【3】それを世間は何と言う陽がのぼって間もない時間、ゴミを捨てるために外に出ると、焼却炉に立つ大きな背中が視界に入った。
「早いじゃねぇか」
後ろから声をかけると、「おお」と声をあげて弁慶は振り向き、
「お前さんもな」
と返して竜馬の手にしている袋に目をやった。
「なんだ、部屋の掃除でもしてるのか」
偉いなと笑うのは、先日も隼人に「部屋が汚い」と怒られたのを見ているからで、「うるせぇな」と竜馬は舌打ちしてゴミの袋を焼却炉に投げ入れた。
「これから外を走ってくる」
と言うと、弁慶は「体力あるな」とスウェット姿の竜馬をじろじろと見て、
「俺はあいつらに起こされてな、もう一眠りする」
とため息をついた。
「若い連中ってどうしてあんなに元気なんだろうな、渓も走りに行くと言っていたが」
「ゴミ捨てをテメェに頼んでるようじゃ自立は出来てねぇがな」
今度は竜馬が突っ込むと、「ああ、父親の気分だ」と弁慶も目尻を下げて笑い、「気を付けてな」と手を挙げて去っていった。
お前はいい親父だろ。
いつだって。
心のなかでそう呟いて、竜馬はまだ霧が残る山道を目指した。
その日は土曜日で、もちろん曜日の感覚などタワーにいれば無関係だが、いわゆる「世間一般」では休日にあたるのでいろんな業務で手が止まるものが出てくる。
世間が稼働しなければ、タワーも影響を受けるのだ。だから週末は人の気配が減って静かになるのが中の事情だったが、竜馬はいつもなら見かけない所員が出てきていることに気がついた。
「今日は何かあるのか? 人が多くねぇか」
と渓に尋ねたのは昼食後のことで、デザートのドーナツを手にした渓は
「あ、今夜は神さんが出かけるらしくって」
とすぐに答えてくれた。
「隼人が出かけるのはいつものことだろう」
意味が分からずに重ねて言うと、
「違うの、今夜はお偉いさんとこの娘さんの、お誕生日会ってやつ?その人が神さんのファンらしくって、おめかしして行くんだって」
ぱくんとドーナツに噛みつきながら渓は答え、「いつもよりかっこいい神さんが見られるから、それで来てるんだと思うよ」と”そういう日は大体こう”を教えてくれた。
「……」
そんなのは、聞いてねぇ。
今夜出かけるのは本人から告げられていたが、そんな裏の事情は言わなかった。
自分の”ファン”のためにめかし込むなんてのは、アリなのかよ。
「神さんも大変よね、お偉いさんの機嫌も取っとかないといけないしさ」
肩をすくめて渓は続ける。
「そうだな」と返して、そういう見方をするのがここでは普通か、と竜馬は思った。
タワーの維持と存続のために、いろいろな方面で隼人が労を取っているのは知っている。
そんな場に招待されることも、隼人にとっては「仕事」のうちだろう。だからそつなくこなすことは想像がついた。
「隼人のファンか……」
小さく呟いたつもりが、耳ざとく聞きつけた渓が
「あ、ヤキモチだ」
と竜馬を指さして笑った。
「あぁ!?」
馬鹿野郎、と叫びそうになって相手は渓だと気づいてぐっと堪える。
「あんな奴のファンとか、気色悪ィって思うだけだ」
さっさと食え、と言い置いて席を立った。
正装する隼人を見るためにわざわざ出てくるなんて気持ちも、竜馬には理解できない。
隼人が所員に人気があるのは知っているが、その「人気」にはアイドル的な気持ちで騒ぐ女性たちが存在することも、弁慶たちが囃し立てるのを見ていた。
それが気に入らない、とは思わないが。
「どこがいいんだ、あれの」
部屋に戻って、どかっとソファに腰を下ろし、誰にともなくそう吐いた。
今日は隼人を見ていない。
朝のランニングから帰ったとき、部屋に向かおうとしてやめたのは、「会いに行く」自分に抵抗があったからだ。
それは新しい習慣で、クリスマスのあの夜から度々、竜馬は用事のついでを装って隼人の部屋を訪ねていた。
行ったところで何かあるわけではなく、当たり前のように自分を迎えてくれる隼人といろんな話をして、たまには酒を飲んで、適当な時間に切り上げて自室に戻る。
隼人のほうからこちらに来ることは少なくて、それは忙しいからだとわかるし、部屋の乱雑さに文句を言われるし、特に来てほしいとも竜馬は思わなかった。
ただ。
二人きりなのに「部屋の外での隼人」と態度が変わらないことが、引っかかっていた。
軽口も冗談も言える、真面目な話もできる、ずっと会話が上手くいかなかった竜馬にとってやっと向き合えるようになったはずの隼人は、あの夜の次の日から「通常運転」に戻ってしまった。
みんなと居るときも、二人のときも、竜馬への接し方に大きな違いはない。距離を取って、冷静さを失わず、対等な人間として真っ当な気持ちを言い、竜馬の言葉を正面から受け止める。
それが隼人なのだと安堵を覚える一方で、ほかの人間とそう変わらない位置に置かれている自分を目の当たりにすることが、竜馬にとっては物足りなかった。
「……」
はあとため息をつく。
あの夜の自分を、なかったことにはしていない。
それは分かる。
たとえば言葉が途切れたとき。訪れた沈黙のなかで隼人の瞳がかすかに揺れるのを知っている。余裕を失う一瞬は、唇に力が入る様子でも伝わる。
あの夜に見せてしまった自分の気持ちを、自覚している。
それでも、互いに手を伸ばすことをしなければ思いを打ち明けるのでもない、流れる空気の気まずさはどちらも感じているはずだった。
たった一度、触れただけじゃねぇか。
ぼんやりと壁を見つめて、初めて知った唇の感触を思い出す。
あの夜から、重ねることもない。
拒否でも拒絶でもない、ただこちらに踏み込まない隼人の姿に、竜馬は新しい屈折を覚えていた。
「会いに行く」自分に抵抗を感じるのは、その隼人を前にして結局は何もできない己の不甲斐なさを実感するのが嫌だからで、今朝も寄るのはやめたのだった。
たった一度のキスで、何が変わるのかは竜馬には未知の世界のことだからわからない。そばにいることしか思いつかない。
「あんなやつの」
小さな声で繰り返す。
自分が知らない女性のために装う隼人に抵抗はないが、ファンが多いのも気にはしないが、「俺への気持ちはどうなんだ」とどうしても考えてしまうことが、今の竜馬には心の重しになっていた。
夕方近くになって、デスクの上で内線が鳴った。
表示された番号は隼人の部屋で、普段通りの声になるよう意識して「おう」と出た。
「竜馬か」
隼人のトーンもいつも通りで、「ああ」と返すと「今からこっちに来てくれないか」とそのままの口調で続けられて、その平坦ぶりに少しがっかりした。
”お誘い”なら。
もっと色気のある言い方は出来ねぇのかよ。
内線でそんな話が出来るはずもないのに、「通常運転」の隼人にはやっぱり引っ掛かりを覚える。
「わかった」とだけ返して、竜馬は素早く受話器を戻した。
これから出かけるってときだろうに、何の用なんだ。
そう思いながら廊下を歩くと、ロビーの隅でグループになっている女性所員たちがいた。
そのまま隼人の部屋に到着すると、いつものようにドアはロックされておらず、すぐに開く。
「相変わらず不用心だな。誰が入って来るかわからねぇぞ」
と言いながら顔を上げて、目の前に立っている隼人の姿を認めたとき、息が止まった。
ショールカラーのジャケットをまとう隼人を目にするのは初めてで、一つボタンの下に重ねられたベストからワンタックのスラックスまで、ワインレッドで統一されたその着こなしは、隼人におそろしいくらいよく似合っていた。
「……」
目を見開いて固まった竜馬を見て、隼人がふふっと笑った。
「出る前に見せたくてな」
これはあまり出番のないものだから、と続けるその顔は、厳しさが前に出るようないつもの雰囲気と違い、完全に「社交性に長けたエリート社長」だった。
顔の傷すら隼人だけの色気を生むようで、綺麗だと竜馬は思った。
「……」
こんな隼人は知らない。いつからこんな、「世間一般」に通用する男になったんだ。こいつは。
「おい」
黙ったままの竜馬に首をかしげて、
「てっきり『馬子にも衣装だな』とか言うかと思ったがな」
と隼人が呟く。
「……その女でも引っ掛ける気かよ」
そんな皮肉が最初に出たのは、これから向かう先にいるのが自分の”ファン”であることを、隼人が黙っていたことを思い出したからだった。
「は?」
隼人が眉を寄せてこちらを見る。その表情すら陰のある色気が漏れる。
「そんな格好で、俺に見せつけて、なんだ、結局はテメェもその気なのか」
言い過ぎだと思った。隼人はおそらく単純にこの自分を見せたくて俺を呼んだのだ。
見せたいと、思ってくれたのだ。
「……」
隼人の頬に力が入るのがわかった。自分が黙っていた今夜の「事情」を竜馬が知っていて、それを責められていると気がついた。
「……馬鹿なことを」
「じゃあ何で言わなかったんだよ。
ロビーに出てみろ、そのお前を見たい奴らがここでも待ってるぞ。
せいぜい楽しませてやりゃぁいいじゃねぇか」
嫌味が止まらない。声が歪んでいく。
違う。そういう場に呼ばれたら行かざるを得ないのが隼人の事情で、個人的な誰かのためにこんな装いを選ぶわけじゃない。
「楽しませる」は確かにある、だから映えるものを身につける、だがそこに損得勘定以上の意味はないのだ。
分かっているのに。
「……」
隼人は表情を消して竜馬を見つめる。
初めて見る己の姿に竜馬が圧倒されているだろうことは、想像がついている。
「女を引っ掛ける」か。
……そうじゃないんだがな。
自分では気づいていないのだろうが、顔を赤くしてこっちを見る瞳には、いつものようにきらきらとためらいのない光が浮かんでいる。
怒っているはずなのに、その色には普段と変わらずあたたかい熱が見える。
俺だけに向けられる。
あの夜に知った光の意味は、俺から逃げ場を奪ったんだ。
もう逸らさなくていいのだと、自分も見つめ返していいのだと、その安堵がこんな用事で出て行くときも俺を支えるんだ。
それを確認したいから、呼んだのだ。
「……」
女など。
お前以外の人間など。
どうでもいい。
「……」
何も言わない隼人の顔は、瞳から光が消えて感情が読めない。
こんな瞬間が竜馬は苦手だった。
二人で話しているほかのときも、竜馬が渓の部屋の虫退治を手伝ったなんて話題を出したら、隼人はこうやって表情を消す。
ゴウたちが居なかったから俺にしか頼れなかったんだと話しても、「そうか」とだけ返してからかうこともしない。
怒っているのかどうとも思っていないのか、胸の裡を読ませない隼人を目の前にすると、竜馬の心はいまだに怯むのだった。
気が引けるなど。
およそ自分が抱える気持ちとしては違和感が強い。
それでも、隼人の存在が自分にとってどれだけ大きいかを知った今は、自分の状態が及ぼす影響を想像できないことが、不安定な感情を呼んだ。
俺が悪い。
隼人を傷つけた。
……こいつは俺によって傷を負うのだ。
その事実は、大事にしたいと思っているはずなのにそれが出来ない己の器の脆さを突きつける。
「……悪い」
何とかそれだけ口にした。
隼人は動かない。
「……」
沈黙が。
嫌いだ。
なぜこんな嫌味が出るのか、その理由を、言わなくてもお互いに理解しているから。
本当は。
一番肝心な言葉を二人で一緒に横に置いたままで、その確認をしないままで、向き合っている。
だから言葉が消える瞬間が気まずくなる。それを嫌でも思い出すから。
何も「確定」はしていないのに謝るのは、それでも、この自分に傷つく隼人をもう避けられないからだ。
「今夜は帰らないかもな」
低い声で隼人が言った。
それは、”実際はしない”という前提があるから、尚のこと竜馬に痛みを与える。
こんな皮肉を言わせることが。
ここに来た理由ではないのに。
「……」
何を言っても、言い訳にしかならないのなら。
足を踏み出す。
不意に動いた竜馬に、隼人の体が身じろぎして瞳に光が戻った。
手を伸ばすのは二回目で。
確実に触れる意図で。
そのまま、正面から隼人を抱きしめた。
「竜馬」
隼人の口から名前が漏れる。
それに答えず、回した腕に力を込める。
お前だって、ためらいなく俺を呼ぶだろう。
あのクリスマスの夜も。
唇が重なる一瞬前に、掠れた声で、精一杯の力で、俺がそこにいることを確認しただろう。
あの響きが、もう決して記憶から消えない甘い声が、今も俺がここに居る理由になる。
「隼人」
やっと、話せるようになったのに。
遠ざけているのは、お前じゃないのか。
体が密着するのは初めてで、嗅ぎ慣れないスーツの匂いに混じるいつもの隼人の体臭と、柔らかな髪と、筋肉の乗った硬い体の感触が、竜馬の思考を圧迫した。
ああ。
こうしたかった。
隼人の腕が背中に回る。
違和感なく隙間が消えるのは、自分と同じように力強く抱きしめるのは、隼人もまた、言葉がなくても伝えられることを確かめたかったのかもしれない。
「竜馬」
名前を呼ぶ声の調子が変わる。
甘く。
求める。
自然にこうすることが、どうして出来なかったのか。
二人きりの時間を、少しずつ増やしてきたのに。
酒を飲んで赤くなった顔で、酔ったふりをして、触れることも出来たのに。
こんなタイミングで。
これから離れると分かっているときに。
隼人が頬を傾けて、竜馬の肩に顔を乗せた。
息がかかる。
回された手は、意思を持って竜馬の背中を掴む。
当たり前のように、竜馬の腕に力が入る。
ああ。
お前が。
上体をずらして竜馬が隼人の顔を覗き込む。
息の触れる距離で見上げると、竜馬の瞳は、やっぱりきらきらと光を降らせる。
俺だけに向けられる。
あの夜と同じように、体を廻る何かを感じた。
それは毒だと。
二度と抜けることのない熱なのだと、教えてくれる。
目を開けていられないのは、あのときと同じように、侵されたいからだ。
竜馬の光で。
その毒で。
意識を奪ってほしい。
スーツに皺ができるとか、髪が乱れるとか、そういう瑣末な心配は無用だった。
今の俺に、お前の痕跡を残してほしい。
誰も崩せない印を。
「竜馬」
ねだる。
真っ直ぐにこちらを見ているだろうその顔の美しさを、俺だけが知っている。
二度目の口づけは、やっぱり肝心な言葉を置き去りにしたままで、気持ちだけが嘘をつけないままで、二人をつないだ。
あの夜はしっかりと感じることのできなかった唇の感触を、竜馬は味わいたかった。
隼人。
自分の裡から溢れてくる熱は、この手段でしか、伝えることが出来ない。
隼人。
呼べるようになった名前は、それまでの葛藤があるからよりいとおしく、深く、光の源になる。
離れたと思ったらまた触れて、重なって、何度も繰り返されるキスは、隼人の体から力を奪う。
背中を掴む指が不安定になる。
崩れていく姿勢を、竜馬の腕がしっかりと支える。
やっと顔を離したとき、隼人が目を開けて見たものは、強い色が浮かぶ竜馬の瞳だった。
「隼人」
名前を呼ぶ声が。
次の意思を伝えてくる。
「竜馬」
このまま。
そのとき、デスクの上にある電話が鳴った。
聞き慣れたその音で現実に戻されて、二人はやっと腕を解いた。
「……」
内線を知らせる電子音は鳴り続ける。
体を離して、横を向いた竜馬の顔は不満そうで、それを認めて隼人はふとおかしな気持ちになった。
まるで子供のようだ。
さっきまで、俺の全身を支配していた男が。
内線は司令室の番号が表示されていて、出てみるとヤマザキの声が流れてきた。
「神司令、そろそろお時間では」
車の手配が出来ています、と続けるのを聞いて、今夜は送迎があったと隼人は思い出した。
「すまない。少し待っていてくれ」
そう言って受話器を置くと、後ろから「行くのか」とぶっきらぼうな声が飛んできた。
「ああ」
スーツの乱れを直しながら、隼人はふっと笑った。
「なんだ」
不機嫌そうに竜馬が言葉を投げる。
「いや。何でもない」
デスクに用意していたチーフを胸に挿して、髪を改めて整えて、隼人は竜馬の前に立った。
「行ってくる」
背筋を伸ばして真っ直ぐに竜馬を見る姿は、完璧な「外向きの神隼人」になっていた。
「チッ、色男が」
忌々しそうにその顔を睨みつけて、竜馬もその隣に並ぶ。
二人でドアの前に立ったとき、隼人が言った。
「帰ってきたら、お前の部屋に行ってもいいか」
「あ?」
初めての申し出に、びっくりしたように竜馬が声を上げた。
「遅くはならないと思うが」
「構わねぇけどよ」
「これから向かう先がこことどんなつながりがあるか、お前にも話しておく。
こんな用事はほかでもあるからな、知っておいたほうがいいだろう」
「……」
さっきの発言を取り上げたのかと思って、竜馬は黙って視線を外した。
「お前が妬くようなことじゃない」
澄ました顔で隼人が続ける。
「はあ!?」
何を言ってやがる、と食ってかかりそうになって、昼間の渓を思い出した。
「テメェも渓も、勝手なことを言いやがって」
「渓?」
隼人の口調が変わった。
「そんな話をしたのか」
「うるせぇ。テメェには関係ねぇよ」
そっぽを向いてそう返して、はたと思考が止まった。
「テメェこそ、妬いてるんじゃねぇか」
からかうつもりでそう言って隼人を見ると、光を消した瞳とぶつかった。
「そんなことはない」
きっぱりと言い切る割に、表情は堅い。
「……」
ああ、こいつも。
それを世間では何と言うのか、どう取り繕っても自分以外の「可能性」に向ける気持ちは隠せない。
「隼人が気にすることじゃねぇよ」
そっけない口調でそう言って、竜馬はオープンのボタンを押した。
午後、出かける準備をしていると、弁慶が部屋を訪ねてきた。
「隼人、忙しいときに悪いな」
と、自分でマシンの整備がしたいと新しい工具のことで相談を受け、用意すると決まったとき。
「そう言えばな、今朝は焼却炉で竜馬と会ったぞ」
と弁慶が言い出した。
「そうか」
不意に出た名前に、動揺を悟られないよう短く答える。
「こそこそと朝早くからゴミを捨てに来ててな、お前に部屋が汚いって言われて掃除でもしてたんだろうな、あれは」
何も知らない弁慶は笑いながら話す。
「……」
「あいつも人間らしいところがあるじゃねぇか」
俺は渓たちに起こされてなぁ、と呑気に続ける弁慶の声を聞きながら、隼人はふっと心がやわらぐのを感じていた。
汚いとは言ったが、筋トレの道具なんかを乱雑に置いているのを整理しろと伝えたんだ。
「俺の部屋なんだから、どうしようと俺の勝手だろうが」
テメェは滅多にここに来ないだろ、と不貞腐れたように答えていたが、掃除したんだな。
それが原因で俺が来ないとでも思ったのか。
違う、俺がお前の部屋に行かないのは、帰れなくなる自分が分かっているからだ。
お前の気配に囲まれる場所で、冷静でいられるはずがない。
甘えて、ねだって、そばにいることを願うに決まってる。
迎えるほうが容易い。
帰るお前を見送る寂しさには、慣れているから。
弁慶が帰っていって、まだ素直になれない自分について考えた。
お前と二人の時間を求めているのに、いつもの自分を崩せない。
気持ちを知られても、お前が本気かどうか、いつ「やめる」と言い出すか怖くて。
来てくれることに、安心していたんだ。
だが。
「お前も、迎えてくれるのか」
そうだとしたら。
会いたいと言ってもいいのなら。
もう隠さずにいようと。
触れたい。
そばにいたい。
渇望は、止まないのだ。
-了-