揉事と瞬き とある日の正午頃。
クラスメイトらが和気藹々と会話を楽しみ、毎日が賑やかな多聞衆一年の教室。
しかしこの日はいつもと違った。
息も忘れるほどにピリピリと張り詰める空気、それが肌に突き刺さり痛みすら錯覚する。明らかな原因は二人……桜遥と杉下京太郎にあった。
いつもなら二人が目が合えば、口が出るわ手が出るわの大騒ぎ。しかし今日は朝から昼休みまで全く口を聞かないのである。
「………………」
「………………」
お互い全く目も合わせない。だが明らかに二人はお互いを意識しており、意識が相手に向く度にピリッとした空気が流れる。クラス全体に緊張が走り、皆が会話どころではなくなってしまった。
「さ、桜さん……杉下さんと何かあったんですか……?」
桜の傍で椅子に座っていた楡井がしどろもどろに質問を投げかける。
「……………………別に」
楡井の質問に特に答える気の無い桜。取り付く島もないとはこの事である。
そろそろ昼休みも終わってしまう……重い空気のまま昼休みを終えてしまうのか……そんなどんよりとした雰囲気がクラス中を包んだ。
すると突然桜が立ち上がり、杉下の方をじっと見つめ始めた。
「……………………」
無言で見つめ続ける桜。それに気付いた杉下がその目を睨み返す。
「…………あ?」
まさに一触即発。もうこれはいつものじゃれあいの喧嘩じゃ収まらない。己の死をもってしてでも二人の喧嘩は必ず止めよう、と皆が胸中で決意したその直後。
「…………………………」
ゆっくり。それはそれはゆっくりと桜は自身の瞼を閉じ、開いた。
二人の間に沈黙が流れる。時間にして数秒程であろうか、その沈黙を破ったのは杉下であった。
「…………はぁ」
ため息を漏らしながら自身の席を立つ杉下。そのままのそのそと桜の傍へ近付いていく。
もう目と鼻の先。杉下の手が桜の頬へと伸びた。
まずい、このままでは桜さんが危ない。
そう思った楡井が「す、杉下さん」と声をかけた瞬間だった。
杉下が猫背を更に曲げ、桜の顔へ自身の顔を近付ける。そのまま鼻同士をすり、と擦り付けたのだ。
唖然。様子を見ていたクラスメイト全員が声も出せずにいる。
そんな周りの様子など露知らず、杉下は桜に言葉を続けた。
「………………オレも好きだよ」
あまりにも優しい声音。蕩けてしまいそうなほど甘さを含んだ愛の言葉。
それを聞いた桜は甘えるように、己の人差し指で杉下の喉仏をするりと撫でた。
「……杉下、もう怒ってない?」
「怒ってない」
「………………よかった」
いや、何が良かったのか。周りは置いてけぼりである。
「あ……あの……少しいいですか?お二人とも、何が原因でああなってたんでしょうか……?」
楡井が目を泳がせながら問いかける。
桜は暫く考え込んだ後、意を決したように口を開いた。
「お……オレが昨日の夜…………」
「はい」
「す、杉下の……その…………」
「はい」
「大事に取ってたアイス……勝手に食ったから、杉下が……怒った…………」
「…………はい?」
信じられない。そんな理由で。
というか昨日の夜からコイツら一緒なのか。別に知りたくはなかった。
各々の思いが詰まった、そんな視線が教室中から向けられる。
「あのね、桜くん。杉下くん」
蘇枋がピアスをしゃらりと揺らし近付いてきた。笑顔ではあるが怖い。雰囲気が怖い。
「君たち二人の個人的な喧嘩で、皆まで昼休みを穏やかに過ごせなかったんだよ?見てごらん、杏西くんなんて泡吹いて倒れてるんだから」
ちらりと横を見やるとあの険悪な雰囲気に耐えられなかったのであろう、机に突っ伏す杏西とそれを介抱する栗田、柿内、高梨の姿があった。
申し訳なさに桜と杉下は視線を逸らす。
「だから……ね?二人とも、皆にごめんなさいした方がいいと思うよ?」
有無を言わせない笑顔。逆らったらあとが怖い。
「………………悪かった」
「………………すまん」
「はい、よくできました」
素直に謝罪の言葉を皆に述べる二人と、まるで保育士のような一人。同い歳がやるようなやり取りでは無い。
まあまあ、といつも通りの明るさが教室に戻ってきた。これで一件落着。
事が丸く収まったことに安堵した楡井は(杉下さんは意外と食べ物への執着がある)と、自身のマル秘ノートの端にこっそりと書き込んだのであった。