キライ満天の星が降る綺麗な夜だった。
月が輝き、電気を付けないでいるこの部屋も月明かりがうっすらと照らし出す。あまねはベッドに座り、折り曲げて抱えた膝に額をつけて瞳を閉じた。
たくさんの人を傷付けて。
たくさんのレシピッピを傷付けて。
靄がかかったように思い出す薄い記憶。でもそれは、消えることのない深い記憶となって、あまねの胸へと染み込んでいくように広がっていった。
苦しいくらいに胸がザワついた。
溢れそうになる涙を堪えて耐えた。
コツン、と窓を叩く音が響く。
その音にあまねは顔を上げた。
見慣れた景色の広がる大きな窓。その向こう側にはベランダが広がっていた。
月明かりに照らされた景色をぼんやりと眺めれば、もう一度、コツンと音が鳴る。
「誰?」
兄か母だろうか。ベランダは他の部屋とも繋がっている。
あまねはベッドから立ち上がり、窓辺に寄った。とても、静かで勿論誰も居ないように見える。
「誰かいるのか?」
声を掛けて、気になって窓枠に手を添えた。カラカラと軽い音を立てて窓が開く。
「…………」
ベランダからはやはり見慣れた景色が広がるだけだった。誰も居ない月の綺麗な夜。
ーーそれは怖いくらいにとても静かで。
あまねは目を伏せた。
夜風がそよぎ、頬を撫でて行く。黒い髪が僅かに風に靡いた。
「こんばんは」
静かに、その声はあまねに届く。
耳元でそっと囁かれた低い声。
背後から、白の手袋をした黒い手が伸びる。あまねよりも大きな男性の腕が窓枠にあったあまねの手を捉えた。
「…………っ?!」
慌てて振り返れば、霞んだ記憶の中でもよく見知ったその顔があった。長髪のサイドテールに黒の服。仮面をつけて、楽しげに笑う青年。
「ナルシストルー…?」
あまねが振り向けば、仮面の奥の紫の瞳が目を細める。
掴まれた腕を振り解こうと力を入れるがびくともしない。見た目より幼そうな外見に反して、力強いその腕は痛いくらいにあまねの手首を引っ張った。
歪むあまねの顔に、ナルシストルーは笑った。
「ハハッ、いい顔」
空いた片手の手袋の指先を噛んで引っ張り外すと、白く細長い指先が露わになる。恐怖に身体をこわばらせて、動けないあまねの頬にその手を添えた。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てる。
ナルシストルーの手は、掴まれた手首とは裏腹に、優しくその頬を撫でていく。その掌は想像よりも温かくて。
「ジェントルー、君を迎えに来たよ」
少しずつ、ゆっくりと近付くその綺麗な顔は、口の端を持ち上げて僅かに微笑む。
あまねはぎゅっと奥歯を噛んで、首を横に振った。精一杯の抵抗。ナルシストルーの手が、一瞬あまねから離れていった。
「行かない…。私はもう、行かない」
ナルシストルーの瞳から逃れるようにあまねは顔を伏せた。
「……そう。君の意見なんて、オレさまには関係ないけどね」
その吐息すら掛かる距離。ナルシストルーはもう一度、あまねの頬に触れた。ツツと爪を立てて滑り、俯くあまねの顎を持ち上げる。
瞬間、埋まるその距離に、噛み付くようにあまねの唇を奪った。
「…………っん」
小さく苦し気な声が漏れた。ナルシストルーの胸元に手を置いて、力を入れて抵抗するが、男性の身体は動かない。服を掴み、押し返すように抵抗するあまねの唇をペロリと舐めて、ナルシストルーは離れて行った。
肩で息をしながら、あまねは睨むように彼を見る。
「綺麗だね。素敵だよ」
ナルシストルーは掴んだままだったあまねの腕から手袋の手を滑らせて、彼女の小さな掌と自分の掌を重ねた。絡ませるようにぎゅっと握って、もう一度顔を近付ける。
唇が触れるか触れないかの距離で、その耳元に顔を寄せて。
「このまま奪って行く事も出来るけどね。
やっぱり今日は帰るよ」
微かに震えるあまねに笑みを浮かべて。その黒髪を梳くように撫でた。
白の手袋を拾って嵌めて。その手をひらりと振り、あまねに背を向けてベランダに出た。紫の瞳を静かに閉じて。
「またね」
ナルシストルーが微かに笑う。
満天の星空の中、月明かりに照らされてその後ろ姿はゆらりと消えていった。
End***