっきり俺の係りだと思ったんだが……」
    「そうですか。旦那は一本つけますか?」
    「いや、酒はいい」

    実弥は踵を返し、女も玄関の中に入った。実弥が部屋に戻ると、それまで長々と何か言っていた女衒が押し黙った。どうやら娘相手に小言を言っていたようだった。親切心で言うのは分かっていたが、聞いているのはやりきれなかった。

    「お布団はどうします?」
    「じゃあ、頼もう」

    男は膳を持って襖の方に移動した。女中はちゃぶ台を壁に立てかけ、娘に麦茶の薬缶を厨房に運ばせた。悲鳴嶼は立って廊下へ出て、実弥もそうした。

    「雑魚鬼でしたァ」
    「ああ」
    「似たような手口が他にあるかもわかんねェ」
    「そうだな。警察ですは、うまい手だった」

    悲鳴嶼の口元に憫笑が浮いた。彼がこんな笑みを漏らすのは珍しかった。知らない顔を見つめながら、実弥は聞いた。

    「アンタ、あの娘の事情には涙を流さないんですねェ。心中を買った時とは違って、金を出す気もないようですがァ」

    悲鳴嶼が返事に詰まったのが分かった。見えない目で実弥を軽く睨むように見た。先ほどとは変わって憂いの顔が珍しく、寺にいた子供たちと何があったか、この場で話すことはないと思えた。実弥もそれを聞いて受け止め切れる気はしない。悲鳴嶼は傷付いた顔をしていた。

    「まァ、いいけどォ。俺としちゃァ、アンタの財布借りる話ができりゃそれでいいからァ」
    「……いや。あの女衒とは私が話しをつけよう」
    「そんなこと出来るんですかァ?」
    「できる。寺にいた頃は、子供に集る女衒をあしらっていた。交渉の仕方は私の方が知っている……だが、その後のことは頼んでもいいだろうか?」
    「後ォ?」
    「私の家は学校まで遠いんだ」
    「あァ。まァ確かに……うちも、ちび一人くらいなら、まァ。風屋敷は部屋が一杯あるしィ。学校ねェ?」
    「少し学ばせてやるといい。継子でもない子供をいつまでも風屋敷に置くわけにもいかぬだろうが、行き先がないと言うなら、隠の仕事を覚えさせるのも一つの道だ」
    「まァ、まずは身を買い戻さねえことには、学校の話もできませんがァ」
    「買取は明日の話だ。あの男は今は酔っている」

    布団を敷き終えた女中が出てきて声を掛けてきた。実弥と悲鳴嶼は部屋に戻った。娘はもう布団の中に入っていた。女衒は一合の酒をちびちびと未練たらしく舐めながら二人を見ていた。

    顔の傷、殺の羽織に腰には刀。これで実弥に声を掛けてくる者は、最初からおかしい。鬼殺の為にだけ生きている自分が、娘を預かる。

    「そうだ。お館様には黙っていて下さいねェ」
    「南無」


    夜明けに起き出し、宿の使っている井戸回りで揃って朝の支度をしていると、飯炊きが水汲みに来た。部屋に戻っても、女衒はまだ高鼾でいた。娘は早くから起きて、布団も自分で畳んでいた。実弥と悲鳴嶼が井戸から戻ると、何か用がありそうに寄ってきて、二人の前でお辞儀をした。

    「何だァ?」
    「おじさん。瓜、おいしかった。ありがとう」
    「ああ……」

    細い声をしていた。娘から名を聞いたのを実弥は思い出そうとした。確か、フキと言っていた。どう言葉を掛けていいか実弥には分からなかった。妹はいたけれど、こんなに大きくなかった。やがて別れた玄弥と同じ年頃の娘ということに気が付いた。

    「確かお前は、フキと言ったな」

    悲鳴嶼が実弥の後を次ぐようにして話しかけ、娘は頷いた。悲鳴嶼の大きさに少し怯えて、彼が屈んで来たのに、実弥の足元に少し寄ってきた。

    「おじさん達は、フキと一緒に来たおじさんに話がある。これから吉原に行くそうだが、鉄道を使って行くと言っていたか?」
    「ううん」
    「そうか。なら、おじさん達とフキ達は、同じ道を歩くことになる」

    娘は言葉では何も答えず、実弥の側でじっと固まっていた。その頭の位置をどう知るのか、悲鳴嶼は娘の頭を撫でた。触れられた時に、びくりと怯え、なされるままだった。
    悲鳴嶼は姿勢を直した。

    「あの男とは宿を出てから話をしよう」
    「はい」

    足の側にいる娘をどうしていいか分からない。厨房の忙しそうな気配がばたばたしている中で、実弥と悲鳴嶼は話しやすい位置に腰を下ろした。娘は部屋の端に座った。

    朝食を待っている間に、廊下を行き来する足取りが部屋に順番に膳を配っている気配が慌ただしかった。

    「お館様に言わずに済ませたいと言っていたな」
    「はい」
    「なぜだ?」
    「俺の所は蝶屋敷とは違うんでェ……」
    「話した方が楽だと思うが。私が引き取ってもいいが、山の中に隠と二人、ちいさな娘には気詰まりな暮らしになる」
    「そうですかァ?あの隠なら読み書きそろばん、家の事から何につけても教えられるんじゃないでしょうかァ。うちは学校は近ェかも知れませんが、むさくるしい男所帯ですから」
    「むさくるしいのはお互い様だろう」
    「そりゃあ、まァ」
    「まず、こういうことは本人に選ばせるのがいい」

    悲鳴嶼は微かに笑んだ。答えを知っている笑みだった。娘に選ばせるにしても宿を出てからの話になる。実弥はあの娘に玄弥を重ねて思い出していた。あの娘ほど小さく細くはなかったが、肉のつかない質で細身だった。弟もこんなに小さかった。ああいう風に陰気に俯いて居られると、玄弥がどこかのよそよそしい部屋の隅に遠慮しているのだろうかと焦れた。

    今はどうしているだろうか、便りもなく、実弥も探そうとはしなかった。柱になった姿を玄弥には見せたくなかった。夜を鬼殺に荒ぶる道など歩ませたくなかった。こちらに来ずに、普通の暮らしをして欲しい。

    溜息をひっそりと吐いて、やっと女衒が目を覚ました。布団の中からのっそりと起き上がり、のろのろと部屋を出て行った。彼が出て行って暫くしてから膳が運ばれてきた。飯と味噌汁と沢庵に、ひじきの煮ものがついていた。

    二人は申し合わせたように、わざとゆっくりと食べた。食事を済ませて前後して宿を出る。宿代の三十銭ほどを支払う時に、女衒は連れは子供だから半額にまけろ等と暫く帳場とやり合って、警察を呼ばれる寸前まで行った。

    そういう二人連れの、娘の足は遅かった。街道に出るまで暫く、実弥は懐の財布を渡し、悲鳴嶼はその中身を確かめた。それから数歩先を進んで行く二人に声を掛けた。

    「もし。そこの女衒さん……」

    女衒が足を止め、実弥も足を止めた。道端で悲鳴嶼と女衒が話していた。その話声は聞こえなかった。夏の朝の涼しさは終わりかけていて、強い日差しが罅割れた道を照らしていた。昨日は聞こえなかった蝉が鳴きはじめていた。

    交渉は長くかかりそうだった。実弥はこわもての自覚があった。脅されたと言われ、それが原因で交渉が決裂するのは嫌だから、離れて立っていた。

    自分に都合のいい夢を見ているのは分かっていた。心中者を財布ひとつで掬おうとした悲鳴嶼に、何を言うことが出来る。あの娘が別れた頃の玄弥と同じくらいの年頃だから情を移した。それだけのことに、鬼殺隊最強に娘の下取りなど下種な交渉をさせて、反省と悔恨の思いでいた。娘は実弥をじっと見ていて、それを見返すと、怖じたように俯いた。昼間の鬼殺隊は間抜けだった。

    暫く、二人は何かのやり取りをした。女衒は娘に何かを言いつけて街道を逆側に向かい、悲鳴嶼と娘はその場に立っていた。悲鳴嶼は実弥を振り返り、手招きをした。

    実弥が着くと、悲鳴嶼は財布を渡してきた。中を見ると、十円と少しほどが残っていた。もしかすると悲鳴嶼は一銭も持っていないかも知れなかった。

    「高橋フキ、と言うそうだ。今年で十になる。蔵利で一件しかない雑貨屋の娘だった。上の姉が新潟に嫁いでいる。両親が労咳で相次いで亡くなり、頼った父方の親戚に売られ、戻りたくないそうだ」
    「わかりましたァ」
    「フキ。私とこのおじさんと、どちらがいい?」
    「こっち」

    娘は実弥を指さした。悲鳴嶼は下取りの値も言わずに微笑んでいて、実弥は指されて困惑していた。悲鳴嶼が娘に聞いた。

    「どうして、このおじさんがいいんだ?」
    「名前を聞いてくれたから……」
    「俺がいいのかァ?」
    「うん」
    「顔と体におっきな傷があってェ、刀持っててェ、恐い顔だろうがァ。背中に恐い字のある羽織も着てるだろォ。なんで俺がいいんだァ?」
    「瓜、食べていいって言ったから……」

    娘は実弥をじっと見上げてから俯いた。親を亡くして売られて行く子供を引き取って、これから面倒を見る。隠にするのが一番の近道だろうという事は分かっていた。

    実弥の視線に耐えられないように、娘は俯いて、体の前で両手をぎゅっと握っていた。

    「不死川。そういうことだ」
    「……」
    「この娘は、私よりもお前のことが気に入っている」
    「……」
    「子供というのは純粋無垢で弱いものだ。守ってやるといい」

    悲鳴嶼の声音がいつもよりも随分と優しい気がした。実弥は娘の頭に手を置いて軽く撫でた。

    「よろしくなァ」

    歩き始め、ほんの数十歩もいかないうちに、娘が走って付いて来たから、背負うことにした。実弥は膝をついた。

    「乗れェ」
    「……でも」
    「急ぐんだァ。早く乗れ」

    おじけた体が背に乗った。悲しい位に軽かった。揺すり上げて、体がしっかり安定したか、陽炎の中を歩き出す。

    「ねえ、重いでしょ」
    「てめェはもっと飯を食えェ」

    娘は背中で遠慮の塊だった。悲鳴嶼が微笑んでいた。彼は寺で子供達と一緒に暮らしていて、実弥は大家族の長男だった。子供には慣れている筈が、上手く行く気がしなかった。

    「お館様には私から話そう。女の子を拾って風柱に押し付けた、と言っておけばいい」
    「別にそんなことして欲しいって訳じゃねェ」
    「私の好きでしたことだ。私の我儘に実弥が付き合い、フキが実弥を選んだから背負って運んでいる」
    「チッ、そういう勝手な説明つけるんですかァ」
    「だめか?」

    悲鳴嶼の声は笑みを含んで、彼は涙を流していた。実弥と娘と、おそらく過去に共に過ごしていた子供たちへ向ける笑みだと実弥は思った。自分がまるでその頃に悲鳴嶼の側にいた子供のように思われているようなのが、少し癪だった。

    「アンタ寺の子達になんて呼ばれていたんですゥ?」
    「先生と」
    「先生ねェ」
    「めいちゃん先生と呼ばれたな」
    「ハァ?何それェ」
    「私の名が行冥だから」
    「ああ」
    「その頃の私は痩せて、気弱で。大声を出したこともなかったし、自分が強いことを知らなかった」
    「……」
    「でも、毎日がとても幸せだった。フキの様子を見ていると、子供たちのことを思い出してしまう……だから実弥が引き取ってくれて、私はほっとしているんだ」

    何があったか知らないが、悲鳴嶼は子供が苦手になった。その割には実弥を子供扱いしてくる実感がある。わざとではなく身に沁みついている態度で、それが悲鳴嶼の悲しさだった。
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