プラシーボ「……いっ!……ガロっ!」
遠くでファウストの声が聞こえる。初めはぼんやりとしていたその呼びかけは、体の揺れに呼応するように徐々にはっきりと頭に響き始めた。
「フィガロ!いつまで寝ているつもりだ!」
「んん………、ファウスト」
「もうお昼前だぞ」
「へ……?」
「だらしない声を出すな」
窓から差し込む光の眩しさを鬱陶しく感じながら、ゆっくりと瞼をあげると目の前には呆れ顔の恋人がいた。ぱちっと視線が合うとむっとした表情で逸らされる。剥き出しの背中の肩越しに仄かに朱色に染まった可愛らしい耳が見えた。本気で怒っているわけではなく、単なる照れ隠しのようだ。昨夜の情事の名残を思わせるその仕草が愛しくて、もう少し眺めていたかったのに、ファウストはそそくさと服を羽織って寝床から離れてしまった。
「ごめんごめん、おはようファウスト」
「おまえも早く支度をしろ」
「……今日何かあったっけ?」
「はあ?まだ寝ぼけているんだな。今日は昼から東と南の魔法使いたちで『流しそうめん』というものをする予定だっただろう」
「あぁ、そういえばそうだったね。賢者様の世界の夏の恒例イベント?だっけ?」
「らしいな。昨日からシノたちが張り切って用意していた。僕たち、先生が揃って遅刻するわけにはいかないだろう」
なんだかんだ言いつつ生徒たちが絡むと、普段から引きこもりを自称しているのに、ファウストは律儀に行事に参加する。彼らしい真面目さに思わず笑みが溢れる。ファウストに気づかれたらまたプリプリと怒ってしまうかもしれない。俺はすぐに表情を引き締めて身支度をのろのろと始めた。背を向けたままのファウストはほとんど準備を終えているようだ。いつも通りの黒づくめの服にマフラーを身につけている。
「ファウスト、その格好、暑くない?」
「別に……」
「せっかくのイベントだし、涼しげな格好するとか…」
「……確かに、そうだな」
反論されると思ったのに、薄々本人もそう思っていたのか、鏡に映る自身に首を捻っていたファウストは素直に身なりを改めた。
薄手の生地で夏らしさのある身軽そうな装いは、修行時代の彼を彷彿とさせた。防寒魔法を常時発動できるようになりたいと言って、極寒の中に今みたいな最低限の軽装で飛び出していって、細っこい身体を縮こまらせてたっけ。
あの頃、まだ少年と青年の狭間にいた彼は今より少し肉付きが良かったような気がする。『良かった』というよりは『良くした』と言った方が正しいかもしれない。初めて俺の元に訪れた時、あまりにも痩せ細っていたものだから、栄養になりそうなものをひたすら与えていた。
御伽噺とかによく出てくる子供をさらって食べる悪い魔法使いみたいなことをしていたんだなとしみじみ思った。別に今みたいに食べようとしてたわけじゃないけれど…。
現在のファウストは成長も止まり、痩せ細っているわけではないが、無駄のない骨張った体つきをしていて、着込んでいてもその色香に当てられるほどだ。心なしか俺と関係を持ってからその艶やかさは増しているように感じる。どのサングラスをかけようかと真剣に考え込んでいる彼の露出した首筋をチラリと盗み見て、品のない俺の執心の跡が残っていないか念のため確認した。
俺の視線に気づいたファウストは悩ましげな目線を送ってくる。聞いてはこないけど、何か変なところでもあるの?と言いたいのだろう。
「一気に夏らしくなったね。首元も涼しげだ」
そう言って微笑みかけると、目尻を少し下げてファウストはホッとした表情になった。すぐに節目がちになって照れ隠しするように視線を逸らされる。このまま先に行っちゃうかと思っていたのに、素っ気ない風を装って、スッと手を差し出される。
「いいから、早く行くぞ」
* * *
「フィガロ先生!またファウストさんに起こしてもらったんですか!」
中庭に出ると子どもたちがわらわらと駆け寄ってくる。ファウストに手を引かれ、眠そうに眼を擦って現れた俺を見て、ミチルがもう〜!と頬を膨らませていた。彼らはいま魔法を使わずにそうめん台を組み立てているらしい。ファウストは一人でそうめんの具材を用意しているネロを手伝うと言って、繋いだ手をパッと離すとそのままキッチンに向かってしまった。
「相変わらず、仲良しさんですね」
絵筆を手にしたルチルがにこやかに囁く。おそらく彼はそうめん台の装飾担当なのだろう。俺は、まあね、と返しながら、彼の頬についた緑の絵の具をぬぐった。
俺たちが交際していることは周りには隠していない。
付き合うことになった初日、その関係をオープンにするかどうかはファウストの意向に合わせるといった主旨のことを口走ったら彼はひどく憤慨していた。
「おまえがどうしたいのかをなぜ言わないんだ?」と。
その問いに俺はうまく言葉を返すことができなかったのを覚えている。隠したくない、むしろファウストは俺の恋人なんだと言って駆け回りたい、という浮わついた気持ちと、そんな青い感情を晒すのはみっともないし、ファウストの重荷になるかもしれない、という不安との板挟みにあっていたからだ。今思うとこれすら建前かもしれない。本当は自分を抑えられなくなるのが怖かったのだと思う。
ファウストはある人物を除いて、誰かを過度に特別扱いしない。俺と付き合ったからといって、ファウストが俺のものになる訳ではないとわかっている。そう弁えているつもりでも、彼との繋がりを深めれば深めるほど自身の独占欲が醜く膨張してしまうのは目に見えていた。決して手に入らない彼に触れられる権利を与えられてしまった。それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
結局、自然体に振る舞おうとファウストが言って、俺もそれに同意した。だからお互いの部屋を頻繁に行き来するし、こうやって外で手を繋いだりも普通にしている。
そして、俺の恐れていたことは現実になって、ファウストの一挙一動に激しく心を揺さぶられるようになってしまった。
これまで気にならなかった些細な風景でさえ、例外なく。
* * *
準備が整った頃にはちょうど良い時間になっていた。
「ひと仕事終えた後の体には、冷たいそうめんが沁みるんだろうなあ」
「フィガロ先生はそこの支えを立てただけでしょう!」
「先生、ちょっとは役に立ったんだから許してよ、ミチル」
「あっ、またそうやって可愛く舌を出してもだめですよ」
ミチルは口ではこんな風に言っているけれど、目の前の流しそうめんにワクワクしているようで、丸くて形の良い瞳をきらきらさせながら、俺にガラスの器を手渡してきた。
「どうせ、フィガロ先生は遠慮して下流の方で食べるつもりでしょう?」
「うん、そのつもりだよ」
「そうだと思いました、今日くらいはこっちで食べてください!」
ミチルに強引に一番先頭に引っ張られる。ファウストはきっと下流で食べるだろうから俺もそうしようと思っていたけど、こんなに熱烈な生徒のお誘いを無碍にはできない。心地の良い賑やかさの中で、冷たいそうめんを一気に啜った。
3杯目に差しかかって、ちらりとファウストの方を見やると案の定、下流でちまちまと麺をすくい上げていた。声をかけるために移動しようとしたその時、別の人物が彼に声をかけた。
ネロはそうめんの入ったざるを持って、ファウストの肩をポンと軽く叩く。振り返ったファウストにへらりと笑いかけると空の器にそうめんをちょいちょいと放り込んだ。
仕方なくしばらく談笑している二人をぼーっと眺める。ファウストは意地悪に瞳を細めてネロに何かを告げると、ネロは赤面してバツの悪そうな顔をしていた。
おおよそ、ファウストがネロの作ったパステルカラーの色とりどりなそうめんに対して、可愛らしいだなんだと揶揄いの言葉を述べたんだろう。口元に手を当てて、くすくすと肩を小さく震わせている。
ファウストは機嫌を直してよと言わんばかりに、フォークにそうめんを絡めるとネロの口元に寄せた。
それがそうめんの流し役に徹していたネロに対する労いの行為だとわかっていても、二人が純粋に友人同士だとわかっていても、心臓を直に握り潰されてしまいそうな心地がした。
あぁ、嫌だな。自身の心の狭さに嫌気がさす。
薄ら暗い感情が渦巻く胸中と相反するように太陽がじりじりと照りつける。
元々暑さに強くない俺にとってはもちろん、部屋に篭りがちのファウストにもこの日差しは厳しいかもしれない。日陰で一緒に涼もうかな、なんてぼんやりと考えていると、レノが日除けのパラソルの元にファウストの腕を引いていった。今日のために一時的に設置されたベンチに並んで腰掛けて一息ついている。
一度、席を立ったレノは冷えた水の入ったグラスをひとつだけ持って戻ると、それをファウストに手渡していた。ふたりの間には会話こそほとんどないものの、中庭ではしゃぐ子供たちを眺めながら穏やかな時間を過ごしているようだった。
もう少し辛抱するつもりだったのに、気づくと足が勝手にふたりの元に向かっていた。
「はぁ〜、フィガロ先生も疲れっちゃったな、そこお邪魔してもいい?」
「フィガロ先生。俺はもう子供たちのところに戻るので、どうぞこちらに座ってください」
「ありがとう」
レノが気を使ってファウストの横を譲るのはわかっていた。わかっていて、聞いた。己の狡猾さへの嫌悪のせいか、この暑い日差しのせいか、頭が痛くなってくる。
「あっ、待ってレノ、きみも水分補給したがいい。なんで自分のグラスを持ってこなかったんだ」
「すっかり忘れていました」
「僕の飲みかけだけど、飲む?」
* * *
「そうめん、初めて食べたけど、スルスルっと食べれて、夏にぴったりの食べ物って感じだったね」
「そうだな」
額にうっすら汗を浮かべる恋人の横顔を横目に、俺はひどく後悔していた。
夏らしく露出したらなんて言うんじゃなかった。普段は覆われているはずの喉元や腕が日の光に晒されて、夜闇で見る時はまた違う艶かしさがあった。たらりと首筋から喉仏を伝う汗が、彼の纏う空気を扇情的なものに塗り替えていく。
こんな姿を他の者たちが目にしたと思うだけで、どうにかなりそうだった。今すぐふたりだけの空間に引きずりこんで、自分が誰のものかわかってもらいたい。叶わない願いだけれど。
「汗、結構かいてるね、体調は?」
「僕はそんなにひ弱じゃないよ」
「魔法で体温調節すればいいのに。きみなら使えるだろう?」
「きみは過保護だな。夏らしくと言ったのはきみだ、せっかくだから魔法を使わずに過ごしてみたんだよ」
気を許した相手にしか見せないであろう、少し幼さを感じさせる笑みを向けられて、心臓の鼓動が早まる。うまく表情を取り繕える気がしなくて思わず顔を俯かせる。透き通っていたはずのガラス玉の中に汚泥のような靄がかかる。元の色が分からなくなるくらい燻むのにそう時間はかからないだろう。もうめちゃくちゃだ。
「おい、どうしたんだ。きみの方こそ体調が悪いんじゃないか?」
半ば強引に顎を掴まれて顔をグッと近づけられる。視界の片隅に入った、血色の良い形の整った唇に強制的に視線を奪われる。
「うーん、ちょっと頭痛がするかも」
「薬と水をとってくる」
「……まって」
今はファウストが側から離れてしまうのを我慢できそうにない。今にも駆け出してしまいそうな勢いの彼を思わず引き留めてしまった。
「どうしたの?」
「薬はいらないかな」
「でも……」
「ファウストがキスしてくれたら治るかも……」
ファウストには一ミリたりとも俺の黒々した感情を知られたくない。にへらと笑いながら戯けたお願いして誤魔化す。こうしたら、眉をキッと上げて、ふざけるなと文句を言いつつ、一応この場に残ってくれるだろう。
ファウストが再び横に座りホッとしていると、不意に唇に柔らかいものが押しつけられる。
それがファウストの唇だと気付くのに少し時間がかかった。
「どう?治った?」
ゆっくりと唇を離すと、ファウストは吸い込まれそうなほど深い煌き放つ瞳を恥ずかしげに瞬かせながら、小さく呟いた。
「………。うん、すっかり元気になっちゃったな。そろそろみんなのところに戻ろうか」
「ダメに決まってるだろう。今から僕の部屋に来て休んでもらうからな」
「えー……、もう大丈夫なのに」
「体調もそうだけど、」
僕でよければ話を聞く。とファウストはぽつりと零した。俺に悩み事があると思っているんだろう。きみのことで心を掻き乱されてるだけ、なんて言っても信じてもらえないだろうな。それでも今は彼の精一杯の甘やかしに身を委ねるほかない。
この中毒性の高い甘さを与えられるだけで心臓の軋みが瞬く間に緩和される己の単純さに呆れてしまう。
これから何度もこのどうしようもなく行き場のない気持ちを味わうことになる。
一度目はそれで逃げ出した。二度目の俺は自分だけに向けられる甘さを知ってしまった。もう自ら手放すことなんてできない。
ただひたすらに願うしかないのだ。
どうかこの汚い感情が溢れてしまいませんように、と。