願い明日、〈大いなる厄災〉が襲来する。
全身の血が沸騰するような感覚に襲われ、僕は早々に眠るのを諦めていた。きっと彼ならばこんな夜でも悠然とした態度を崩すことはないだろう。気づくと部屋の前まで足を運んでいる自分がいた。彼の顔を見て、安心したかったのかもしれない。ノックをするよりも先に扉が開く。予想外とでも言うかのようにフィガロは少しだけ目を見開いていたが、すぐにいつもの穏やかな表情で見つめられる。視線を落として、なんと言おうか迷っていると、「少し、歩かない?」と先を越された。
行く当てもなく無言で歩みを進める。誰かといるのに沈黙が続いてしまうのは気まずいはずなのに、不思議と先ほどよりも心が落ち着いていた。
魔法舎の周辺をぐるっと一周して戻ってきた僕たちは月に背を向けて噴水のふちに腰かけた。
今にも空から落ちてきそうなほど近づいた月が煌々とあたりを照らしている。チラリと横目でフィガロの様子を伺ってみたものの、逆光のせいでその表情はわからない。思えばいつもそうだった。肝心な時に僕は彼の感情を掬うことができない。ひまわり畑に囚われたかつての仲間を見送った時もそうだ。あれ以降、僕たちは核心に迫る話を意図的に避けて過ごしてきた。
のらりくらりとかわす様にはじめは苛立つことも少なくなかった。それでも同じ時間を過ごしていく中で、僕は自分が思っている以上に彼のことを知らなかったのだと気づかされた。
フィガロ様は偉大なお方だ。心から尊敬している。その気持ちはかつて師事していたあの時から今でも変わっていない。
あの頃の僕と今の僕で決定的に違うのは、精神的な幼さと余裕のなさだ。当時の僕は未熟で、いつも目の前のことに必死になって足掻いていた。そんな中で彼の本質を的確に捉えようとしていたかと聞かれると自信を持って首を縦に振れない。僕とは別次元の生き物なのだと一線を引いてしまっていたのかもしれない。
こうして再会して、僕はフィガロの知らない一面をたくさん知った。自身の在り方が定まっているようでぼやけている。行き場のない感情を持て余し、燻らせながら誰よりも人間らしくもがいているように見えた。
きっと何度話し合ったって、フィガロの考えを僕が完全に理解することはできないだろう。僕には僕しか経験していないことがあるように、フィガロにだってフィガロにしかわからない苦悩がある。
だからこそ、難解にほつれた糸を無理に解く必要なんてないと思った。蟠りがあってもいい。そばにいるとこんなにも気持ちが安らぐ。それだけで十分だ。そんな風に気持ちの整理がついた頃には、僕はフィガロと共に生きたいと強く願うようになっていた。
これから僕が伝えようとしていることは独りよがりなことかもしれない。それでも……、それでも僕は。
「フィガロ……」
「ん?」
「明日、僕たちがあの忌々しい厄災を無事押し返すことができたら……」
「あっはは。だめだよ、ファウスト。それ『死亡フラグ』ってやつだよ。前の賢者様が言ってた。」
「どういう意味なんだ?」
「そういうセリフを言っちゃうとね、思い描いた未来が手に入らなくなるんだよ。」
*
「フィガロ!!!!!!」
「「フィガロ先生!!」」
「フィガロ様!!!」
傷だらけの魔法使いたちが口々にフィガロの名前を叫ぶ。幼い魔法使い達を庇い、凄絶な光の刃を一身で受けたフィガロは鮮血を散らしながら真っ逆さまに落下していき、そのままザブンッと激しい水飛沫をあげて海中に消えた。僕は一心不乱に箒を飛ばして、その姿を追い、水中に突っ込んだ。
*
なんとかフィガロを引きずり上げ、双子の力を借りて治療を済ませた。かなりの深傷を負っていたから回復には時間がかかるだろう。それでも石にならずにすんだ。その事実に僕はこれまでにないほどの安堵を覚えた。それは僕がフィガロに向ける感情がより一層シンプルなものになっていくような感覚だった。ただフィガロに生きて欲しい。願わくば、僕と一緒に。そのためなら僕の全てを投げ打ってもかまわない。
僕は寝食も忘れてひたすらに祈りを捧げた。
しかし、その後フィガロが目を覚ますことはなかった。
石になってはいない。確かに呼吸をしていて、そこにいるのに、眠ったままなのだ。
試せることは一通り試した。彼を慕う者達と共に血眼になって彼を目覚めさせる方法を探したが、フィガロはどれだけ経っても目を覚ますことはなかった。
なんの糸口も掴めないまま、時間だけが過ぎていく。そうこうしているうちにフィガロの紋章が消えてしまった。
僕はそれを皮切りに彼を連れて嵐の谷に戻った。もうできることは何もないと分かっていても、諦めることなどできない。もしかしたら急に「おはよ〜」なんてだらしない声を出しながら起きてくるかもしれない。そんな期待を毎日しては打ち砕かれる日々を過ごした。
紋章がなくなったということはフィガロの魔力が弱まった証拠だった。原因不明の眠りから覚めるより前に魔力が尽きて石になるのは避けなければならない。僕は双子とオズに協力してもらい、年に一度フィガロの魔力を補填した。
それももう何度目かわからない。回数を数えるのはやめた。フィガロだけが時の流れに取り残されていくことに耐えられなかった。
一通りの儀式を終えると、スノウが寂しげにポツリと呟いた。
「フィガロがこんなふうになってしもうてからもう100年は経つかのう。」
「………そんなに経っていたのか。」
「のう、ファウストや。」
「…………」
双子が何を言おうとしているのかわかる。彼らの瞳にも迷いの色が浮かんでいる。
「……フィガロはもう目覚めないだろう。」
少しの沈黙の後、重い口を開いたのはオズだった。
「そんなの……わからない。」
「フィガロの魔力はとうに底を尽いている。こうやって一時的に凌いだとしても、いずれは…」
「……」
頭では限界なのだと分かっていても、いつまで経っても気持ちの整理がつかないのだ。それは彼らもきっと同じだ。こんなやりとりをもう何度も繰り返している。返す言葉もなく項垂れた僕の肩を双子がさすってくれた。
愛弟子にこれ以上してやれることがないと悟った彼らの絶望は僕の悲しみの比ではないかもしれない。
「また来よう。」
オズは横たわるフィガロを見つめて悔しげ眉を顰めると静かに部屋から出ていった。双子も後を続いて去っていく。
その日からしとしとと雨が数日間にわたり続いた。
*
ある朝、フィガロの眠る部屋からガタンッという物音が聞こえて、慌てて部屋に向かった。風か何かの仕業だとわかっていても体が勝手に動いてしまう。
「フィガロ!!!!!」
「……………ミャア」
「きみか……」
子猫が嵐のように駆けてきた僕をキョトンと不思議そうに眺めている。フィガロは……相変わらず眠ったままだ。
足元でじゃれつく子猫を撫で、諌めながら、ベッドのそばに腰掛ける。フィガロの胸に耳を当ててトクントクンと控えめに刻まれる心音を確かめて、心を落ち着かせた。
結局伝えたかったことは伝えられないままだ。
あの〈大いなる厄災〉と戦う前日のことをいまだに何度も思い返す。あのあとフィガロは相変わらずおちゃらけた態度で僕を茶化した。真面目に話しているのにと憤慨したが、今思えばフィガロなりに僕の緊張を和らげようとしてくれていたのかもしれない。
「大丈夫だよ。いざとなったら皆んなの頼れるフィガロ先生がこの身を挺して守ってあげるからね。」
そう言って朗らかに笑う表情が鮮烈に脳裏に焼きついて離れない。
「あなたはいつもそうやって、自分のことを後回しにして……」
「はいはい、お小言なら戦いが終わってからいくらでも聞くよ。さ、そろそろ部屋に戻ろうか。俺は眠れないほど不安なきみの手を引いて部屋まで送ってあげればいい?」
「……必要ないよ。」
あの時、彼の手を取って、僕の想いを吐露していたら何か変わっていたのだろうか。もし伝えることができていたら、もっと自分を大切にしてくれたのかだろうか?
いや、それも僕の願望だな。
そもそも僕の気持ちが受け入れてもらえるかどうかも今になってはもうわからない。こうやって自分のエゴでフィガロを生に縛り付けてしまっている僕に彼に想いを伝える資格なんてとうになくなっているのかもしれない。
「フィガロ……」
フィガロの冷たい手を握ってその名前を呼ぶと自然と涙がぼたぼたと溢れてくる。
もう一度、言葉を交わしたい。
もう一度、あなたの笑った顔が見たい。
もう一度だけでいいから……