鬼ヶ淵有名になるといけないから、言わずに秘密にするんだよ、と上座で耀哉が囁いた。心中がその川の淵に沈むのは昔から有名だけどと前置きをして、身投げが沈んで浮かんでこないという噂がそれとなく、隠が調べに手をつけた。
九月の初めに二件の男女が、四人とも消えてしまった。警察は行方不明事件としたが、行方不明の件数がその地域だけ多い。遺言を手掛かりに探しに来た家族に聞いた。十七歳の娘と二十一歳の男、十九歳の娘と二十五歳の男、分かっただけで四人が消えた。四人の荷物を保管していた二軒の旅館にも聞いた。この辺りの川に身投げをする男女が、年に十件もあるらしいと調べがついたが、ここ数年はいずれも旅館に荷物を残してふと消える。探しに来る人も居らずで事件にならない者も少なくない。
江戸を落ち手を取り合って鬼ヶ淵とは地元の古い川柳に詠む、鬼殺隊の記録によれば、寛政の頃に鬼殺隊士が斬った鬼の首が沈んだ淵があると言う。それを鬼ヶ淵と地元で呼んでいるそうだ。
その淵に浮かぶはずの心中者の遺体を見ない。追剥が下着まで盗ったとしても体は残る。逆に鬼なら着物などは食わずに捨てる。痕跡がないか調べさせているが、耀哉はこれは鬼だと思うと静かに実弥の目を見て言った。耀哉の直観が神が指すように当たるのは、鬼殺隊なら誰でも知る所だった。
実弥は鬼殺隊の制服の上から外套を羽織り、刀を落とし差しにした。秋風冷たく冬を目指す季節に旅行でもない。なにか仔細ある人のふりをして、温泉近くにある数件の旅館のひとつに隠がいると聞いていた。
実弥は汽車で温泉の出る駅に着き、そこから馬車に乗った。駅から離れた旅館の名を告げたから、そこまで十五銭で送って貰う。荷台の揺れが尻に痛かった。鬼殺で旅館に泊まるのは初めてだった。
旅館に着いたら、宿の者が女将を呼んだ。
「これはまあ、遠い所からいらっしゃいました。悲鳴嶼様から何方か来ることは聞いておりましたから。あ、そうそう宿帳に御名を……」
言われて思わず固まった、そこに隠が外からやって来た。
「風柱様ですか。馬車に人影が見えたので、急いでここまで来たのです。柱が二人とは心強いことです」
隠がその場に膝をついて頭を下げる。実弥はつとめて何でもない素振りで指図した。
「……宿帳に俺の名を書いといてくれねェか」
「はい」
「済まねェ」
「いえ。ご住所は?」
住所を言うと、その隠はよどみない手つきでさらさらと書き記しながら伝えてきた。
「桐の間に岩柱様がご逗留していらっしゃいます」
鬼殺隊最強が来ているならばそれで済む。なぜ実弥が派遣されたか、不思議に思いながら足をすすいで廊下の奥に、桐の間はすぐ分かった、この旅館で一番大きな部屋だった。そこに悲鳴嶼が静かに座っていた。
「その足音は、不死川か?」
「はい」
「良かった。金がない、貸してくれぬか」
「いいですよォ。それにしても悲鳴嶼さんが、こんな田舎で一体何に使ったんですかァ?」
「実は、心中しようと約束し合う男女がいて、つい仏心を出した。小銭も入れて五十円ほど入っていたから……財布丸ごとやってしまった」
「はァ。五十円も、知らない人にィ?」
悲鳴嶼は合掌し、涙を流して頷いた。部屋の隅に積んである座布団を持ってきて正面に座る。腰の刀を外して脇に置いた。悲鳴嶼の日輪刀はどこだろうか、見当たらない。
五十円と言えばそこそこの大金だ。悲鳴嶼が金を持ち歩くのは、盲を人に嘲られ、金の力で解決することもあるからだろうか。その目的については知らなかったが。
悲鳴嶼は合掌した手を懐に、手拭いを取り出して涙を拭った。
「人の命が助かるならと思って、つい」
「いつから逗留してるんですかァ」
「二日前。財布を渡したのは昨日の話だ」
「はァ、ここの支払い位ならもちますけどォ」
「済まぬ」
「それで絶佳を飛ばしたんですかァ?」
「うむ。誰か使いが来て立て替えてくれると思っていたが……それが不死川とはな。鴉で?」
「いいえェ。産屋敷家から直ですねェ」
そこに宿の使用人がお茶を持ってきて、二人の前に置いて去って行った。人の足取りが遠くに去ってから、悲鳴嶼は静かに話し始めた。
「心中者の死骸を取って食う鬼だ。これから死のうと言う人を見捨てなければ鬼が出ない。それは分かっていたのだが、つい……」
「それは確かに、俺なら放っておきますがァ。もしかしてその二人ィ、同じ宿に泊まっていたんですかァ?」
「南無」
頷いて、また悲鳴嶼の目から涙が流れた。
「それァ災難でしたねェ」
「南無」
「心中者が泊ってないか、隠に探させているんですかァ?」
悲鳴嶼は頷いて、それで実弥にも事情の半ばは知れてきた。鬼殺の腕が強ければそれで済む話ではなかった。悲鳴嶼は自分の手持ちの金を全て擲って人の命を助け、このまま産屋敷家に貸しを作ってでも心中を助け続けてしまうかも知れない。実弥が呼ばれたのはそれを止めるためだ。
「今回は、俺が全部指図していいですかァ?」
「うむ」
「隠とはどこで?」
「四時半に、裏手の林で。私は行かぬ方がいい」
「はい」
「嗚呼、もう手持ちの金もない。金の他に人助けできる便利な術を私は知らない。心中して御仏の元での幸せを願うのだろうが、身投げする者は地獄行きと決まっている。恋仲であっても閻魔様の前で別れ別れに……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
悲鳴嶼の独り言を聞き流し、時計のある玄関先に行ってみる。ここに到着したのは二時半頃で、数時間でも仮眠しておく方がいいだろう。
桐の間に戻ったら、布団が敷かれていた。
「寝るといい」
「どうもォ」
「私は近所の寺を尋ねようと思う。夕には帰る」
そう言って悲鳴嶼が出て行って、実弥は布団に寝転がった。鬼殺に訪れる里は鬼を斬ったら通り過ぎる夜景でしかない。こんな風に逗留するのは藤の家がいい所で、汽車に乗って宿に泊まるのは初めてだった。
筆の握り方について誰に聞こうかと迷いながら目を閉じて、醒めたのは間近、悲鳴嶼が肩を軽く揺すっていた。
「不死川、不死川」
「……ああ。何時ですかァ」
「四時になる」
欠伸が出た。汽車の中でもうとうとしたが寝足りない。体を起こして、悲鳴嶼を見る。この巨体を包む外套があったことに驚いていた。
「寺はどうでしたァ」
「住職が本尊を案内してくれて、久しぶりに経を唱えた気がしたな。この辺りについて聞かされた。なんでも夜に川筋を通り掛かると、拍子木の音がすると言う」
「はァ」
「臆病な者がお化けだと騒いだこともあるそうだ。とにかく気味が悪いから、辺りの者は夜になると川筋の道は避ける。昼の間は何もない」
「……」
「それと、夏に行方不明になって見つかっていない夫婦がいる。ある晩いきなり消息を絶ったそうだ。身を隠す理由がないと住職が不思議がっていた」
「川筋ですねェ……」
「行くなら私も共に行くが……」
「分かりました。とりあえず俺は、裏の林に行ってきます」
「冷えるから、外套を着て行くといい」
「はい」
実弥は外套を羽織って、悲鳴嶼は脱いだ。衣桁にかけた外套の裾が、どうしても床を擦っていたのを尻目に宿を出る。その折に宿の者に声を掛けられて提灯を渡された。裏手の雑木林に向けて坂道を昇る。
夕焼けの中で見た村は静かなものだった。紅葉している雑木林から見下ろすと、主な通りに店の軒先が連なって、後は畑と田圃が広がっている。関東の平地があるならどこでも見られる光景だった。紅葉の下にとぐろを巻くように川筋が黒い。
ここで餌になるのは旅人で、一つ向こうの温泉のある駅からこぼれた商いの人やら何やらが来るようだった。
夕映えを受けて黄に紅に鮮やかな中を上って行くと、一塊の緋色の楓の向こうから、隠が姿を現した。鬼殺隊の用ではない、洋服を着て帽子を被って一般の人の格好でいた。
「風柱様」
「どうだったァ?」
「男女が一組、道向こうの旅館に逗留しております」
「それよりも先に出たい。ここまでの仔細は分かるかァ?」
紅葉の中で隠が語る。この川筋を罠に待ち構える鬼が一匹、どうやら近辺の川を跳梁している。この村にある鬼ヶ淵は江戸の頃から心中が多く、一駅向こうの温泉郷で最期を楽しみ、美しくて悲しい風景のあるこの辺りで帰り道を失って身投げする。
そう言う場所を心得て、温泉郷向こうの野原を横切る川でも身投げを疑われている行方不明がここ数年、警察と寺が預かっている十数件があった。
淵に人が浮かなくなったのは数年以内のようだった。多い時は十数人を一晩で食う。それを聞いて、実弥は隠を鋭く見やった。
「十数人は、鬼殺隊士からの報告です。その場所は、温泉郷の向こうでした。報告を受けてお館様がすぐに人をやりましたが、その時は鬼の足取りが掴めずに……」
「そっちの件とこっちの件が繋がっていると見た訳はァ?」
「はい。一度に必ず二の倍数を食うのです。鬼を追い詰めた夜、集まった鬼殺隊士は二十一人。一人が生き残り事態を報告できました。その後の調べなのですが、あの川筋を喧嘩した夫婦が二町離れて歩いていたら、鬼とは遭わず。どうやらこの鬼の血鬼術は、一人歩きの者には効かないようなのです」
「へェ。そいつはまた丁度いい」
実弥は腕組みをして、隠の指した川筋を見下ろした。山間をうねって雑木林の下手を流れる淵が見えた。ここの上流の川筋に糸を垂らしていたらしい人が、釣竿を持って川沿いの道を曲がって帰って行く姿が梢の枝で見えなくなった。
暗い川筋の淵が何人飲んだか。鬼が出るなら岸のあの辺りだろうかと目算をつける。悲鳴嶼と行く約束をした。彼の前に雑魚鬼一匹など物の数ではないし、実弥もその心算でいる。
本当なら悲鳴嶼が一人で当たるはずだったのが、実弥も来て二人になった。鬼の餌となり首を獲る。実弥の考えは単純だった、為せば成る。
いつもしている鬼殺と同じで、この里も通り過ぎた夜景と何も変わらない。
山里の夕飯はどこも似たり寄ったりで、今夜の麩と素麵の結んだのが一箸入った吸い物が微かに醤油の香りがした。里芋と鶏肉の入った煮転がし。ウグイの洗いを酢味噌で食べる。
「おいしいな」
「はい」
「不死川も好きか。なんという魚だろう?」
「多分ウグイじゃないですかねェ。山奥の藤の家で食べましたよォ。同じ味です。いいですねェ」
「うむ」
余程気に入った様子で悲鳴嶼は機嫌よく四杯ほどおかわりしたが、体格に比べれば大して食べたとも言えなかった。腹がくちくなってから宿を出た。悲鳴嶼の日輪刀は、宿の玄関に隠して置いてあったようだった。
実弥は提灯を手に、悲鳴嶼とのんびりと道を行った。灯に照らされた垣根の躑躅が見事な紅色だった。
血鬼術が効くのは二人連れ。だから鬼の出る淵に二人で行って餌になる。鬼が出たなら、手の出た方が先に取る。そのくらいのことを決めた夜中の鬼殺、紅葉の梢は暗夜で見えず、足元に散る木の葉が提灯の明かりに鮮やかな錦を踏むようだった。
実弥は外套は脱ぎ、悲鳴嶼もいつもの態で着なかった。息が凍る中を実弥一人の為の提灯を揺らしながら山道を歩いた。一歩行くたび、鈴を鳴らすような澄んだ音を連ならせて鎖が鳴っていた。それだけ純度を高めた武器は、こんな田舎の雑魚鬼を殺すには過ぎた道具だった。
悲鳴嶼の手の向こう、斧の白刃がちらちらと提灯の光を照り返すのが暗夜に柔らかな確かさだった。最強と共に居るからと言って手を抜く気は実弥にはなかった。注意深く周囲に視線を走らせたが、そこはただの暗中の森の中だった。夜中の紅葉に鬼ヶ淵。
川面の見える傍まで来て、悲鳴嶼は片手で合掌した。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
「……」
「川はそこだな」
「はい」
「淵は」
「ここの流れが、家ほどある岩の下を通って曲がって行きます。そこが淵になっています」
「不死川が鬼の釣り場をここにした理由は?」
「ここの対岸は一間ほどの急斜面でェ、その上に道がある。道を川に飛び降りると川の中にドボンといくから、多分それもあって人が取られてるんですよォ。だから最初からこっち来たんですゥ」
「鬼が道の上に出たらどうする?」
「上にいたなら斜面の一間を駆け上って追いかけますがァ、そんな頭は無ぇんじゃねぇかな。淵に落ちて死んだところを取りてェように感じたなァ」
「うむ」
「この鬼は、あまり力がねェ雑魚だァ」
それからは黙り込んで川の流れを聞いていた。ここから見える下流の方は、なめらかに彫られた黒いガラスのようだった。滔々と流れる豊かさに、悲鳴嶼が呟いた。
「来る」
「はい?」
「落ち葉を踏んで来る。後ろからだ。注意しろ」
実弥は提灯の灯を吹き消してそこに置いた、直後に拍子木の音がした。
「さあて今宵の心中劇は!」
実弥は腰の刀に右手を寄せて腰を据えた。男が一人後ろから来た。腰帯にここらの屋号の提灯を下げ、首から下げた紐の拍子木を両手に持っていた。柝の音を鳴らして弁士のような前口上を述べた。
「定めのごとくに会い、絆されて心通わせ、道ならぬ二人の心重ねた先がどう転んでいくのかが今宵の焦点でございます!!」
柝の音が拍子をとって辺りに響いて、強い衝動が沸き起こる。今すぐ死にたい。実弥はその鬼を睨んで刀を抜いた。大きな声は映画の弁士のようだった。
「心中劇は男と、男?……刀なんか抜きやがる。ああ、お前たちは噂に聞く鬼殺隊士か?この俺も男と男で思い合うのを喰らったことが何度かあるな。刀を差していたのが多かった。一晩に十組の身投げを食ったと思ったが、あれは全部鬼殺隊士か?皆他愛ないものだ、どんどん身投げしていった。世を儚んだのかなあ、どうかな」
薄暗く笑い、また柝の音を鳴らせた。横目で悲鳴嶼を見た、日輪刀を腕にかけ、両手で耳を塞ぐところだった。これで悲鳴嶼は刀を使えなくなった。鬼を見る。ひょろい街中の青年のように見えたが、その笑む口元に犬歯がやけに発達していた。
「まあいい。男同士が互いに思いを重ね合い、ひょんなことから身を寄せ合って、この世に二人で生きて行く先の道がどうにも見つからぬ。恋路の果てに思い詰めたか、この淵を見た」
柝が響く。衝動がある。悲鳴嶼の手を掴んで淵に身投げをしたくなる。これが血鬼術だと実弥は知って、強く唇を噛んでいた。鬼が地面に振り撒かれた錦の落ち葉を踏んで歩くのをじっと見つめた。この淵でだけ啖べていた訳ではなさそうな、慣れた手つきで拍子木を打った。
「親兄弟や世間様に晴れて二人の仲が認められる訳もなし。この先の道がどうにも見えずに世を儚んで身投げして、あの世に行って御仏の裳裾に縋り、来世を待つがいいとこだ。そう思い極めた二人は、手に手を取って、鬼ヶ淵を目指して来たった!」
鬼は歌い語るような弁士の口調で朗々と、柝の音が次々響いて、どんどん拍子が狭まった。実弥は下唇を強く嚙んで、その鬼の首を狙う事だけ考えていた。冗談じゃなかった。悲鳴嶼と手を取り合って心中などと。
この人はもっと明るくて暖かい所にいるべきだ。川の淵など、冷たくて暗い所なんかに行かせられる訳がない。この地蔵似は岩屋敷の長火鉢の前で猫を抱いてのんびり笑っているのがいいに決まっている。
実弥の気持ちは鬼の言われるままに揺れていた。悲鳴嶼の腕を掴んで、淵に落ちたい。後のことは皆に任せて仏の側に行けばいい。
馬鹿が。神も仏も一切何もしてくれなかったじゃねェか。
実弥は唇を噛んだまま鬼に走った。柝の音が続けてしたが、強いて無視した。根性を曲げていた。何が血鬼術だ、こんな雑魚鬼。
柝を打ちながら慌てて逃げる腰の提灯が目印だった。実弥が走る後から大股に落ち葉を蹴る音がする。悲鳴嶼の日輪刀の鎖音が頼もしい。この木立の中を難なく鎖を振り抜いた。
鎖が伸びて鉄球が鬼の体を掠め打つ。鬼の腰に差した提灯が落ちた。
「南無、拍子木の音で手元が狂う」
走り出したのは遅かったのに、既に実弥の三歩先を走っている。また鉄球が繰り出されて、情けない声と共に柝の音が斜面を逃げた。弱い鬼が手間をかけさせる。
悲鳴嶼が型を使って鬼を追い詰め、手首が飛んだ。鉄球が頭を半ば割り、残った首を斧が斬り落とした。悲鳴嶼の強さは、どんな鬼相手でも手を抜かない。
鬼が脆く崩れていく。その血鬼術の元であった拍子木も崩れるのが、木陰に差し込んで来る月明かりで分かる。実弥は刀を納めた。悲鳴嶼が日輪刀を持ち直して実弥の方に来た。
「怪我は」
「いえ」
「血の匂いがする」
「え?」
悲鳴嶼が手を伸ばしてきて、その指先が繊細に実弥の頬に触れた。大きな手から鉄の匂いがして、指先が頬に冷たかった。その手に手を重ね、自分の方に引き寄せる。意図を察して顔が下りてきたのへ、ほんの唇を触れ合わせるだけの接吻をした。
「……血の味がする。唇を噛んで耐えたのか」
「行冥さんはどうしたんですかァ?」
「頭の中で経文を……」
「それでやり過ごせましたかァ」
「実弥と一緒に淵に身投げをしたかった」
同じ術中に嵌っていたと、闇夜の月明かりの下でぼんやりと薄く微笑む。あの時、実弥と悲鳴嶼は同じ思いで隣立っていた。はらりと落ちる紅葉の色が、月夜に暗い赤だった。
一緒に死ねたか。実弥はいずれ鬼殺の道半ばで死ぬことは定めていたが、共に死ぬのが希望の光とは考えなかった。鬼ヶ淵で見た悪夢。鬼殺隊に入って以来、こんな夢に慣らされた。
悲鳴嶼の持つ鎖の音が綺麗な鈴が連なるような響きを聞きながら、提灯の所まで戻り灯を入れた。
「旅館に戻りましょうかァ」
「嫌だな」
「何がァ?」
「男同士の心中だと宿の人に思われていたら……」
「ハッ、そんなのァお笑い草だァ」
提灯で足元の錦を見る。昼に隠と眺めた景色は大した感銘もなかったが、悲鳴嶼と提灯で足元に散る華やかな色彩が、そのまま彼へ向ける気持ちの温かさに似ていた。
戻る歩調が遅かった。今宵が明けたら、また別々に鬼殺の途につく。接吻したことが頭の中に残っていた。
「実弥」
「はい?」
「唇の傷には、はちみつがいいそうだ」
「はァ」
「甘くておいしいから、食べてしまわないよう気を付けて」
「別に放っておいてもいいでしょォ」
「蝶屋敷に行きなさい」
「いいよそんなのォ。心配し過ぎだ。俺ァ来年には十九だぜ」
「お帰りなさいまし。何かありましたか」
「いや何もなかったよォ……足元がずいぶん綺麗だったなァ」
「お二人でどちらに?」
「雑木林の裏手の川だァ」
「あら、あの辺りは鬼ヶ淵と言ってよく身投げが出るんです。男女の心中が多いんですよ。家に許されない道ならぬ仲の男女なんかが、遺体を引き上げた後で家族が喧嘩することも、ええ、お寺ではありますそうです」
「へェ」
「そういうことも、ここ数年はなかったんです。ただ行方不明は随分出ました。お巡りさんは逃げたんだろうと言うんですけれどねえ……三十円も入った財布を置いて逃げますかね。それに淵には拍子木の音をさせるお化けが出るとかで。そう言う音は聞きませんでしたか?」
「狐狸の類は出なかったが」
「あら、そうですか?」
「月夜でも紅葉は具合よく見えなかったァ。東京市中の電灯の中なら、夜でも綺麗に映えただろうけど、提灯じゃなァ」
「まあ。寒かったでしょう、おひとつ、つけますか」
「頼まァ」
「そちら様は」
「私は白湯で」
座敷に戻ると布団が二組敷かれていた。羽織を脱いで、宿の浴衣に着替える時、悲鳴嶼が戸惑った。浴衣が羽織ほどにしかならず、前が締まらない。
「これは困ったな……」
「……とりあえず、こいつで前を隠して下さい」
「うむ」
押入れを見て、もう数着の浴衣がある。そこから実弥は取って着た。悲鳴嶼はもう一枚を腰に巻いて体裁をつけた。そこに人が来て、白湯と酒を置いて行った。
酒の膳を運んで、悲鳴嶼の座っている側に行く。胡坐で座り、手酌で一杯。熱い酒が唇の傷にびりびり染みた。
「痛ゥ……」
白湯を飲んで、のんびりした顔で悲鳴嶼が言った。
「はちみつを貰ってこようか」
「餓鬼扱いをやめて下さい」
「南無。済まぬ……」
普段なら寒風吹く中を鴉と共に鬼を求めて流離っている。唇が痛い位で飲むのをやめる気はなかった。こんな夜はまたとないのだ。熱燗が腹に染みた。
「酒。苦手ですかァ」
「私のような大きいのが酔うと始末に負えんだろう」
「何合くらいまで?」
「付き合いで飲んで一升ほど」
「すげェ飲めるじゃないですかァ。俺は五合程だなァ、それ以上いくと足に来やがるもんだからァ」
「飲みすぎはいけないな。ふらふらして、足元が危なくなる。結局その時は、人の家の厄介になったが……」
「一体誰のォ?」
「当時の炎柱と。今はもう辞めてしまわれたが……」
「どんな男でェ?」
「誇り高い男だ」
「なぜ辞めたんでェ?」
「誇りが余りに高すぎて、身を滅ぼした」
「誇りねェ」
誇りについて思うと、粂野匡近の顔が思い浮かんだ。いつもではないが彼の死を背負っている意識はあった。その他数多の鬼殺隊士たちの死を実弥は背負っていた。それは悲鳴嶼もそうだ。それらの事柄を言葉にするのが実弥はうまくできなかった。
「我々鬼殺隊士は皆、人として死ぬことを矜持としているな」
白湯を飲みながら、ごく当たり前のように悲鳴嶼が優しく言う。その言葉ですべての死が一つにまとまった気がした。
「その矜持が行き過ぎた。己の技を高めようとして追い込み過ぎて、立てなくなった。他にも理由があるようだが……私の見ていた炎柱はそう言う風に辞めて行ったな」
悲鳴嶼の声を肴に酒を飲む。岩屋敷でもこんな風に優しく話したのを思い起こした。軽い酔いに気持ちが解けている。
「よい柱だった。お館様の信望も厚かったし、仕事も良く出来た。中でも蛇体の鬼女の案件についてはその始末が素晴らしかった。ある一族と癒着して富をもたらし、安定した人食いをしていた鬼女を見つけた嗅覚が凄まじい。神と崇められた鬼を見つけ出して首を斬った。そこにいた人質も保護をして……鬼を斬るばかりではない働きのできる男だった」
悲鳴嶼の声を聞きながらの酒が旨い。確かその案件で一人、鬼殺隊士になったのがいると実弥は聞いていた。悲鳴嶼はその件を柱の立場で聞いたのだろう。心底感服しているようだった。
「そんなの俺にはできなさそうだァ」
「私も到底出来ぬ事だと、あの頃の炎柱は全く素晴らしかった……残念だ」
「共同任務とかあったんですかァ」
「あった。と言っても、殆ど炎柱一人で片を付けたようなものだったが……」
「どんなァ」
ふっと微笑む。そんな笑い方を初めて見た。
「どんなと言うか。任務自体は普通に終わったのだが、私が食事処の一家に騙されて残飯を食わされそうになったのを見て、他の店に連れて行かれて叱られた。柱なのだからしっかりしろと」
「無茶言うなァ」
「いや。私も迂闊だったのだが、目の見えぬことで騙そうと言う者がいても、私には見えぬから分からないし……困ったものだ」
消極的な微笑だった。実弥は同情し、悲鳴嶼の不自由さを哀しく思い、彼を取り巻く嘲笑的な態度に向けて怒りも感じた。悲鳴嶼を騙そうと言う者がもし目の前にいたら、自分がいることを思い知らせてやるのだが。
山の中に隠と二人で暮らしているのにはそういう理由もあるようだった。人好きの顔をこうして晒す悲鳴嶼の近所の人との滑稽話をどこかで聞いたが、あれは粂野が生きている頃だっただろうか。
「顔を見たい」
そんな呟きを聞いて、実弥はそれが誘いの言葉ではないことを初めて悟った。岩屋敷でも二度ほどあって、その時は触れられた後に、こちらからも触れてしまった。
軽い反省を胸に、悲鳴嶼の前に座った。鉄の匂いのする大きな手が繊細に触れてくる。額を確かめる。太い指先が鼻筋を撫でた。瞼を微細に撫でて、掌が頬を大切そうに包んで離れていった。
「……お前の顔は、男らしい、いい形をしている。人の顔に触れることは滅多にないが、肌艶も良いようだ」
言う事もいつも一緒で、実弥の顔つきを知った後は晴れやかな表情になる。実弥は少し酒を飲み、悲鳴嶼は白湯が尽きたか湯呑を脇に置いていた。
零れるように嬉しそうな顔だった。人と分かり合うのが好きなのだ、山奥に閉じこもっているこわもての悲鳴嶼の素が、甘えてきている。
「もっと触ってもいいですよォ」
「そうか?」
「一杯どうですゥ」
「頂こう」
実弥が渡した猪口を両手に持って酒を飲む。飲食する時の悲鳴嶼の、大柄な姿がちまちまやるのが見ていると何とも言えないと思っていると、彼は両膝を手で叩いた。
「ここに」
「座れってことォ?」
「うん」
「……胡坐の方がよくねェ?」
悲鳴嶼が胡坐をかいた、その上に座る。嬉しそうに抱き着いて引き寄せてくる。首の後ろで笑っている息が分かった。
「家に戻ってねェのかァ?」
「ここ一月は藤の家を渡り歩いて、出張続きで……」
「にゃァん」
一声鳴くと、背に抱き着いて笑い始めて止まらなかった。
「何がおかしいんだよォ」
「私の懐で鳴いた生き物は多いけど、実弥が初めて鳴いたから」
「なんだそりゃァ」
実弥も笑った。自分より大きな男の体に抱き付かれて可笑しかった。小さなものを扱い慣れている態度が優しい。抱いてくる腕の上に自分の手で抱き締めた。
自分より大きな男から優しくされる。大きな手が頭を撫でた、好きにさせた。人恋しさが募った挙句に縋りつく。実弥を抱えて何がいいのか、悲鳴嶼は機嫌がよかった。
「寂しかったんですかァ?」
「うむ。柱として恥ずべきことだ」
「そうかなァ。俺はアンタのそういうとこが結構好きなんだけどなァ。俺の前では出していいからァ」
「そう言う話ではなくて……」
「行冥さん。今しているのはそう言う話だァ」
背中に悲鳴嶼を張りつかせ、実弥は手酌で酒を酌んだ。優しい大きなものが背を守っている温かさが沁みて来る。ぐっと体が寄りかかってくるのを支えた。
「……そうだな、実弥」
「寝る時までこうしてますかァ?」
「すまん。少し甘えさせて貰う」
実弥は固い大きな男子だ。柱で十九になる立派な大人だと主張しても、結局頭を撫でられた。唇にはちみつがどうした、俺は男だという矜持が実弥の中にあり、その矜持に触ったと知ると一旦引くが、年下の子の扱いをするのは変わらない。岩屋敷でもそうだった。
悲鳴嶼には実弥に分かりやすいような男の矜持はないようだった。寺育ちだからか知らないが、その観念から自由でいる鬼殺隊の最強が物珍しく、何とはなしに大切にしたくなる。
抱き締められて、頭を撫でられていい子にされる。岩屋敷でもなかったことで、むずむずしてくる。仕方ないから今夜はいい子で眠ることにした。
申し合わせたように翌朝も暗いうちに二人は起き出した。生あくびで挨拶をして布団を畳む。悲鳴嶼はまず服を替え、実弥もそうした。
宿の人はまだ起きていないようだった。外の井戸で水を汲み、身支度をしているうちに夜が明けてきて、宿の台所の辺りでも人が立ち働き始めた。
そんな時、外から人が駆け込んできて、大声に呼んだ。
「身投げだ、身投げだ、おかみさん!!」
「えぇ?」
「若い男女の身投げだよ!!久方ぶりの心中だ!!」
それだけ言って、声は戸を閉めて出て行った。実弥と悲鳴嶼も顔を見合わせた。昨夜斬ったから死骸を食べる鬼はいない。
身支度を済ませ、二人で外に出た。人だかりのある道の方に歩いて行くと、川面を見ている人が沢山いた。悲鳴嶼は途中で立ち止まってしまったので、実弥がその人々の中に分け入って川を見た。
暗い川面に人が二人浮いて漂い、死に顔を晒していた。血の気のない顔色を見て、溺れたと言うよりは、冷たい水の中で凍え死んだのではないだろうかと実弥は思った。流れてきた紅葉が何枚も飾るように体の片側に付いていた。遠目で見ても分かる良い仕立ての着物で、二人の手首を繋ぐ帯の扱きが紅葉よりも一層紅い。
見知らぬ男女の死だった。実弥は冷たい淵に浮かぶ二人を眺め終わって、悲鳴嶼の元に戻った。
「どうだった?」
「若い男女の心中のようでしたよ」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
悲鳴嶼は涙を流して合掌した。実弥は人々の話しを聞いた。十日ほど逗留していた男女だと言う。人相の悪いのが二、三人も尋ねて来て男と会っていた。あれはきっと借金取りだ。落ちぶれた良家の若旦那が思い切れない婚約者と儚くなった。そんな風に噂話がまとまって行くのを聞いているうちに、悲鳴嶼の読経が止んだ。
「なんと哀れな。若くして死んでしまうとは……生きてこその花実がある人生を。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
「アンタにこの土地は合わなさそうだなァ」
「……なぜだ」
「心中話を聞きすぎて、泣いた涙で溺れ死にすらァ」
「それは言い過ぎだ、溺れるほど泣きはしない……と思うのだが。それに、そんなに心中が多いのだろうか?」
「つい昨日、心中を止めて五十円もふいにしたでしょうが」
「ああ」
「金も身につかねェ。退散した方がいい」
旅館の桐の間に戻ると、使用人と共に食事を運んできた女将が言った。
「本日もお泊りなさいますね」
「え?いや、俺達は今日は帰るゥ……」
「とんでもない、警察が来るんです。昨夜お客様お二人が、鬼ヶ淵を見に行ったことは私からも伝えますし……今帰ったら、逃げたと思われて追われませんか?」
決めつけられて、またも悲鳴嶼と顔を見合わせた。
「ご逗留なさいますね」
「そうしよう」
悲鳴嶼が答えて、膳の箸を手に取った。香の物に卵焼きと海苔、納豆にひじきの煮物、麩の味噌汁だった。彼のちまちました食べ方はどこに行っても変わらない。
行く当てもなく宿の中でひっそりと、二人で差し向かいで暇潰しをしようにも、悲鳴嶼は碁も将棋も指せなかった。実弥が探し回って、百人一首と万葉集があった。万葉集を手に取って、悲鳴嶼に歌を聞かせた。
「お客様です」
言われて入ってきたのは隠だった。一般の人の洋装でいる。かしこまった態度で廊下で正座で礼をしてから入って来た。
「失礼致します、岩柱様、風柱様」
二人の手前に隠は座り、また礼をした。
「警察ですが、どうなさいます」
「素直に話して明日帰る。ここの費用だが……」
「それは私が、産屋敷家で持ちます。お帰りの運賃ですが」
「悲鳴嶼さんの分は俺が持つゥ」
話は簡単にまとまった。万葉集を読んでいる柱と、隣でじっとしている柱を前に、隠も正座で置物のように大人しかった。悲鳴嶼の沈黙が温かい地蔵のように思えた。
小一時間ほどした頃に、また女将が来た。
「お客様です」
「客ではない、警察だ!」
中年の制服の巡査が居丈高に入ってきて、仁王立ちで聞いてきた。
「貴様ら、一体どこからここに来た?」
「東京市からです。産屋敷家の用で」
「はあ?聞かん名だな!なんだそれは!」
「産屋敷家とは、男爵や子爵というご身分の方々と交際の深い、元は旗本の旧家です。私達はその家のお使いをしています」
悲鳴嶼の穏やかな語り口調をじろりと見降ろし、巡査はふんと頷いた。女将がまだ廊下に座っていた。
「旧家の使いか。して、何用あって昨夜は鬼ヶ淵に?」
「夜中の紅葉を見に行ったがァ、足元ばっかり綺麗なもんで、梢の方は暗くて駄目だったなァ」
巡査は実弥の顔や体の傷を見て警戒心をあらわにしていた。それを無視した、いちいち関わっていられない。
「このお人は目が見えねェ。夕べは俺の気紛れの散歩に付き合ってくれてェ、その後は白湯を飲んで寝ちまったよォ」
「しかし、何の用で鬼ヶ淵に?」
「俺のほんの気紛れだァ。化け物が出るって話は、戻ってから女将に聞いた。どこに行っても人っ子一人いなくってェ、東京市中の賑やかさとは打って変わって、静かなもんだァ」
「飛び込む音などは聞かなかったか?」
「なァんにも」
「一人、刀剣を所持しておるようだが!」
「許可証ねェ。持ってますよォ」
立ち上がって、上着の中に仕舞ってある財布から畳んだ許可証を取り出して見せた。実弥の上背は巡査よりある。睨み上げられたところで、別に何をしたでもない。
「……ふむ!よろしい!しかし、みだりに刀剣を持ち歩くのは感心せんな!」
「気を付けますゥ」
「わかっておるのなら構わん。その刀を持って辺りを騒がせるようなことなどするなよ」
「はい」
「で、そちらのお前は何一つ言わないが」
「はい、私は、お二人の下について働いております者でして、はい」
「そうか、下働きか。三人とも、浮いた死体を見たか、いや、そちらのお前は見えないのだったな。二人は死体の顔に見覚えはあるか?」
「いいえ。見たことない人ですゥ」
「存じません」
「そうか。お前たちの出立は」
「明日ァ」
「名前と住所を……一人ずつ言っていけ」
用を済ませて、巡査は挨拶もせずに座敷を大股に出て行った。隠も産屋敷家に報告を入れるから、この警察との関わりはこれで終わりだった。隠が大袈裟なほどの溜息をついたのは、悲鳴嶼の日輪刀について誰も何も言わなかったからだろう。廊下の女将は警察が出て行った後、襖を閉めて消えていた。
「宿の会計を済ませたら、私は他の任務なのですが」
「わかった。後は自分たちでどうにかしよう。これまでの間、ご苦労だったな」
「ありがとうございます。では、失礼致します」
隠が正座で一礼し、また廊下に出る時に一礼する。産屋敷家で柱に対する礼儀をきっちりと仕込まれていた。実弥は許可証を財布に仕舞い、のんびり元のように悲鳴嶼の横に座った。
万葉集を眺める。これは岩柱邸でおさらいしたから、読めない文字は一つもなかった。適当に見つけたものを、呟くように口先にのぼせる。家離り旅にしあれば秋風の寒き夕に雁鳴き渡る。
じっと実弥の声に耳を澄ませているようだった。鬼殺後にこんな時間を持てる贅沢を味わいながら、次の一首を選んでいた。
「実弥」
「はい?」
「帰りは家に寄って行くだろう?ほら、鉄道の運賃の分を返さなくてはならないし……」
何も答えずに悲鳴嶼の顔を見た。彼はどこか困ったような表情をしていた。そのまま眺めていると、少しずつ顔に血の気が、赤くなって涙目になる。誘われたのだと納得し、そのまま答えずに歌集に目を落とした。
風をだに恋ふるは羨まし風をだに来むとし待たば何か嘆かむ。