団トルポロン、ポロン綺麗な音が鳴る。
優しくて、繊細でそれでいて心躍るような美しい音‥。
その音をもっとよく聞こうと耳を傾けるとブツリと、その音は唐突に止んでしまった。
不思議に思い、音の主を見つめると彼の指は震え、そのまま再び鍵盤を触ることはなかった。
***
「それではーー次、トルペくん。演奏を始めてください。」
こうやって彼の演奏を聴くのは何度目だろうか。
彼は何度も何度もこの楽団のオーディションに申し込んでいた。
最初の方こそ、人前で弾けない欠点がある以上採用することはないだろうと最終選考に行く前に彼を落としていたが、彼はそれでも我が楽団のオーディションに参加し続けていた。
僕は致命的な欠点を抱えながらも、楽団でピアノを弾きたいという彼の強い意志に負け、彼を最終選考まで通すようになった。
きっと次は素晴らしい演奏が聴けるだろうと期待して。
けれども彼は一度も僕の前で完璧に演奏し切ることはなかった。
いつも少し弾いただけで、止まってしまう。
次第に他の団員たちも彼はダメだろう、と最終選考まで彼を通す僕にそういうようになった。
けれども僕は彼の手から導かれるあの美しい音が最後まで聴きたくて彼を通してしまうのだった。
***
ここ最近、あまりにも僕が彼を気にかけるものだから団員たちも僕を気にかけてくれたのか共に飲まないか、と誘ってくれた。
団員たちが僕を飲みに誘うことなんて大きな演奏が成功した時くらいしかなかったから気を使わせてしまった申し訳なさを感じながらも彼らに勧められた酒場に行くことにした。
そこはほとんど誰もいない、と言って良いほど人が少なく、団員曰く穴場らしい。
こんなところがあったのか、と驚きながらも酒に口をつけようとした時
ポロン、ポロロンと美しいピアノの音がした。
優しくて繊細でそれでいて心躍るような美しい音。
僕はその音に導かれるようにふらふらと音が鳴る方へと向かった。
音の酒場の隅に置かれているピアノ。
そこで密やかにピアノを弾いていたのは僕の予想していた通りの人物。
トルペくんだった。
彼は周りのことを全く気にしていない様子でピアノを弾き続けた。
僕が近づいても全く気づいた様子がない。
そんな彼の指から奏られる音はとても美しくて。
やはり彼のピアノは素晴らしい‥!!!
僕は彼のピアノをもっと聴いていたい、そう思いさらに彼に近づく。
その時そばにあった机にぶつかってしまってガタンと音が鳴る。
それと同時にピタリ、と美しい音は止んでしまった。
残念に思いながら仕方なく僕は彼に話しかける。
「やぁ、トルペくんじゃないか。こんなところでピアノを弾いていたんだね。」
「あ!楽団の団長さん‥‥‥!お久しぶりです。どうしてこんなところに?」
「ただ、団員たちと飲みに来ただけさ。しかし‥‥君はよほどピアノが好きなのだね。」
そう言って僕は先ほどまでのピアノを弾いていた彼を思い出す。
まるで指が踊るように鍵盤をたたき、それに合わせて奏られる美しい音。
それを奏でる彼の表情は真剣ながらもどこか楽しげで。
彼がピアノを弾くことが本当に好きなのだと、伝わって来た。
もう一度彼の音を、ピアノを弾いている彼を見たい、そう思った。
「トルペくん、先程の演奏は本当に素晴らしかったよ。もう一度、僕に聞かせてれないかい?」
「え‥‥」
「決してオーディションのように実力を見よう、だなんて思っていないから、緊張せず思うままに君弾いてくれていいんだ。ただ純粋に君のピアノが聴きたいだけだから。」
そう言うと彼はしばらくえっと、その、と曖昧な言葉を繰り返した後、戸惑った様子のままこくりと頷いた。
もう一度彼の音が聞ける。
僕は期待した気持ちを隠しきれず、じっと彼を見つめる。
彼はおずおずとした調子のまま鍵盤に手を置いた。
そのまま綺麗に手入れされている指が鍵盤に沈んでーー音が始まる。
ポロン、ポロポロと音が流れる。
ガヤガヤと先程まで団員達が騒がしく酒を楽しんでいる音がしていたのにその音が全く気にならないくらい、美しいピアノの音が辺りに響いた。
まるで彼を表しているような音だな、と思った。
優しくて繊細ででもどこか力強くて。
僕は彼と特別親しいわけでもないし、彼をよく知っているわけでもない。
けれど
なんとなく、彼はそう言う人物なんだろうなと感じた。
しかし、その美しい音は唐突に止んでしまう。
先程まで音を奏でていた彼の指はピアノから離れて、ぎゅっと膝の上で強く握られていた。
「‥‥すみません。」
そう言った彼はピアノをじっと悲しそうに見つめたまま俯いていた。
どうしてなのだろう。
こんなに素晴らしい音を奏でられるのに。
それを人前で演奏することのできない彼に悔しさを感じてしまう。
彼が人前で弾くことさえできれば僕の楽団で共に演奏することができるのに。
‥‥‥。
いや、1番悔しいのは僕じゃなくて彼だろう。
今だってピアノから離れるのこともせず、じっと自身の指とピアノを見つめているトルペくんを見る。
彼のその表情は悔しさが溢れ出ていた。
彼は諦めることなく、何度も僕の楽団のオーディションに挑んでいる。
周りが無理だろうって思っていることも多分気づいているのにそれでも諦めずに何度も何度も。
そんな彼だから僕は彼に楽団に入ってほしい、と思って最終オーディションに彼を通す。
きっと彼が僕の楽団に入ってくれたら、楽団は今以上に良いものになると思うから。
だけれど‥‥。
‥‥どれくらいだっただろうか。
彼にうまくかける言葉も出てこなくて、お互い黙り込んだまま気まずい空気が流れていた。
そんな空気から逃げるように彼は簡単な挨拶をして僕の前から去っていってしまった。
***
「やぁ、トルペくん。」
いつも通り酒場で細々とピアノを弾こう、そう思って酒場のピアノがある場所へと向かうとそこには先客がいた。
「だ、団長さん‥‥!」
僕がよくオーディションを受ける楽団の団長がピアノの横に椅子を置いて座っていた。
先日ここで彼に演奏を頼まれたものの、うまく演奏することができなくてそのままその場から逃げ出してしまった。
‥‥また、演奏してほしいと言われるのだろうか。
ピアノを聞いてもらうことは嫌じゃない。
むしろ、大きな楽団の団長である彼にピアノを弾いてほしい、と言ってもらえることは嬉しい。
けれど、僕は彼に見られている状態でうまく弾ける自信がなかった。
また、途中で弾けなくなってしまったら‥。
自分の不甲斐なさが悔しくて、思わずぎゅっと手を握ってしまう。
そんな僕に気づいていないのか、団長は僕の予想通りの言葉を投げかけた。
「今日も、君に演奏して欲しくて。」
「‥‥。」
はい、とそう言いたいけれど、失敗するのが怖くて素直に頷けない。
その、と曖昧な言葉を繰り返すことしかできない僕に団長はフッと優しげに笑って椅子から立つ。
さっきまで気づかなかったけど、団長のそばには楽器を入れるケースがあった。
中から出てきたのは
「フルート‥?」
「オーディションの時から君と演奏してみたい、と思っていたんだ。今は、楽団に君を入れることはできないけれど、ここで一緒に演奏することならできるかと思って。よかったら付き合ってくれないかい?」
「えっと‥‥。」
予想外のことにうまく返事ができない。
僕が団長と演奏を‥‥?
「ただのお遊びだと思ってくれ良いからさ。緊張せず、弾いてほしいな。と言っても難しいかもしれないけど‥。」
「や、やってみます‥!」
楽団に入ることができない以上、こんな機会2度とないかもしれない。
それに、もしここでうまく弾けたら自信がついて人前で弾けるようになるかもしれない。
そう思って僕は頷いた。
今回はきっとできる、そう信じて。
「ありがとう。」
団長はそう一言言って演奏の準備を始めた。
僕も慌ててピアノの椅子に座る。
すぅ、はぁと一度深呼吸をしてから鍵盤に手を添える。
それを見届けた団長はフルートに口づけ音を奏で出した。
それに合わせて僕も鍵盤に指を落とす。
ピアノの音とフルートの音が合わさって一つの音になる。
この調子なら‥いける。
そう思って音を奏で続けているといつもならピアノの音に見向きもしない酒場で飲んでいる人たちがこちらをみていることに気がついた。
おそらく、大きな楽団の団長である彼がこんなところで演奏しているから物珍しくて視線が集まっているのだろう。
それに気づいてしまった途端、指が強張った。
みられている、そう思うと指が思うように動かない。
次第に音が上手く奏でられなくなり、手を止めてしまった。
‥‥‥。
悔しくて、自分が不甲斐なくて。
あの日と同じ様にじっとピアノを見つめることしかできなかった。
僕がピアノを弾くのをやめてしまってもフルートの音は止まなかった。
僕はやっぱり自分には無理だ、と今もなお演奏を続けている彼に言おうとして顔を上げた。
「‥‥!」
そこで見えた光景に言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
フルートを演奏し続けている彼の姿はとても楽ししそうで。
奏でられいるフルートの音も踊り出したくなる様な楽しげで。
とても輝いている、そう思った。
演奏を聴いているだけでわくわくして楽しくなってくる。
それを聞く周りの人も楽しそうに笑っていて。
僕もこんなふうに、演奏したい‥‥!
そう思ったら自然と手は再び鍵盤の上へと向かった。
ポロン、とフルートの音に合わせて指を動かす。
先程とは違って、上手く弾こうだなんて考えは頭の中になかった。
ただこの楽しい音に自分の音を合わせたくて、思うままに音を奏でた。
弾いているうちにどんどん楽しくなって音が弾む。
周りの人が自分の演奏を聴いている。
それでも僕の指は止まらなかった。
周りの人がみんな笑っていて、音に合わせて楽しそうに踊り出す人まで出てきて。
自分が弾くピアノでこんなにも周りを楽しませることができているのだということが嬉しくて楽しくて、もっともっと弾いていたい‥!そう強く思った。
しかし、曲には終わりが来る。
楽しげな音もラストパートに入り、ジャン!と最後の一音を奏でて終わる。
演奏するのが楽しくて、楽しくて。
興奮のあまり熱くなってしまった体を冷ますようにはぁはぁと呼吸する。
するとぱちぱちぱちと拍手の音が聞こえた。
はっと視線を音のする方に向けると楽しげに演奏を聴いてくれた人たちがにこにこと笑顔のままこちらに向けて拍手していた。
楽しかったよ、良い音だった!、また聞かせてくれ‥!
なんて声も聞こえて嬉しくて興奮したまま団長の方を見た。
パチリと団長と目が合う。
自分と同じように興奮した様子で嬉しそうにこちらを見つめて笑っていて。
ぶわり、と落ち着いてきた熱が再燃した気がした。
演奏していた彼の姿が、彼の奏でる音が、頭をよぎって。
あの時、僕は彼に惚れたのだと自覚した。