誕生日赤真 もうやめちまってもいいんじゃないかって耳元で囁いてきたのが天使なのか、悪魔なのかも曖昧だった。
俺は絶対負けられない試合に負けた。その場に膝を折った時、俺を支えてたものもポキっと折れたような気がした。それ以来俺は何を食べても砂を噛んだみたいで、ゲームしてても気がついたらやられてるし、すっかりスマホの電源もつけないでぼーっとベッドで天井を見上げてる。
よだれを拭ったら、ヒゲが手の甲を傷つけた。
当たり前みたいに練習もサボってる。
気を緩めたら取り戻すまでに何とかかんとかみたいなお説教は聞き飽きたくらいなのに、ちゃんと、自分でもそうすべきだってわかってるのに、何もする気になれない。
「赤也」
声が聞こえて、幻聴かと思った。
「おい赤也、そこにいるのはわかっているぞ!」
立てこもった犯人を追い詰める警察みたいな声がもう一度聞こえてきた。
「真田さん……」
しばらくぶりに声を出したせいで、掠れた響きになった。こっそり咳き込んで、それから海外に行っていた真田さんの帰国予定日を思い出して、無駄に過ごした時間の長さにぞっとした。
赤也、おい、とまだ声が聞こえる。けど、心の準備なんか出来てるわけがなかった。布団を被ってちょっとだけでもやり過ごそうとして、ふと気がついた。
家には俺一人だけだと思って、内鍵なんて閉めてない。
俺が慌てて飛び起きたのと、ガチャリとドアノブを回ったのはほとんど同時だった。
「っっぶねー…………!」
開きかけたドアを押して内鍵をかけてほっと一安心
「赤也っ!! 貴様、起きているではないか!!」
ーーなんて出来るはずもなく、とんでもなくキレた声が飛んでくる。力任せにドアノブを掴んで揺らされて、扉が軋む。
「ちょっ、ちょ! 壊れちゃいますよ!」
「なら大人しく扉を開けろ!」
真田さんはマジだって長年の経験からわかってた。
「蓮二や幸村からの連絡も無視したのだろう。どういうつもりだ!」
「……んなの、気づいてなかったんで」
「食事をした形跡もなかったが」
「食ってましたよ。ウーバー頼んで」
「きちんと寝ていたのか」
「当たり前っス」
「嘘だな」
んなわけないって言わなきゃいけないのに、図星を突かれて声が出なかった。
「赤也!」
「やめてくださいよ……俺のことなんてほっといて下さいよ!」
真田さんの大声に負けないように、自然と声が大きくなった。
「たわけ! お前を一人にしておいてもただ不貞腐れているだけだろうが!」
「あー、もう、うるせーんだよ!」
ドアを殴ると、拳が痛くなった。
「ほっとけって……俺なんか構っても時間の無駄っス」
「一度の敗北で折れるのか? 中学に入学したての頃、完膚なきまでに叩きのめしてやった数日後に果たし状を突きつけてきたお前はどこに行った」
「そんなの……」
自分でもわかってる。
負けて悔しかったら次は絶対に勝つんだって、そうやって勝ちにこだわるのが俺のテニスへの向き合い方なんだってわかってる。
わかってるからこそ、今の自分のことが、俺はーー
「俺、もう」
そこまで言って、続きは口に出せなかった。言葉の続きを待つみたいに真田さんも黙ってた。
「……わかった」
しばらく時間が経ってから、真田さんは言った。
ほっといてくれって自分であんなに言ったのに、「わかった」って言われて目の前が真っ暗になった。
「奥の手を使わせてもらう」
「へ?」
「これだ」
ドアの隙間から何かが差し込まれてきた。安っぽい質の紙だった。切原赤也、と名前が書いてあるのが見える。
「げっ、これ俺の英語のテストっスか!?」
紙は千切られていて全部はわからないが、チェックをつけられた数的に明らかに赤点だ。つーか今見ても解ける気がしない。
「たわけ、裏を見ろ!」
頭に?を浮かべていると、そう指示があった。
「え……」
そこには慌てて書いたみたいな雑な字で、こう書いてあった。
「俺と試合が出来る券……?」
声に出して読んで、はっとした。これを渡した時のことを思い出した。
これを渡したのは中学の時だ。俺はすっかり真田副部長の誕生日のことを忘れてて、慌てて適当な紙を破って書いて渡した。けどその適当な紙がよりにもよって英語の小テストだったせいでめちゃくちゃ怒られたんだった。
「そもそもお前との試合が俺へのプレゼントになるというのか?」
確か、そうも言われた。
「当たり前じゃないっスか。言っとくけどこれ期限ないんで、俺がめちゃくちゃすげー選手になってアンタが対戦したくても出来なくなっても一回だけは相手したげますから」
「はっ……そんな日が来るとは思わんがな」
そんなことを、言っていたと思ったのに。
「何で、こんなのまだ持ってんだよ……」
藁半紙に水滴が滲んだ。
「こんなのゴミじゃないっスか。あの時は俺がただアンタと試合がしたかっただけで、アンタは別に」
「それは中学の頃の話だ」
「つか俺、まだアンタよりすげー選手になんかなってねーし」
「まだ、だろう」
息が止まった。
こめかみが熱くなって、震える指先にまで血がめぐってくる。見えていなくても、真田さんのまっすぐな視線が俺に突き刺さった。
「俺はこれから走りに行くが、お前は?」
「行きます!」
頭で考えるよりも先に答えていた。
自分の手で扉を開くと、真田さんは俺を見るなり眉を顰めた。
「たわけが、どういう生活をしていたのだ」
「へへ、真田さん、お帰んなさい」
真田さんの腕に飛び込んでも、安定した体幹でびくともしない。真田さんの胸板で寛いでいると、頭がぼんやりとしてきた。
「おい赤也? ……まったく」
言いながら真田さんの手が背中をあやすように叩いてくる。
真田さんの腕の中で、俺は真田さんと試合をする幸せな夢を見た。