ブランクホロウチッチッチッ。
時計の針だろうか。一定間隔で音が続いている。
他に思い当たるとすれば昔、音楽の時間で聞いたメトロノームだ。三分の四拍子なり二分の三拍子など拍数を見て遊錘を弄って遊んだ思い出がある。側面にある突起物を引き出せば一定拍ごとに鈴の音も鳴らせられた筈だ。
今の自分に聞こえるのは水のせせらぎだが。
「起きたか?ちょうどいいや」
ぼんやりとした視界は寝起きだけではなく、目の前に差し出されたカップから立ち上る湯気も合わさってだろう。ほんのり白い煙を撒くように瞬きを繰り返すとその飲み物独自の匂いが鼻腔をくすぐった。靄が晴れ、クリアになった視界にはコーヒーとワイシャツにエプロン姿の店主らしき人物が現れる。
その肩には珍しい事に烏が止まり木ように羽を休めていた。
「よかったらどうぞ。初見さんやアンタみたいな人の時は一杯サービスするのがうちの決まりなんだ」
カウンター越しの店主は顔に見合わず穏やかに笑った。垂れ下がった短い困り眉がモヒカンヘアーなんかより印象的だった。まだどこか思考が回り切らない頭を覚醒させるようにこめかみを抑え男はかぶり振る。ぐるりと店内を見渡すと他にも数羽の烏と一人、二人と疎に座っている顧客が見えた。
どの顧客にもコーヒーが用意されているが手は付けられていない様子だ。何せソファに背を預け寝ているのだから。
「ここは…一体ェ…」
「深く考えなくていいよ。どうせすぐに忘れる。
アンタはコーヒーを一杯、飲みに来ただけ」
それも濃いやつ。
と、店主は再度小さなコーヒーカップをソーサーごと差し出した。ティースプーンはあるが砂糖にミルクはない。伺うように睨みつけるだってサービスだし゛と両手をあげ肩をすくめて戯けるだけだ。
カップを持ち上げ、濃いコーヒー豆の香りを吸い込む。一口含めば予想していた通り、いやそれ以上の苦味に顔全体が中央に寄る。男の顰めっ面を見て店主はまた笑う。
「ブラックコーヒーは苦手?って言ってもそれはエスプレッソだし、ここはコーヒーメインだから紅茶は数種類しかねぇんだ。俺もあんまり上手く入れられねぇ。お館様はわからないけど。
カフェオレやラテなら覚えれば出来るかも」
聞いてもいない事をよく話す。
店主の口々から出るコーヒーの種類を聞いて、ようやっと男の中でこの場所が何かを理解する。
「俺は喫茶店なんざ寄った覚えねェぞォ」
「うん。そうだね。だって忘れるから」
止まり木から烏が飛び去った。店主が代わりに指で呼ぶと別の烏が男の隣に降りて来る。カウンターテーブルの上、エスプレッソコーヒー横で律儀に指示を待って。
「さぁさ、コーヒーを覗き込んで。
――貴方が忘れたものは、なに?」
ティースプーンをひと匙回して。
そこに写る人は誰?
まるで何かの呪文のような前口上だ。
写るも何も黒い水辺には顔中横断する複数の傷に白髪の青年。そう、自分。不死川実弥しか写らないではないか。宗教勧誘か何かならここの店主を訴えるぞと腹立しくなってきた実弥は一気にエスプレッソを飲み干した。どっと濁流のように喉から胃へ流れ込む苦味に体は咳き込んで拒否を示す。こんな苦い飲み物を他の奴らや目の前の店主などはよく好んで飲めるものだ。
そう心の内で悪態ついて実弥はこの場所を後にしようとふらつきながら立ち上がる。お帰りはあちらだよと店主の声と先程降り立った烏が一羽見送りに付き添っていた。
苦味のあまりか突き刺すような頭痛が実弥へ襲いかかる。
『――貴方が忘れたものは、なに?』
「忘れ…もの、」
濃い茶色ウッドドアに手をかける。カランカランと軽いドアベルの音と共に開くと広がるのは黒。
忘れた物などない筈だ。だが心のどこかで何かを忘れたような気がして実弥は喫茶店へと振り返る。
コーヒーも黒。店主のワイシャツも黒。エプロンも黒。カァと足元で鳴く鴉も黒。
全部、黒。
「ここは忘れたものとかさ、色んなの行く着く場所だから。次は迷い込まなきゃいいな」
黒色の髪の、店主。
そこでふつりと意識が途絶えた。
目が覚めた時には変わらぬ自室のベッドの上。窓から差し込む日の光は白く眩しい。起き上がってカーテンを手早く開けてはもう一度ベッドへ戻り寝転がる。
目線まであげた両手を見つめ、顔を覆う。
遮られた黒い視界。
微かに香るコーヒーの匂いと窓の外から聞こえる鴉の鳴き声は、実弥の脳内で最後にはっきり見えたあの店主の顔ばかり思い出させていた。