毎日SS8/27「……こんなもんか」
シャワーでバスタブを洗い流し、モリヒトは息を吐いた。殆どの家事を取り仕切るモリヒトにとって、風呂掃除は数少ない担当外の家事だ。しかし、本来の担当であるケイゴが風邪を引いたため、快復するまでの間だけ交代した。
最初にとやかく口を出した分、風呂は毎日綺麗に掃除されている。蛇口に水垢が溜まっているような気がするが、細かいことはいいだろう。
ニコの魔法の影響か、頭の中がふわふわする。普段のモリヒトなら、水垢一つ見落とすこともなくステンレスを磨き上げるはずだ。
手にしたスポンジと水垢の残った蛇口を見比べ、ゆっくりと立ち上がった。ケイゴの様子を見に行こう。
洗面所を出てすぐ、向かいのドアをノックした。寝ているのか、返事はない。
「ケイゴ、入るぞ」
家主に構わず部屋を開ける。余程やましいことがない限り鍵は掛けないのか、無施錠の部屋はあっさりドアが開いた。
「……寝てるか」
ベッドで寝息を立てるケイゴを見つけ、小さく呟く。
今日は風邪を引いたにも関わらず、ニコの魔法に振り回されて散々だっただろう。
ベッドに腰を掛け、冷却シートが貼られた額を撫でる。熱を受けて生温かくなったシートを、枕元にあった新しいものに貼り替え、前髪を下ろした。体はまだ熱い。
「ん……モリヒト……?」
「悪い、起こしたな」
「……大丈夫」
ケイゴの目が開き、そのまま目が合った。
「あ、おでこの冷たい」
「ぬるくなってたから替えておいた」
「ありがと」
「他に何かあるか?」
もぞもぞと、毛布の中でケイゴの手が動き、額に触れる。額の冷却シートを確認して、布団の上に手が落ちた。
「んー、別にない」
「そうか」
布団からはみ出た腕を丁寧に持ち上げ、毛布の中に戻す。寒気は訴えてこないが、熱はまだ高そうだ。
まだ寝ていた方がいい。余り長居をしてはケイゴの負担になる、と部屋を出ようとした。
「どうした?」
立ち上がる時に違和感を覚え、ケイゴを見る。毛布の中にしまった筈のケイゴの手が、モリヒトのTシャツの裾を引っ張った。
「あ……いや、」
モリヒトの声に、ぱ、と手を離す。行き場をなくした指がそのまま毛布の縁を掴んだ。なんでもない、と言うように、毛布を頭まで引っ張る。
「なんでもない」
目元まで顔を出し、何か言いたげな表情で呟いた。いくら鈍いモリヒトでも、ケイゴが何かを訴えかけているのはわかる。
「……どうした?」
しかし、その内容までは察することが出来ず、もう一度聞いた。いつもよりトーンが優しくなったのは、病人相手だからだ。決して、ケイゴだからではない。
「風呂、掃除してない」
「もう掃除した」
「ね、熱下がったかも……」
「どう見ても下がってない」
「えーと、じゃあ……」
取り止めのないことを断片的に話すケイゴに、逐一突っ込みを入れる。気付けば、立ち上がりかけた腰が再びベッドに戻っていた。
ぽん、と毛布に包まれたケイゴを撫でる。
「あのさぁ、お願いがあるんだけど……」
「なんだ?」
「怒らない?」
病人が無茶な要求をするだろうか。熱が出て弱っているのか、いつもより遠慮がちなケイゴが、丁重に伺いを立てる。殊勝な態度がおかしくて、思わず口元が緩んだ。
「怒るわけないだろう」
もちろん、ケイゴに対して怒ったことは山程ある。しかし、今日は多少のことを言われたとしても怒る気にはなれなかった。細かいことを気にしても仕方がない。
「もう少しだけ、ここにいて」
「……」
「……移っちゃうか……」
熱でぼんやりしているせいか、瞳は潤み、普段のようなハリのある声でもない。
選択肢はひとつしかなかった。
「寝るまでここに居るから、早く寝ろ」
毛布の中に手を差し込み、ケイゴの手を握る。
「モリヒトの手、冷たいね」
「さっきまで風呂掃除してたからな」
代謝の良いモリヒトは、少しだけ体温が高い。
そういえば、ケイゴの手のひらはいつも冷たかった。
今日はモリヒトの方が冷たい手のひらを、指先でくすぐる。
「移ったらゴメンネ」
「まぁ大丈夫だろ」
「なにその自信」
ふふ、とケイゴが力なく笑う。しおらしい姿に、ぎゅ、と手を握り締めた。
「健康管理は徹底してる」
「モリヒトらしいね」
「いいから寝ろ」
握った手を離し、毛布の上から体を撫でる。
ケイゴになら風邪を移されても構わないし、今は細かいことはどうでもいいと思った。