黒猫が来たりて口笛を吹く。ニェンという男はとんでもなく無口な男だった。無口で残虐で、超がつくほど主人に忠誠を誓い、慕っている男だった。
その忠誠は何より深く、主人のためなら手を汚すことさえ眉ひとつ動かさずに行ってみせる。
だから女は彼をひとめ見た瞬間、あ、敵に回してはいけないタイプだ……と察知した。
そしてその予感は間違っていない。女が家に連れてこられてすぐにニェンはいつも通りのオリエンテーションを行い、主人に最も近いのは俺だ、お前は俺のテリトリーにいるのだと力説した。
女は震えながら頷き、ご主人様にもこの黒猫にもあまり近づきすぎないように、刺激しないようにと心掛けて生活することを心に決めたのだ。そしてそれ自体はとても無理、というものでもなかったので、女とニェンは数か月間ほとんど会話もしないまま過ごしていた。過ごしていたのだが。
ある夜、女はルーサーの居室に呼ばれた。それは特別な意味合いを持つものではなく、ただただ「家族とうまくいっていないのではないか?」という心配から来る相談会のようなもの。女はルーサーの居室でリラックス効果があるのだというお茶を頂き、まだちょっと緊張してるかもしれないです……と小さくこぼしたのだった。
ルーサーはいくらナナやキティがいるとはいえ、基本的には男所帯に人間の女の子一人を放り込んでしまったのだから無理もないと考えつつ、可哀想にねと眉をひそめた。
「いいだろう。まあ、溶け込むには時間がかかるだろうが……私もできる限り手伝ってあげようね」
「ご、御高配いただきありがとうございます」
「気にせずともいいんだよ。私たちは家族なのだから♡」
もう遅いから下がりなさい、とルーサーは口の端を吊り上げて痙攣させながら女を寝室まで送ってくれた。主人が赤黒く光る廊下をガタガタ歩いていくのを少しの間見送り、背中が見えなくなってからそっと扉を閉めようとした。
その瞬間、扉の隙間に差し込まれる黒い尖った靴。
女は悲鳴を上げようとしたが、その口は他でもないその男の手によって塞がれてしまった。
彼の手からは煙草の匂いがする。そうか、彼は喫煙者なのだ。女はそれすら知らなかった……。
「おい、テメェ」
「は、はい。なんでしょう……」
怯えながら上目遣いで自分を見てくる女にチッ、とお行儀悪く舌打ちをする男。
先住猫のニェンであった。
彼の白っぽい髪はいま、廊下側の電灯に反射してピンク色にひかって見える。
女は震えて腰を抜かし、二歩、三歩と後ろに下がる。その分距離を詰めてくるのがニェンの嫌なところだった。根っからのハンターなのだ。
「ご主人様と、どういう話をしてたんだ」
「べつに……つまらない話しか」
「ご主人様のお話がつまらないと?」
「そ!そういうわけでは……」
泣きそうな女の肩を存外優しくつかんだ男は、耳元でそっと「内緒話か?寂しいじゃねえか」と思ってもいなさそうに、平坦に言った。喉の奥を震わせて、口を動かさないままクク……と笑う。
「さぞ有意義なお話をして来たんだろう?そうなんだな?」
「い、言えません」
「ほぉ……」
頑なに首を振る女を見て、ニェンは目を剣呑に細めた。女はまさか、「まだおうちになじめていません」と相談し、あまつさえルーサーに心配をかけてしまったことがニェンにバレてしまえばとんでもないことになると危惧した。そしてそれはおそらく、実際にそうなる。
女はこの先丸一年分の勇気を振り絞って立ち上がった!
逃げなければならない。
震える足腰に鞭をうち、ニェンの横をすりぬけ、無様によろめきながらひた走る。
この家から出るのは無理でも、広大な屋敷だ。どこかに内側から鍵をかけられるような場所が、トイレ以外にもあるはずだった……。
ニェンはその様子を認め、大きく開いた口から尖った牙を見せてニヤニヤと笑った。彼の狩猟本能がビリビリと刺激され、ニコチンなんかよりずっと脳に血がめぐる感覚が確かにある。
彼はかわいた唇をなめ、低く口笛を吹きながら女の逃げた方向へ、ゆっくりと歩いていった。
「ハハ……最後のチャンスだ。お前は全力で逃げろよ?カワイイ子ウサギが……」
彼の独り言は、後ろなんて振り返らない女の耳にはついぞ、届くことはないのだった。