三千世界の鴉を殺し、きみとダンスをしてみたい。それは綺麗な、とても綺麗な月夜のことであった。
少女は窓越しの月を見上げ、手にした本にそっとしおりを挟んで閉じる。
もう夜は十分すぎるほど更けている……明日も予定があるし、そろそろ寝よう。
明日はランダルと遊びに出かける予定なのだ。プリンスはお寝坊さんだが、それでもできるだけ早く起きられるに越したことはない。ねぼすけさん!なんて詰られたら嫌だし。
明日は何時に起きようかな、と少女がカーテンを閉めようとした、丁度その時。
「やあ、こんばんは」
トントン、コツン。窓越しに、目の前に現れた影。
深いオレンジの髪を風に遊ばせる長身の男。
ここ、あけて……と指で軽く窓をつつかれるのに従って、少女は窓の鍵を開けてしまった。
「お招きありがとう、プリンセス」
「あ……」
彼は優しげな笑顔でひざまずき、少女の手をとって少女と視線を合わせた。それはハント・クスのお伺いであったが……まだ幼い少女はその行為の意味が分からなくて固まっている。その様子を認めた男は口だけで小さく笑って、さっと立ち上がった。
「一曲、いいかな。いいでしょう?」
あ、このひと、ランダルに似ている。彼女は直感的に、本能的に、そう思った。
それは丸眼鏡の奥に光るいたずらっぽい瞳、月光に照らされた炎みたいな髪、許可を取っているようでそうでない声色。自分より背が高いはずなのに、上目遣いが上手いところ。
ぱちん、と彼が指を鳴らした瞬間、誰も何もしていないのに、彼女の部屋のラジオから音楽が鳴り始めた。
ロマンチックな音楽だ。彼の手に引かれるまま、従うままに少女は窓の桟に足をかける。
跪いた男のくちびるが、少女の白い足に触れて。彼は腕を強く引き、窓の外へと少女を誘う。
落ちるかもしれない、なんて恐れを抱いたのは一瞬だった。
だって手を取る彼の表情がどこまでも優しくて柔らかいから。だから、きっと大丈夫。
彼女は空を、歩けるようになっていた。
星を見上げ、月を眺め、二人は音楽に乗ってゆったりとしたダンスをした。
少女はダンスの作法なんて知らなかったから、何度も男の足を踏んだし何もかもしっちゃかめっちゃかで、多分ダンスの先生が見たら卒倒するようなレベルだったけど。
でも、男はそれでも幸せそうな表情で彼女の腰を抱き、手を引き、彼女を軽々抱き上げてくるりとターンをした。
夜の寒さなど、二人には何の躊躇いにもならない。
曲はサビも後半に差し掛かり、彼はそっと彼女を部屋に帰した。部屋の中でも曲は鳴り止まない。まだダンスが途中だから。
「私もきみのように、勇気を持てていればよかった」
誰に言うでもなく、震える声で小さく囁いた男は少女をギュッと抱きしめ、そのまるい額にキスを落とした。
一瞬、その瞳に涙が浮かんでいるように見えた、けど。
眼鏡に月影が反射しただけで、見間違いかもしれなかった。
少女はその言葉の意味を、行為の真意を確かめようとして……しかし、それは叶わなかった。
強い風が一陣吹いて、カーテンが大きく揺れて。少女の読んでいた本のページが乱れる。しおりを挟んでいなければ今頃、どこを読んでいたかわからなくなってしまっていただろうとくらいの風だった。
そのカーテンの揺れがおさまり、少女が乱れた髪を直して目を開いた頃。
男は忽然と姿を消し、少女は部屋に一人であった。
窓の外を見ても、人の影も形もない。
その夢のような一瞬は、部屋にわだかまる曲の余韻だけがそれが現実であったのだと、そう証明していた……。
少女はキスをされた額を撫で、その感触を確かめるように目を閉じる。
……それは綺麗な、とても綺麗な月夜のことであった。