恋と知るまであと、 真っ昼間からリビングのソファに押し倒され、アルバーンはまずいことになったと笑顔の仮面を貼り付ける。正直なところ、こんな状況下でも身の危険は感じていなかった。危害を加えられることはないだろうし、貞操の心配もまあない。では何がまずいかというと、
「よくもまあ俺とひとつ屋根の下に暮らしててそんな雑な扱いしてくれたものだね」
美容に人一倍気を使っている相手に己のスキンケア事情がバレてしまったことだ。
実のところ、アルバーンは自分の行動はごくごく普通のことだと思っていた。ベッドから這い出して、寝ぼけた頭で洗面台に向かい、冷たい水でワシャワシャと顔を洗ってようやく目を覚ます。その後はフェイスタオルでごしごしと拭いてはいおしまい。ルーティンとも言えない起床後の行動。だが、それが少数派なのだと気付いたのは阿鼻叫喚とも言えるコメント欄の反応を見てのことだった。
え、そんなに驚くこと?だって目を覚ます為に洗ってるんだよ?そんな反応が返ってきたことにこそアルバーンは動揺する。
別に何かを狙っての発言ではないのだ。ただ、雑談配信中にリスナーから聞かれたから正直に答えただけ。けれど、本人の意図はないにしても爆弾発言をしたことに変わりはなく、それがものの見事に同居している相手に被弾してしまった。そう、今まさに馬乗りになって感情の読めない表情で自分を見下ろしている浮奇・ヴィオレタに。
「あ、はは…、配信見てくれたん…だ?」
「勿論。この顔を洗顔料も使わずに洗ってるんだってね」
「ひゃ、ひゃい」
しなやかな指がふわりとアルバーンの両頬に触れたかと思うと、そのままむぎゅりと押しつぶされる。痛みを感じるようなものではなかったが、ジト目でむぎゅむぎゅと繰り返される行為はなんとも言えない圧があった。
「俺としたことがこんな身近で起こっている惨事に気付けないとはね…」
えぇ、そんなに…?とはさすがに口に出さないものの、無抵抗を貫きながらアルバーンはどうしたものかと考える。実際他者に迷惑をかけている訳でもないのだしと思わなくもないが、友人が化粧を落とさずに寝落ちた時の浮奇の行動を思い返せば成るべくして成った展開。そして、洗顔はどうしたって自分の手で行うものだから当人以外の出来ることといえば口出し程度。そうか、だからこそか。
今の状況に困りこそすれ、アルバーンに改善をするという選択肢はない。申し訳ないが、ここは大人しくお説教は受けて諦めてもらおう。そう結論づけたところでばちりと至近距離でふたりの目が合った。
少し驚いたように丸くなるオッドアイを、鮮やかな紫が覗き込む。見つめ合うこと数秒間。耐えきれなくなったのはアルバーンの方で、気まずさからぎこちなくニコリと笑ってみせた。そう、まさに何かを誤魔化そうとする時の笑い方で。そんな反応を見せればどうなるかは火を見るよりも明らか。一瞬にして目を据わらせた浮奇の指がアルバーンの頬を再びむぎゅむぎゅとこね始める。
「そんな雑なことしてるくせにこんな肌して……まったく、憎たらしいくらい頑丈な猫ちゃんだね…!」
「ヒョェッ…!勘弁してよ浮奇〜」
苦し紛れに懇願の声をあげてはみたものの相手が相手だけに通用するはずもない。なんでこんなことにと困り果てるアルバーンが開放されることは当分先のようだった。
一方、そんなリビングの様子を部屋の外から伺う影がふたつ。
「珍しくじゃれあってると思ったら可愛いもんだな。で、お前はこんなとこでどうしたんだ?」
今しがた帰宅したばかりのファルガーが目にしたのはリビングに続く扉の横で所在なさげに立っているサニーの姿。何かあったのかと思い中の様子を確認してみれば、同じく同居人である浮奇がアルバーンに馬乗りになっているというレアな状況になっていたわけだ。言葉だけで判断するとなかなか物騒なシーンではあるものの、実際にはファルガーが口にした通りの『じゃれあっている』という他愛のないもの。そしてこのふたりのスキンシップは珍しくはあるが別段おかしいとも思わない。だからこそ、この場でより様子がおかしいのは眼の前で胸に手を当てて釈然としない表情をしているサニーの方だと言える。
「え……いや、なんだろう?」
だが、そのうえでのこの反応だ。これがまた心底不思議そうに答えるものだからはぐらかしているのではと疑う余地もない。まあ、ならその顔はなんだと言いたくもなるが、本気で言っているのだと知っているだけにそれも憚られた。
(やれやれ、鈍いわりにいっちょまえに嫉妬はするときたか)
傍から見ていると実に分かりやすいのだが、これで自覚はないのだから恐れ入る。とはいえ、他人の恋路に第三者が口出しするのも野暮のいうもの。願わくば、己に火の粉が降りかからないうちに丸く収まってほしいものだとファルガーは肩を竦めるのだった。