ハンドクリーム「今日は随分と冷えるな……」
窓の外を見ると、雪がしんしんと降っている。ジェイは、手袋を着用している義手の右手と素手の左手を擦り合わせた。
「…………」
「ん?どうかしたか?」
ジェイは同室のアッシュがベッドに腰掛けてこちらをじっと見つめている事に気づき、声をかける。するとアッシュは無言のまま立ち上がり、ジェイの側へズカズカと近寄ってきた。そして、「手を見せろ」と言うやいなや、強引にジェイの左手首を掴み上げてきた。
「うおっ……!? ど、どうしたんだ急に!?」
突然の出来事にジェイは驚きの声を上げる。アッシュはそんな事などお構い無しといった様子でジェイの手をまじまじと観察してくる。
「テメェ……、なんだこの手は! ひび割れまくってんじゃねぇか!」
「ん?」
ジェイは自分の手に視線を落とすと、確かにカサついた指にちらほらと亀裂が入っていた。ジェイはふむと顎に手を当てる。
「本当だ、気が付かなかったな……」
確かに最近乾燥してきていたが、こんなにもヒビが入るとは思わなかった。
「俺も歳だから仕方ないな。年齢は手に現れるとはよく言ったものだ」
「…………」
ジェイが苦笑しながらそう言うと、アッシュは何とも言えない複雑そうな表情を浮かべながら黙り込んでしまった。
「ん? どうかしたか、アッシュ?」
「……フン、別になんでもねぇよ」
アッシュは鼻を鳴らしながらそっぽを向く。なんでもないとは言うが、その声はどこか不貞腐れたような色を含んでいた。理由はわからないが、どうやらまたアッシュの機嫌を損ねてしまったらしい。ジェイが困りながら頭を掻くと、アッシュは再び口を開いた。
「おい、老いぼれ。まさか歳のせいにするだけで何もしないつもりじゃねぇだろうな?」
「ん? どういうことだ?」
アッシュにじっとりとした目で睨まれながら、ジェイはきょとんとする。
「チッ、ハンドクリームでも塗っとけって言ってんだよ。それぐらい持ってんだろ」
「ああ、そういう事か! だが生憎持ち合わせていないな。片手が義手だと塗り込んだ後にベタベタして大変だから、俺には必要無いと思っていたんだが……」
「テメェ……。手がボロボロだとヒーロー業務にも支障が出るだろうが! ったく、これだから老いぼれは……」
アッシュは呆れたように大きなため息を吐くと、「ちょっと待ってろ」と言い捨て、自分のスペースへと戻っていった。そして棚の引き出しから物を取り出してくると、再びジェイの前に姿を現す。アッシュが手に持っているのはチューブタイプのハンドクリームのようだ。アッシュは無言でキャップを外すと、中身を指先に絞り出した。
「おい、手ェ出せ」
「ん?」
アッシュに言われるままに左手を差し出すと、アッシュはその手にハンドクリームを乗せてきた。そしてそのままジェイの手を取ると、優しく擦るようにクリームを伸ばしてくる。
「お、おお……!?」
ジェイは驚いて目を丸くした。あのアッシュが自分の手にハンドクリームを擦りこんできている。一体何が起こっているのかと唖然としていると、アッシュは手を離し、眉間にシワを寄せながらジェイの顔を見上げてきた。
「なんだよ、文句あんのか」
「い、いや……。これは一体どういう風の吹き回しなのかと」
「……うるせぇ。これ以上酷くなったら目障りだってだけだ」
アッシュはそうぶっきらぼうに答えると、フンッと鼻を鳴らした。相変わらず素直じゃない物言いをしているが、きっと彼なりに心配してくれているのだろう。
(……まったく、可愛い奴だ)
ジェイは微笑ましさに頬を緩ませる。
「ニヤけてんじゃねぇよ」
アッシュは照れ隠しのように舌打ちすると、再びジェイの手を取り、今度は両手を使って丹念にクリームを擦り込み始める。──その様子をぼんやり見つめているうちに、ジェイはあることに気がついてしまった。
(あー……。なんだか妙にドキドキするぞ……?)
ジェイは急に気恥ずかしさを覚えて視線を逸らす。最初はなんとも無かったはずなのに、アッシュに触れられている部分が熱を持ち始めているような気がする。アッシュの手つきがとても優しくて、まるで愛しい人に触れるかのように丁寧なものだからだろうか。
(こんなの、まるで恋人同士の触れ合いみたいじゃないか……。いや、何を考えているんだ俺は……)
ジェイは頭を振って雑念を振り払おうとする。しかし一度意識してしまったものはそう簡単には消え去ってはくれなかった。
時間の流れが妙に遅いように感じる。否、実際にただハンドクリームを塗るだけにしてはあまりにも長すぎる時間が経過していた。ジェイは落ち着かない気分でチラリとアッシュの顔を見る。すると、アッシュもまたジェイの方へ視線を向けたところだったらしく、ばっちり目が合ってしまった。
「……!」
その瞬間、アッシュはハッと我に返ったように目を見開く。そして気まずそうな顔をして手を引っ込めてしまった。
「ッ……、とりあえずこんなもんだろ……」
「あ、ああ……。ありがとう、アッシュ」
ジェイは動揺を隠すように微笑んでみせるが、上手く笑えている自信はなかった。アッシュはそんなジェイの表情を見てバツの悪そうな顔をする。二人の間にはなんとも言えない沈黙が流れた。
「……ゴホン」
ジェイは気を取り直すように咳払いをする。丹念にハンドクリームを塗り込まれた左手を眺めてみると、そこは先ほどよりも随分とカサつきが落ち着き、潤っているように見えた。
「ふむ……、確かに随分と良くなったようだ。やはりきちんとクリームでケアしないと駄目なんだな……」
「……当たり前だろ。このハンドクリームはテメェにやるから、わかったらこれからは面倒臭がらずに自分でちゃんとケアしろよ」
そう言ってアッシュはハンドクリームをジェイに押し付けるように渡してくる。よく見ると、それはとても有名なハイブランドのもののようだった。
「いいのか? 随分と高そうな物に見えるが……」
「あぁ? テメェは誰に向かってモノ言ってやがんだ? つべこべ言わずに受け取りやがれ」
「……そうか、そうだな」
大富豪の御曹司であるアッシュに値段の話は野暮というものだろう。ジェイは素直にその好意を受け取ることにした。
「では遠慮無く頂こう。本当に助かったよ、アッシュ」
「ふん、別に大したことねぇよ。……俺はもう寝る」
アッシュはぶっきらぼうに返事をして、自分のベッドへと戻っていった。
「ああ、お休みアッシュ」
ジェイが声をかけると、アッシュはこちらを振り向かずに右手だけを軽く上げて、そのまま毛布を被ってしまった。
ジェイはクスリと笑ってその姿を見送ると、もう一度自分の左手を見つめる。その手にはまだ、あの優しい熱が残っている感覚がした。
(ああ、まいったな……)
何故アッシュはあんなことをしてくれたのだろうか。そして目が合ったときのあの反応は何なのか。年甲斐もなく勘違いをしてしまいそうな自分が恥ずかしい。
ジェイは顔を手で覆うと、一人静かにため息をつく。きっとこれからこのハンドクリームを塗る度に、アッシュの手の温もりを思い出さずにはいられなくなるだろう。
***
(……クソッ)
ベッドに潜り込んだアッシュは、自身の行動を思い返し頭を抱えていた。なぜ自分はわざわざジェイの手に触れ、無駄に丁寧にハンドクリームを塗り込んでしまったのだろうか。ハンドクリームを渡してやるだけで十分だったはずだ。アッシュは自分でも意味のわからない行動を悔いていた。
「…………」
ジェイの傷ついた手はとても痛々しく見えた。何故こんなになるまで放っておいたのかと苛立って仕方がなかった。──そして気がついたらその手を握っていたのだ。
アッシュは気を紛らわすように、拳をギュッと握りしめる。そこにはまだジェイの手のひらの感触が残っているような気がした。
「…………チッ」
モヤモヤとした思考を振り払うように目を瞑る。眠ろうと思えば思うほど、あの瞬間にジェイと交わした視線の熱が蘇ってきて離れなくなる。胸の奥がぎゅっと締め付けられる感覚を覚えて、アッシュは毛布の中で小さく身じろぎした。
(……クソッタレ……)
アッシュは寝返りを打ち、枕に顔を押し付ける。この感情の名前をまだ知りたくなかった。