楓可不『君には言えない』 病室の夜は静かで煩い。日中に比べて人の活動がが少なくなる分、小さな音がよく響く。時計の秒針も、モニターの電子音も、可不可の命を繋ぐ点滴が落ちる規則的な音も、いちいち気にしてもキリがないのに、ひとたびその音を拾い始めると、僅かにずれながら続く音が鬱陶しくて仕方なかった。
可不可が入院している個室はそれなりに防音が効いているが完全ではない。どこかに向かい、どこからかやってくる救急車のサイレンも、可能な限り抑えられた廊下を通るスタッフの気配もうっすらと届く。
突然甲高い電子音が響いた。すぐにバタバタと人が集まり、出入りする物音。呼びかける声、指示を出す声。出所は隣の病室のようだ。
隣に入院しているのは可不可と同じ病気の少し歳上の患者だ。二十歳の誕生日を来月に控え、準備のために病院に戻ってきたのはつい数日前のはずだ。根治したら海外旅行に行ってみたいと話していた、というのは本人からではなく楓から聞いた。
病室内を満たす可不可にとっての日常の音も、隣室から漏れ聞こえる慌ただしい音もこれ以上聞いていたくなくて、可不可はベッドサイドに手を伸ばした。イヤホンを両耳に押し込み、カセットプレイヤーの再生ボタンを押し込む。ざらついた音が可不可の耳を満たした。
『それでね、父さんったら骨折してるのにすぐベッドを抜け出そうとするから母さんに怒られてるんだ』
もう何年も前、可不可が初めてもらった交換日記のカセットテープだ。声変わり前の楓が今よりもずっと幼い口調で可不可に語りかける。
『看護師さんもこんなんじゃいつまでも退院させられないってぼやいてたよ。そうそう、昨日食べたおやつなんだけど――』
「雪風のパンケーキ」
『雪にぃ……従兄がパンケーキを焼いてくれたんだ。ふわふわでほかほかで……可不可にも食べてもらいたいけど病室でパンケーキって焼けるかな?』
何度も、何度も聴いて、楓が次に何を言うかもすっかり覚えてしまった。それでも可不可は何度だって巻き戻しボタンを押して、楓が可不可のためだけに吹き込んでくれたテープを再生する。
『君のことも聞かせて。誕生日、すきな本、すきな音楽、今日あった嬉しかったことも悲しかったことも。君のことがもっと知りたいんだ。それで…………ううん、なんでもない。とにかく、なんでもいいんだ。返事は録音してね』
きっとこの時飲み込んだ「友だちになろう」という言葉を、可不可にとっては何度目かの命の危機の後に聴くことになる。世界を開く魔法のような言葉。それは録音されていないけれど可不可の記憶の中で何年経っても鮮明に思い出せる。
再生を終えたカセットテープ。イヤホンからはしばらくザーッと音がしていたが、やがてカチリと音を立てて止まった。隣室はいつの間にか静寂を取り戻し、時計と可不可の心音と点滴の音だけが残されていた。
可不可はベッドサイドの棚の一番上、唯一ダイヤル式の鍵がかかる引き出しからカセットテープを取り出した。頭まで巻き戻されていることを確認した後、プレイヤーの中身を入れ替え、深呼吸して録音ボタンを押した。
「君がこのテープを聴く時、僕はこの世にいない。朔次郎にそう頼んであるからね」
今まで何度も同じフレーズを吹き込んできた。幸いそのどれにも出番が訪れることはなく、上書きされて消えていっているが、今回もそうとは限らない。
可不可はそのまま楓に向けた遺書を吹き込み続けた。遺書、と言っても普段の交換日記と変わらない他愛無い話がほとんどだ。けれど、楓がくれた思い出を振り返りながら話す時間が年々長くなっていることに気づいた時、鼻の奥がつんと痛んだ。
「楓ちゃん、君に会えてよかった。心からそう思うよ。ありがとう……ばいばい」
少し迷って停止ボタンを押してから可不可は「だいすきだよ」と呟いた。いつも吹き込むか迷って、一度だって入れられていない。その言葉はきっと、遺すべきではないと心のどこかで思っているのかもしれない。
人は人を忘れる時声から忘れると言い始めた人は誰なのだろう。それに根拠があるのかその真偽は別として、可不可が声を遺せば楓は可不可のことを忘れないでいてくれるだろうか。
取り出したカセットを引き出しに戻し、ダイヤルを〇〇〇〇に合わせた可不可はベッドに潜り、目を閉じた。
翌朝、隣室の前を通ると開け放たれた扉の向こうに空っぽのベッドが見えた。面会時間ギリギリに可不可の病室を訪れた楓もその意味に気づいていたはずだが、何も言わなかった。
可不可は今日もすぐそばに秘密を隠したまま、だいすきな人の声に耳を傾けるのだ。