【15】そういう日 二人が喧嘩しているらしい、と噂が流れたのが昨日、神司令が不機嫌でヤマザキが大変だと、弁慶はメンテナンスのスタッフから聞いた。
「何やってんだあいつら」
呆れるより先に首を傾げるのは、愛情で結ばれたパートナーだと発表してからずっと、二人は相応の弁えを持って人前に出ているのが分かるからで、諍いのような個人的な事情を隠さないなんてことが、逆に不思議だったからだ。
二人ともやるべきことはきちんとこなしていて、だから責められることこそないが、隼人に限ってはこのタワーの中心的な存在である以上は正しく割り切る姿勢が必須だと、弁慶は思っている。
ヤマザキの心労を考えながら、竜馬も昨日から何となく心ここにあらずの状態だったなと、ぼんやりした表情がちらりと頭をよぎる。
その二人の間に隠せないほどの何かがあったのは、弁慶にとっても気になることではあったが。
「そんなもん、犬も食わねぇぞ」
と、誰にともなく言った。
一人で食堂に足を向けた竜馬は、器を取ると隅に座って箸を持とうとしていた。
「竜馬さん」
声をかけられて顔を上げると、そこにいたのはトレーを持った渓とゴウで、「おう」と答えると
「ここ、いい?」
と訊かれて頷いた。
今日も寒かったねと言いながら渓が腰を下ろすと、その隣をゴウが陣取る。
こいつらも相変わらずセットだなと思いながらその様子を見ていると、
「神司令とは仲直りしてないの?」
と、いつものように渓が真正面から尋ねてきた。
「……」
思わず視線を外すのは、喧嘩をしているのは誰にも言ってないのに、伝わってしまっている事実に少し狼狽えるからだった。
「一人で食べても美味しくないでしょ」
そんな竜馬を置いて先に食べ始めた渓が言う。
「そんなことはねぇよ」
と反射的に返してから、一人でここに座るのは久しぶりだという実感が湧いて、また心が沈む。
「何やってんだって、親父が言ってたよ」
「……」
弁慶の呆れた顔が目に浮かんで、竜馬はため息をついた。
黙って皿に手を伸ばしながら、昨日からずっと、自分の部屋で食事を済ませている隼人のことを考える。
……人前で取り繕うのも、今は出来ねぇってことか。
今までは、多少のすれ違いがあって仲がおかしくなっても、タイミングが合うときは必ず二人で食べるようにしていた。
そうすることで維持できる心の底のつながりに安心していたし、二人の仲は順調だと皆に知らせる意味もあったからだ。
祝福してもらえているからこそ、自分たちがするべき配慮だと思っていた。
それが不可能なほど自分を拒絶するその気持ちが、今は重い。
「……竜馬さんってば」
渓の声が聞こえてきてはっとすると、「手が止まってる」と隣のゴウに言われて視線を下げる。
「……」
左手にはまるリングは、いつも通り違和感なくそこに落ち着いている。
ああと頷く声に力が入っていないのが、自分でも分かる。
「何があったのか知らないけどさ、早く仲直りしていつもの二人に戻ってよ」
ため息をついてから、「あ、そう言えば」と話題を変える渓と、さっさとしろと言わんばかりに鋭い視線を寄越すゴウを視界に認めながら、竜馬は味のしないスープを見つめていた。
……今回は。
俺のせいじゃねぇよ。
「部屋で仕事をするから」という理由でスタッフにお願いして持ってきてもらった食事は、まったく味がしない。
半分も箸が進まず手を置いてしまい、トレーを押しやりながら、隼人は大きなため息をつく。
こんなことでは駄目だ。
分かっているのに、何をしていても心がざわざわとノイズを立てていて、頭が上手く回らない。
「ほどほどになさってくださいね」
書類を渡しながら言ったヤマザキの顔が蘇る。
「……」
その言葉は、労りではなく牽制だった。
昨日から小さな不手際を繰り返す自分に向けられた、「しっかりしてください」というメッセージだと、隼人は思っている。
胸がぐっとへこむような痛みが湧いて、隼人は椅子に体を沈めた。
部下に尻拭いをさせる己の未熟さを実感すると、早く何とかしなければとはっきりと思う。
その焦燥は、一昨日ここで自分に向けられた竜馬の言葉に向かう。
「お前の都合よくなんていられる訳ねぇだろ」
冷たい響きで耳に届いたその言葉は、竜馬を愛する気持ちを否定された気がして、隼人から落ち着いた思考を奪った。
「求めることすら悪いのか」
吐いた返事に、竜馬は黙って視線を外すと部屋を出ていった。
それきり、顔も見ていない。
まるで駄々をこねる子供だと、今は思う。
どうにもならないことを持ち出して、それを竜馬が何とか出来るはずはないのに、傷ついた俺をどうにかしろと押し付けた。
「……愛しているのに」
声が漏れる。
きっと、竜馬もそう思っている。
なぜこうなるんだと、食事の時間になっても迎えに来ない竜馬と、同じく足を向けられない自分の間に横たわる溝に、背筋が寒くなるような不安を覚える。
「……」
愛しているのに。
変えられないことが自分を捕まえて、苦しめる。
竜馬。
「今」で満足出来ないのは、俺が欲張りだからなのか。
左手の薬指にはまるリングを見る。
完成したのに成就しない欲。
それが、たった一人、生涯をかけて愛すると誓った男を落胆させている。
……今回は。
俺が悪い。
次の日の朝、隼人は竜馬の部屋に向かった。
話し合わなければと思う気持ちは確かにあるが、その前に、いつもの習慣を取り戻したかった。
竜馬はまだ怒っているかもしれないが、朝食の迎えに来た自分を無碍に追い返したりはしないだろう。
これが仲直りしたいサインだと伝わることは、自信があった。
今までも、こうやってくすぶる気持ちを抱えたままでも一旦はお互いを受け入れることで、心のつながりを取り戻してきた。
話すのは夜でもいい。
今は、ひとまず歩み寄りたい気持ちだけでも伝わればいい。
竜馬。
焦りは消えてないし、具体的に何を話せばいいのかも決まっていない。
それでも、自分を拒絶しない竜馬を信じることしか、今は出来ない。
だから。
「……」
開いたそのドアから姿を現した渓を視界に認めて、隼人は息を呑んだ。
どくんと、胸に重たい衝撃が走る。
……なぜ居るんだ。
「あ」
隼人に気づいた渓が笑顔でおはようございます、と口にするのが聞こえる。
「……」
挨拶を返せない。不穏な動悸が湧いて感情が固まるのが分かる。
「竜馬さん、神司令が」
渓が開いたままのドアから中に向かって声をかけるのを、浅くなった呼吸で見ていた。
「おう」
声がして、いつもの姿で竜馬が出てくる。
こちらを見て、動揺したように瞳がわずかに揺れるのが分かった。
竜馬。
何で。
すぐに目を逸らして、竜馬が渓に向かって「行くか」と言った。
「え、いいの?」
渓が驚いたように竜馬を見上げる。
竜馬。
「……」
それを無言で受けて、竜馬が背中を向ける。
視線を寄越さない。いつもの光を見せてくれない。
それが、隼人の心を打ちのめした。
渓が少し考えるように黙って、それから頷くと隼人に頭を下げた。
歩きだしている竜馬の後を追うのを見送って、隼人は呆然と立っている。
一人残された廊下で、体を回る鉛のような衝撃に耐えていた。
過去の恋愛について話題にしたのがまずかったんだと、竜馬は思っている。
一昨日、いつものように隼人の部屋で二人で話していて、何気なく自分が口にしたのがきっかけだった。
「お前はどうだったんだよ」
隣に座る隼人は自分の左手を握っていて、そのあたたかさもいつも通りで、穏やかな空気にリラックスしていた。
悪気も何も、抱えてはいなかったのだ。
ただ、隼人の昔を知りたかっただけで。
「……それなりだな」
静かな口調だが含みのある響きで返されて、「何だよ、もったいぶりやがって」と茶化していた。
「ま、浮かれるお前なんて想像出来ないけどな」
と、横目で見たら、
「お前こそ、気にしてないフリをして一日待ってるタイプじゃないのか」
同じように薄目で見てくるのを馬鹿野郎と笑っていた。
いい雰囲気だったのに。
「……」
思わず肩が落ちるのは自分の愚かさに気が滅入るからで、そこから女性との交際に話が流れるのを止めなかったことを、後悔していた。
「どんな女が好きだったんだ」
そう訊いてくる頃、隼人の中には多分本人も気づかないうちにもう薄い闇が広がっていて、それに気づかず
「どんな、か。
そうだな、明るくて何も考えてないような」
と正直に答えかけていた自分は、こちらを見る隼人の表情が強張ったことに気づいて言葉を切ったが、もう遅かった。
「そうか」
声が低い。自分の左手を掴む指に力が入る。
「そんな女がいいのか」
「……」
しまった、と胸に苦い汁が広がった。
過去であれ、自分以外の誰かに思いを向けていた事実は、隼人にとって流せるものではないのだと思い至った。
もう遅かった。
「俺とはまったく違うんだな」
そう口にする隼人の瞳からは、いつものあたたかい色が消えている。
その代わりに浮かぶのはぼやけた光で、薄闇が覆うようなその曖昧さが、竜馬に不安定な感情を伝えてくる。
「……やめようぜ」
静かに言った。
傷つけたい訳じゃないんだ。ただの過去なんかで。
「昔のことだからな」
今は違う、と続けてその顔を見つめるが、おそらく裡に湧いた闇に少しずつ混乱が進んだのが隼人の状態で、
「受け入れられないな」
と返す声は、低いままで揺れていた。
俺以外の人間を愛していたお前のことなど。
認めない。
「……」
隼人の情緒が崩れるのはこういう瞬間なのだと、今まで過ごしてきて知っていたはずなのに、自分に向けられる思いの深さが今さらのように竜馬の心を打つ。
こいつは。
この欲から一生逃げられねぇ。
「やめろ」
目を見る。話を切るしかない。
その執着は、愛情にはならない。
「聞かせろよ」
隼人の声は変わらない。届いていない。それが竜馬の胸に鉛を落とす。
「おい」
「女のほうがいいか」
「やめろ」
それは。
俺じゃなくてお前を傷つける。
だから。
「隼人」
「そんな過去は消えればいいのに」
呪うように吐かれた言葉が竜馬の心に痛みの筋を引いて、その瞬間に糸が切れた。
「お前の都合よくなんていられる訳ねぇだろ」
変えられないことはある。
それはどうにもならないのはお互いさまで、過去への嫉妬も今への執着も、自分を蝕む闇にしかならない。
苦しむのは、誰でもなく自分なのだ。
なぜ、「今」を見ない。
「……」
断ち切られたと気がついて、隼人の顔色が変わった。
「求めることすら悪いのか」
潰れた声で呟く。
違う。
そんな話をしているんじゃねぇよ。
「……」
黙って立ち上がる。
隼人はこちらを見ない。
求めているのは。
また。
俺を無視するなと、前も言ったのに。
そのまま隼人を残して部屋を出て、次の日は一瞬も姿を見ることもなくて、今日になってしまった。
司令室の隼人がおかしいことは、ほかの所員が自分を見る目に浮かぶ困惑で分かった。
一人で向かった食堂で、喧嘩しているらしい、と囁く声が聞こえてきた。
「……」
これが。
お前の望む「今」なのか。
こんなくだらないことで。
お前は皆の信頼を失う気か。
隼人。
「よし、大丈夫」
と、渓がこちらを見て言った。
「始めるか」
戦うこと以外で腕まくりをする自分なんて、久しぶりだった。
「バレンタインだ」
と言ったゴウの表情が明るい。
その手にあるのは渓の手作りのチョコレートで、こいつがこんな顔をするのは渓が関わったときだけかもな、と竜馬は思う。
「俺にも作ってくれたのか」
と驚く弁慶の声も弾んでいて、そのでれでれした様子を目にすると、本当にいい親父になったなとおかしかった。
チョコは凱の分もあって、皆に囲まれて得意げな表情をした渓が「すごいでしょ」と腕組みをするのを、竜馬は離れたところから見ている。
いつもの部屋はメンテナンスのスタッフや所員も集まっていて、賑やかなのはバレンタインのチョコレートを皆で食べているからだった。
誰がやろうと言い出したのかは知らないが、タワーの女性たちが食材を持ち寄ってそれぞれ作る企画のような話は、渓が教えてくれた。
それを、渓から勧められたのではなくみずから「俺もやる」と言ったのは、これを仲直りのきっかけにしたいんじゃなくて、今の自分を隼人に伝えたいからだった。
バレンタインだから。
好きな人に思いを届ける口実のある日だから。
当たり前だが男に贈るために何かを作るなんて生まれて初めてのことで、それが出来る己の欲深さに、一瞬たじろいだのも事実だった。
……こんなことをする日が来るなんてな。
新鮮な衝動は自信になる。
ためらわない自分。
これが、隼人を求める欲を当然にする。
一昨日、俺がバレンタインの話なんてしたのがきっかけだった。
だから、これで上書きするんだ。
「神司令も来るって」
渓の声がする。
今朝、朝早くから渓が呼びに来てくれたのは、キッチンを女性たちが占める前に使いたかったからで、そこに隼人が現れたのはタイミングが悪かったのだと思っている。
自分の部屋から出てくる渓を見てもおかしな想像をしない確信はあるが、それでも、ショックは受けるはずだった。
何のために、隼人は俺の部屋に来たのか。
誘いたいからだろうと分かってはいて、でも今日だけは、大切なこの用事があった。
料理などしない自分が一人で作れるはずはなくて、渓の力を借りるしかなかったのは、後になれば分かることだから。
だから。
お、と弁慶がドアを見て、そこに立つ隼人の姿が目に入って、竜馬の心が跳ねた。
中の喧騒を見て
「何だこれは」
と呟く顔はやつれていて、後ろをついてきていたヤマザキが
「今日はバレンタインなので」
と、澄ました顔で言っている。
渓がちらりとこちらを見た。
……組んでやがったな。
神司令もどうぞ、と隙のない様子でヤマザキが誘導したのは、竜馬の前だった。
「……」
目が合う。状況は理解しても、なぜ自分がここに連れてこられたのか分からないのか、瞳が戸惑っている。
「隼人」
思わず笑いがこみ上げる。
今日は「そういう日」だ。
「竜馬」
自分を見る瞳に浮かぶ何かを掴んで、隼人の声は響きが変わる。
向こうで渓とヤマザキがジュースで乾杯をしている。
弁慶がもったいねぇなとまだ言っている。
誰もこちらを見ない。
喧嘩をしていたはずの二人は、もう誰の関心も引かない。
「ほらよ」
それでも、いざ渡すとなったらやっぱり緊張が襲ってきて、竜馬は目を逸らしながら持っていた包みをぎこちなく差し出した。
「……」
自分に向けられたそれに隼人の目が釘付けになって、息を呑む気配がする。
何か言えよ。
そう思うが顔を見ることが出来ない。
「……これは」
呟きながら、隼人の手がゆっくりと動いて包みを受け取る。
「お前が」
「そうだよ悪ぃか」
失敗を繰り返してようやく完成したチョコレートは小さくて不格好で、お世辞にも美味しそうとは言えないかもしれないが。
きれいに包めなくて皺の寄ったラッピングじゃ、嬉しくないかもしれないが。
「これでも、朝から頑張ったんだからな」
一生、お前にしか作らねぇよ。
「……」
ふっと、隼人の息が漏れる音がした。
視線を向けると、その小さな包みを愛おしそうに手に抱く隼人がいた。
垂れた目尻は赤く滲んでいて、半分伏せられたまつ毛が瞳に浮いた光を弾いて揺れている。
そんな顔をするな。
こんなところで。
「……竜馬」
小さく呼ぶ声は、おそらく歓喜のせいで上ずっている。
口角の上がる唇が、伝えてくる。
お前だけだと。
「……」
お前の都合よく存在することは、これからも出来ないかもしれないが。
それでも。
「隼人」
名前を呼ばれてこちらを見た隼人の瞳に、いつものあたたかい色が広がっている。
きっと自分の瞳も、いつものようにきらきらと光を降らせている。
これが、今の俺たちなのだと。
部屋の中は喧騒が続いている。
誰もこちらを見ない。
その手を掴む。
驚いたように一瞬身を固くした隼人に、
「行くぞ」
とだけ言った。
人の間を縫うように進みながら、つないだ手に力を込めた。
今だけは。
誰にも邪魔されない。
ドアから出ると、そのままタワーの玄関を目指す。
廊下に人はいない。
歩く勢いが止まらなくて、いつの間にか走り出していた。
皆の声が遠ざかる。
結ばれた指は、当たり前のように固く二人をつないでいる。
玄関から外に出て、上に広がる星空が目に入って、やっと足を止めた。
「竜馬」
荒い息のまま隼人が笑い出す。その手にはチョコレートの包みがしっかりと握られている。
外は風が舞っていたが、冷えた空気が新鮮で美味しくて、興奮で熱が回る体を心地よく包んでくれる。
ドアが閉まれば灯りは消えて、向こうの警備灯の光がうっすらと届いている。
幾億の星を抱えた夜空だけが、二人を見ている。
手を離して抱き締めあう力の強さに、多分お互いが圧倒された。
「愛してる」
竜馬の口から、一番言いたかった言葉が漏れる。
たった一人、この魂を捧げた男。
背中に回した腕に力を入れて、隼人が「俺も愛してる」と呟いた。
変えられないことはある。
それはどうにもならないのはお互いさまで、過去への嫉妬も今への執着も、それ以上に大切なもので上書きしていく。
二人とも。
この欲から一生逃げられない。
「愛してる」
竜馬の肩に頬を預けて、隼人が繰り返す。
それ以上の愛情を何と呼ぶのか二人とも知らないから、これしか言えない。
その耳元で、竜馬が
「俺はお前のもんだ」
と囁いた。
重ねた唇で、何度も確かめる。
変わらないものを、これからも二人で守っていく。
その欲も。
身に巻かれた鎖も。
最後はいつだって歓喜の光になる。
隼人の手にある甘い塊が、二人を溶かすように。
今日は、「そういう日」。
-了-