藤黄色の祝福を 夏のあの嫌になるくらいの蒸し暑さは何処へやら。
空は澄み渡り、空気がカラッとしている。所謂、秋晴れというやつだ。
緑の多かった木々たちはその多くが色褪せており、はらはらと葉を落とし始めている。
そんな中、老人はとある神社へ来ていた。
腕の中には藍白のおくるみに包まれたまだ生まれて間もない赤子。
老人の腕の中がよっぽど心地好いのか、ぐずりもせず朗らかな顔を見せている。
老人はそんな赤子の鼻を指先でちょん、と一つ触れてやる。赤子はふにゃりと笑った。
ざっざっ、と神社の砂利を踏みしめながらとある場所へ向かう。
少しばかり歩いた所、あまり人気の無いところにソレはあった。
それはそれは立派なイチョウの木である。
見上げれば鮮やかな黄色が空を彩っている。一つ、二つと落ちるイチョウの葉がまるで赤子を祝福しているかのように思えた。
老人が赤子の顔を見遣ると、赤子は舞い落ちるイチョウの葉が気になるのか目をいっぱいに見開いている。老人の目と同じ色をした瞳は陽の光を受けきらきらと輝き、まるで宝石のようだ。
ふ、と老人は笑みを零しながら赤子を抱え直す。
イチョウの木の周りをゆっくりと歩きながら赤子へ声を掛けた。
「ほれ、京太郎。見えるかあ?立派なイチョウの木だなぁ。このイチョウの木なぁ、じいちゃんが小せぇ頃からあってよぉ……ずぅっと一緒に傍に居てくれた友人、みたいな感覚なんだなぁこれが。この木にお前を紹介できて、じいちゃん嬉しいぞ」
また一つイチョウの木の方へ歩を進めると、赤子が何やら腕をばたばたとし始めた。
う、う、と小さく声を出す赤子に老人は「わあったわあった、ちょっと待て」と赤子の小さな手をおくるみから出してやる。
小さな手がぐっぱぐっぱと宙を掴んでは離しを繰り返している。
老人はそんな赤子の手に自分の小指を添えた。
皺の多く刻まれた手に赤子の白くツヤのある肌が重なる様は、何度見たって愛おしさで涙が出そうになるものである。
老人は出そうになる涙をぐっ、と堪えた。
すると、赤子にも何か伝わったのだろうか。小指を掴む小さな手がきゅ、と少しばかり力が込められたのが伝わる。
老人は赤子に優しく微笑みながら口を開く。
「……おめェはなぁ、他よりちいとばかり大きく生まれてなぁ…………ははっ、ほれ手も他の子より大きいんだ。それに力も強い。こりゃ立派に育つだろうなぁ。きっとこれからおめェはこのイチョウの木みてぇに大きくなるんだろうなぁ」
ぱっと赤子から目を離し、再び視線を空へやると赤子がきゅ、きゅ、と小指へ込める力を強くした。まるでこちらを見ろ、と言わんばかりに。
赤子にしてはやけに強く握るその小さな手に老人は堪えられずに大きく笑い声を上げた。
「はっはっはっ!ほんっと、おめェは力が強ぇなぁ!」
そっと赤子の手から小指を離す。
不服そうな顔をする赤子にまた吹き出しそうになりながらも、老人は自分の手を再度赤子の手へ重ねた。優しく、柔らかく、包み込むように。
「…………京太郎、もしお前がほんっとうに心から大事したいモンができた時……ちゃあんとこの手で握って離さねぇようにするんだぞ。さっきみてぇにぎゅっと握ってろ。ただ、あれもこれもって欲張っちゃあいけねぇよ。掴めるモンは限りがあるもんだからな…………せっかくこれだけ立派な掌持って生まれたんだ!絶対にこれだけは、っつーもんだけ……ちゃあんと握ってろ」
赤子に対してこんな小難しい話をして伝わるのか、というのは大して問題ではない。
老人のただの独り言のようなものなのだ。
赤子が口をもごもごとさせ、う、だのあ、だのと声を出している。
老人が「なんだあ?」と返事をすると、くしゅんっ!と小さくくしゃみをした。
「おうおう、鼻水垂らしちまって。おー、寒い寒い。ちょいと冷えてきたなぁ。秋はすーぐ日が暮れちまって…………寂しいもんだね。な、京太郎。帰ろうか」
くるりと踵を返す。
歩を進めようとした老人がその足をピタリと止め、またイチョウの木の方へ向き直った。
「……また来るからよぉ。お前さんもこの子のこと見守ってやっててくれや」
はらりはらり、と落ちるイチョウの葉。
老人はニカッと笑い、神社の鳥居へと向かった。
今日ここへ足を運んで良かったなぁ、と心から思う。
鳥居の向こうへ広がる茜と青藍が混じった景色。人々の生活を照らす明かりがぽつりぽつりと灯り出す。賑やかな子供たちの声や活気溢れる商店街の爺婆の売口上。ちりちり、と響く凛とした風鈴の音が秋風に乗り鼓膜を揺らす。
ここから見える景色、聴こえるものはいつだって素晴らしい。
この美しい町でお前は育つんだよ、京太郎。
町が見えやすいように、と赤子を抱え直した。
顔を覗き込むとそこにあるのはすやすやと安らかな寝顔。
「…………おめェはよく寝るなぁ」
呆れと愛おしさを混ぜた笑みが零れる。
まぁいいさ。この景色はいつだってこの子を迎えてくれるだろう。
さて、と一つ階段を下りた。
◇◇◇◇◇
ガラッ、と戸が開く音がした。
孫が帰ってきたのだろう。どれ、と玄関の方へ足を向けると何やら声がする。何か言い合いをしているかのような声だった。
「てっ……めぇ!離せや!こら!」
「うるせぇ騒ぐな」
「誰のせいで騒いでっと思ってんだ!おい!首締まってんだよ!は!な!せ!」
「ふん」
「無視してんじゃねぇぞ!!!!」
ちらりと覗くとそこには孫と……白黒頭と綺麗な色違いの瞳を持った青年がそこに立っていた。
孫はその青年の首根っこを掴みずるずると引き摺っている。
こらこら、と声を掛ける前に孫から声を掛けられた。
「………………じいちゃん。ただいま」
「え、あ、あぁ。おかえり、京太郎。えっと…………その子は?」
「さっき道で捕まえた」
「人を虫みてぇに扱うな!何なんだテメェ!せっかくの休日に散歩してたら突然掴みかかってきやがって!おい!聞いてんのか!」
じたばたと藻掻く青年。
とりあえず離してあげなさい、と注意すると孫は唇を尖らせ不服そうながらも青年の服を掴んでいた手をパッと離した。
げほげほっと噎せる青年の背を擦り、一つ頭を下げる。
「いやぁ……孫がすまないね。驚いたろう」
「ホントだ!何なんだアイツ!人の話も聞かねぇで家連れてきやがって!驚くどころの話じゃねぇ!!!!」
「いやホント、驚いた…………京太郎が誕生日に誰か連れてくるなんて無かったからなぁ」
「え?」
「え?」
きょとん、とする青年。ビー玉のように美しい瞳が光を受けてきらきらと反射していた。
綺麗なもんだなぁ、と感心していると青年が口を開く。
「誕生日……?」
「うん」
「だ、誰の………………?」
「ん?京太郎」
「え、え、杉下、誕生日……なのか?」
青年がおろおろと孫の方を向く。
すると孫はこてん、と首を傾げてから数秒ほど考え込み、やがてこくりと頷いてみせていた。
「……………………ん」
「早く言えや!!!!!!!!!!」
青年の絶叫が家中に響き渡る。きぃぃん、と耳鳴りがする程の大声に思わず耳を塞いだ。
孫も同じように耳を塞ぎ、顰めっ面をしている。
「うるせぇぞテメェ」
「いや、だって!お、まえ……なんも言わねぇから!」
「ア?別に良いだろうが」
「よ……くねぇだろ!なんかこう、やるんだろ!誕生日って!プレゼント?とか?いや分かんねぇけど!」
ギャーギャーと言い合いをする孫と青年を交互に見遣る。仲が……悪い?のだろうか?
未だに騒ぐ二人をいつ止めようかと頭を抱えていると孫が静かに、ただハッキリと声を上げた。
「別にいらん」
「はあ……?」
「あれもこれも欲しがるのは良くねぇって、習った」
孫の言葉にハッとする。
その言葉は。
孫が青年をじっと見つめながら小さく口を開いた。
「大事なモンだけ握っとけ……ってさ」
孫が大きな手を青年の白黒頭へ伸ばした。
がしりと掴むとそのままギリギリ、と音がするのでは無いかというくらい力を込めている。
「いだだだだだ!なに、す、いってぇな!!!!!!」
「だから、別にいらん」
「何の話だ……っ!テメェ手離せ!」
「や」
「や、じゃねぇんだよ!頭割れるわ!」
孫と青年のやり取りをただ呆然と見つめていた。
そうか、そうか。
「…………京太郎、ちゃあんと握っとけよ」
離さないようにな、と心の中で付け加える。
すると孫はこちらを振り返り
「…………うん。ちゃんと覚えてるよ。じいちゃん」
そう言ってほんの僅かに目元を緩ませた。
やはり孫は可愛らしいものだ。贔屓目で見てしまうのは仕方がないだろう。目つきが悪いだのなんだのと言われるようだが、その目だってあんなにも柔らかく可愛らしいのだ。
「おい!そこは離してやれって言うんじゃねぇのか!こっちは痛い思いしてんだぞ!」
シャーシャーとまるで毛を逆立てて威嚇している猫のような青年。
いやいや、悪いねぇ。そう言いながらも孫の行動を制止できずにいた。
なぜなら、孫の大事なモンだから。
離せ、なんて口が裂けても言えないだろう。
さっき青年の服を離してやれと言ったらあんなに不機嫌そうにしたのは、あの日の言葉を覚えてたからだったのか……と思うと孫に少し悪いことをしたな、なんて思ってしまう。本当にすまないと思うべきなのは青年へ向けてなのだろうが。
孫は掴む手を緩めずにそのままずるずると自室へ青年を引き摺っている。
そんな孫の背中に声を掛けた。
「京太郎、今日は何が食べたい?誕生日だからなぁ、何だっていいぞ」
孫は動きをピタリと止めて宙を見る。うーんうーんと少し唸り、ぽそりと呟いた。
「…………筑前煮。じいちゃんが作ったやつ」
市販はイヤ。と静かに目で訴えてくる。
あいよ、と一つ返事をして財布とメモ帳を取り出した。買い物から行かんとなぁ、とボソボソ零していると孫が廊下の角からひょこりと顔を出している。
「…………どうしたあ?」
「…………近所の神社、行ってきていい?」
「お?今からかぁ?」
「挨拶しようと思って」
「ん?誰かと会う約束でもしてんのか?」
「うん、じいちゃんの友達」
「友達?……………………あぁ」
そんなことまで覚えてんだなぁ。
「……きっと喜ぶぞ」
「ん………………おら行くぞ。グズグズすんな」
「お前!こっち来いだの、あっち行くぞだの!振り回されるこっちの身にもなりやがれ!」
二人して小突き合いながら靴を履いている。
玄関から出ていく孫の背中をじっと見つめた。
「………………大きくなったなぁ、京太郎」
孫にはこの独り言は届いていないだろう。
また白黒頭の青年の腕を掴んでは、やいのやいのと言い合いをしている。
あんな不器用に育つとは思ってなかったがなぁ、と一つ息を零した。
さて、そろそろ自分も買い物にいかなくては。夕飯に間に合わなくなってしまう。
いそいそと準備をしてガラリと戸を開けると涼しい風が頬を撫でた。
上を見上げれば澄み渡った空、どこからか舞ってきたであろうイチョウの葉が一枚ひらりひらりと空を泳いでいる。
大事な大事な孫がこの世に生を享けた日。
そんな大事な孫が〝大事なモン〟を連れて見せてくれた素晴らしい日。
あぁ、本日も見事な秋晴れだ。