フォニー・アタラクシア愛と信じていたかった。情と信じていたかった。
そんな夢を見ていたかったのに。
儘に抗う充溢は醜い。
無垢な虚けは美しい。
冷厳で従順なアンティーク。脆く凄艶なヴィンテージ。
心を持たぬ貴女たちはみな、なにを夢に見るの。
意識が覚醒する。瞼を開ける。
ベッドから見上げる天井は、昨晩眠る前に見たそれとは寸分の狂いもなく、朝日を浴びてオレンジ色に光っていた。
初めの頃……いや、こうなる前には多少なりとも存在していた寝相というものも、今では忘れてしまったように感じる。
とは言うけれども、実際のところは元から躾られていたために酷い寝相というものは体験した記憶がないし、寝相は良ければ良いに越したことはないのだろうとも思っている。
そうだ。だからこれは、きっと喜ばしいことだ。
……わたくしにとっても、お母さまにとっても。
なぜなら……わたくしがまた一歩、お人形に近づいたという証なのだから。
すぅ、と息を小さく吸い込む。朝方の冷たい空気が気管を通って肺に充満するけれども、それを感じ取ることはできなかった。
ベッドから降りて素足を床につける。埃ひとつない冷えたタイルと足がぶつかって、カチャリと小気味良い音が鳴るけれども、それを感じ取ることはできなかった。
それらを惜しむ感情も、今ではすっかり薄れてしまった。というよりも、それが当たり前になりつつある、という方が正しいだろうか。
すっかり登った朝日を浴びて、廊下を歩く。
真白い部屋、真白い廊下、真白い家具。
どれも隅々まで綺麗に掃除が行き届いているそれに、靡く紫色の髪が反射して映った。
ここにあるものは、ほとんど全てが白色で揃えられている。故に日光を反射しやすく、特に朝方のねむる家は神秘的なもののようにさえ感じられる時もある。
……ママは、お日様に当たることができないと言っていたのです。
でも、この家はお外に出なくたってこんなに日が差し込むのです。
それなのに、ママはこの家の中で家事もお掃除も、わたくしたちのお世話も、毎日全ておひとりでしているのです。…たまに、わたくしたちがお手伝いすることもありますが。
でも、わたくしたちにできることは、ひどく限られていますから。
……平気なのでしょうか。
先日ママに対して感じた違和感を払拭することは、まだ難しいようだった。決してママのことを疑っているわけでも、そうしたいわけでもないのだが。
だけれども……もし、ママもわたくしたちと同じように、元実験児なのだとしたら?
ママの頭部には、あまり見覚えのない花が咲いている。毎日見ていると気付きにくいが、明らかにママのその花は増え続け、そうしてそのうちのひとつは枯れかけていた。
“普通の人間”であるのなら、頭部から植物は生えないはずなのです。かつてのわたくしもそうだったように。
それに、ママのあの姿……初めてお会いした時に比べて、成長している気がするのです。お花も、ママ自身も。
それが、ママの“不調”なのだとしたら。
ママは…元実験児で、わたくしたちと同じように、その……失敗作なのだとしたら。
ドール・エミリーはゆっくりとした足取りで廊下を進む間、無意識のうちにまとまらない思考を整理しようと努めていた。
それにハッと気付いて、ふるふると小さく首を振る。こういう時、自分の中の“人間”をまざまざと思い知らされてしまって、少し嫌だと思った。
ママが否定するのなら、きっとこれは勘違いか何かなのだろう。ママが、そう言うのならば。
それに、思考することも推理することも、お人形がすることではないのです。
「……おはようございます。」
「エミリー、はやいですね」
真白い円卓には、既にオートミールが座っていた。
「オートミールさまも、とてもお早いのです。」
ドール・エミリーはぺこりと浅くお辞儀をしてから、自席に着席する。本当はもう少し深く頭を下げたかったのだが、ギチリと固まった腰では会釈程度が精一杯だった。
「…なんだか眠れなくて。でも、元気がでました。こんなに朝早くからエミリーに会えたので」
オートミールは少しばかり元気が無いように見える。だけれども、ドール・エミリーに向ける笑顔が、屈託のないものだということだけは分かった。
「わたくしも、オートミールさまにいちばんにご挨拶ができて、光栄なのです。」
本当は同じように微笑み返したかったのだけれども、口角も頬も、上手に動かすことができない。
「ふふ、今日はとても素敵な冬晴れですね。少し寒いですが、冷たくて透き通った冬の朝は、嫌いではありません」
ぼくは日向ぼっこが好きですからね〜と笑ったオートミールの口からは、ほぅ、と僅かに白く色づいた息が漏れ出ていた。
「日向ぼっこ、わたくしも素敵だと思うのです。」
オートミールの話に相槌を打ちながら、ちらりと自分の口元を確認する。わたくしの口から発された息の色は、無色透明だった。
オートミールはドール・エミリーの相槌にパッと顔を明るくして、少し悩みながらも再度口を開く。
「エミリーが良ければ、今日は日向ぼっこをしませんか?風が強そうなので、少しだけ寒いかもしれませんが…」
「わたくしがご一緒しても、いいのですか?」
ドール・エミリーはその誘いに即答ができなかった。この身体ではご迷惑をかけるかもしれない、わたくしと一緒ではつまらないかもしれない……
「もちろん、ほかに誰か誘っても大丈夫ですよ〜。みんなで行ったほうが楽しいので」
「あ、違うのです…!オートミールさまとふたりなのが嫌というわけではないのです。」
「その…わたくしとふたりでは、つまらないかもしれないのです……」
きっとわたくしを気遣ってくれたのだろうオートミールの提案に、急いでふるふると首を振る。その様子を見て、オートミールは困ったように笑った。
「エミリーと一緒にいて、つまらないと思ったことはありませんよ〜。ふふ、そんなことで悩まなくていいんです」
「オートミールさま…そう言ってくれて、とても嬉しいのです。」
きっと今、わたくしがお人形でない普通の子どもだったのなら、瞳が潤んで、満面の笑みを作れていたのだろうに。
感情を表現できないということは、コミュニケーションを取る上でなかなか不便だと思った。
お母さまはそんなもの要らないと言ったけれど……ここにいるみなさまは、どの方もとても喜怒哀楽が豊かなのです。わたくしは少しだけ、それがうらやましいと思ってしまうのです。
時々、本当はわたくしがどうしたいと思っているのか分からなくなる。
お人形になりたいのに、ならなければいけないのに。一方で、だんだんとわたくしから消えていく、人間にしか存在しないものへの名残惜しさも捨てられないでいるのだ。
……?
なぜ悩む必要があるのだろうか。
お人形にならないという選択肢などないのに。わたくしには拒否権などないのに。
お人形になれば、きっときっと褒めてもらえるのに。
「オートミールさま……」
「ふたりとも、おはよう。」
ドール・エミリーが声を発するのとほぼ同時。背後からママに声を掛けられる。
振り向くと、2人とも早いのね、とママが目を細めながらわたくしたちを見つめていた。
「ママ、おはようございます。」
「おはようございます、ママ。今日はとてもきれいに晴れていますよ〜」
ドール・エミリーとオートミールは、順番にママと朝の挨拶を交わす。この時も、お辞儀は会釈程度が精一杯だった。
「そうね、でも少し寒いでしょう?温かいスープを作りましょうか。」
ママがむむ、と顔を僅かに顰めながらキッチンに入っていく。
温暖化が加速の一途のみを辿っている現在の地球にも辛うじて四季というものは存在しており、それなりに気温差もはっきりと感じられる。
ただこれは素直に喜べるものでもなく、様々なウイルスや病原菌が蔓延っている現代では、免疫力が低下する冬は特に気をつけなければいけない季節でもあった。
ママはそれを危惧してか、生姜をすりおろし始めたようだった。独特な香りが辺りに充満する。
「ではぼくは、みんなを起こしてきますよ!」
オートミールが立ち上がると、そう宣言してから廊下に消えていった。
わたくしも、ママのお手伝いをしなければ。
「ママ、わたくしにも何か…」
ぐっと脚に力を込めて、立ち上がろうとする。
「あっ」
だけれども、身体はそのままカチャリ、と軽く乾いた音を立ててその場に崩れ落ちた。
受け身を取ることもできないまま、コントロールを失った四肢は乱雑に投げ出され、視界は床のタイルで一面に染まる。
身体中を殴打したというのに、どこも痛みは感じられなかった。
あれ…転んでしまったのです。
「ドール・エミリー…!?」
ママがその音に気付いて、心配するように駆け寄ってくる。
すぐに立ち上がらなくちゃ。そうしないと、ママに迷惑をかけてしまうのです。
力、力を身体に込めて。
脚を立てようとする。……できない。
腕を床に突こうとする。……できない。
あれ。
あれ?
……身体って、どうやって動かすんだっけ?
先程までは何も考えずとも自然に動いていた身体の全てが、たった今からはもう自分のものではなくなってしまったような気さえする。
なんだか呼吸もしづらいし、なんだろう…なんだか急激に視界がぼやけていく。
まるで、世界を磨りガラス越しに見ているような……
目の前で何かを精一杯に話しかけているママの顔も、パーツはぼやけて判別することができない。かろうじて輪郭が確認できる程度だ。
「……ママ、ごめいわく……かけて、ごめ…なさい、なのです…」
頬も唇も舌も喉も、何もかもが動かしづらくて仕方がない。全てがまるで石にでもなってしまったように硬くて、どれだけ力を込めてもピクリと痙攣させる程度が限界だ。
のっぺらぼうにバラバラのパーツを切り貼りして作った顔を無理やり動かしているような、奇妙な感覚だった。確かこういうのを、隣人感というのだったろうか。
いつの日だったか、暇つぶしで読んでいた本にそう書いてあったような気がした。
「大丈夫?調子が悪い…?」
ママがずっとずっと話しかけているのに。それを綺麗に聞き取ることも、何かを返すことも、ついさっきまでは容易くできていたことだったのに。
ああ、どうしよう。
早くママに大丈夫ですと、平気ですと言わないと。
そうしないと、わたくしはまた……
椅子から崩れ落ちた拍子に顔に垂れかかっていた髪を、なんとか首で振り落とした。そうして顔を持ち上げて、眼前のママを見つめる。
どこかでパキリ、と割れるような音がした。
「……ママ、」
辛うじて発することができたわたくしの問いかけにママは返答せず、目を見開いたまま硬直している。その大きな両の瞳は、わたくしの目と交わっていた。
いつもママは優雅で余裕があるように見えますから、こんなに焦ったような姿を見るのは珍しいのです。
他人事のように、そんなことをぼんやりと考えていた。
それから、ほんの少しだけ沈黙が流れたあと、やがて顔を歪めたママが小さく呟く。
「……ドール・エミリー、顔が…」
カツン、と何かが落ちた音がした。わたくしの真下から。
「……え?」
それを無意識に視線で追いかける。落ちたものは、わたくしと同じ肌の色をした欠片だった。
それをわたくしが確認したのと同時に、ママはハッとしたようにわたくしの顔を両手で優しく包み込む。ママの瞳からは、何かが溢れたように見えた。
「ああ、転んだ拍子にぶつけてヒビが入ってしまったのね……」
そうだったのですか、わたくしの顔が割れてしまったのですか。
先日に分解して観察した人形の体内が、ふと脳裏に浮かぶ。あの人形は内部がゴムと金具のみで構成されていて、その他には何もない、ただの空洞。無だった。
もちろん、知識としては以前から知っていることだったし、わたくしの身体もゆくゆくはそうなっていくのだろうということは分かっていた。
分かっていたつもりだった。
だけれども現に今、こうしてわたくしの顔は剥がれ落ちて、頬には黒く空洞が広がっているのだ。自分で見て確認することはできないけれど、きっとそんな気がした。
もう身体のどこにも筋繊維なんてものは既に存在していないはずなのに、なぜだか身体が震えて止まらない。
これ、これはきっと。
恐怖だ。
死に対する、無に対する、根源的な恐怖。
“人間”ならば誰しもが抱いている本能だ。
……ああ、わたくしは最後まで、失敗作のままだったのです。
お人形になりきることもできず、完璧で気高いお母さまの子供になることもできず。
こうして、わたくしの身体にまだほんの少しだけ漂う”人間”の残り香に、いつまでも縋り付いているのです。
どんなに躾を受けても、真名を無くしても。わたくしはお母さまの理想のお人形になることはできなかったのです。
言葉を矯正されても、振る舞いを正されても……心を壊されても。
だってわたくしは。
フロックね、本当は……
「エミリー…!」
「ちょっと、そんなに押さないでよ…!」
「どうか、したのですか…?」
横たわっている床がドタドタと揺れる。同時に複数の足音が慌ただしく響いてきたと思えば、今ではすっかり聴き馴染みのある声たちが忙しなさそうに現れた。
「エミリー、だいじょうぶですか」
オートミールが真っ先にドール・エミリーの元へ駆け寄る。どうやら他の皆を呼んできたようだった。
「……オートミール、さま…」
「…みなさま……」
相も変わらずに、視界ではぼやけた輪郭ほどでしか人物を認識できなかったが、その声と仕草で、全員の判別は容易くつけられる。
毎日一緒に過ごしているのだし、それに。
それに……
わたくし、ねむる家で探し物を見つけたのです。
身体はきっともう少しで不調が進行し切ってしまうだろうに、まだわたくしの元にいてくれるこれを。この厄介で、だけれどとっても大切なこれを。
もう、この身体はすぐに”命”ではなくなってしまうのに。お母さまとの関係よりも、わたくしの身体よりも、何よりも真っ先に壊れたはずだったのに。
もう伝える手段はほとんど残っていないのに。
いや、だからこそだろうか。
「みな、さま……」
言葉を紡ぐたびに顔はパキパキと音を立てて、ヒビが大きく広がっていく。つい先程まではわたくしの肌だったものが、欠片になってポロポロと欠け落ちていく。
「……わたくし、ここに…」
「ここに、いられて、」
「良かった……」
みなさまがわたくしの周りを囲うように座り込むのが見える。みなさまの声が聞こえる。こんなに近くにいるのに、誰とも目を合わせられないことがもどかしかった。
ごめんなさい、みなさま。せっかくわたくしのために、みなさまが集まってくれたのです。なのにわたくしは、みなさまに何もしてあげられないのです。
……少しだけ、名残惜しくなってしまった。
明日からは、この家で過ごせなくなること。
みなさまと、もっとたくさんお話したかったのです。もっとたくさん遊びたかったのです。
もっともっと、みなさまと仲良くなりたかったのです。
わたくし、わたくしは……
みなさまのこと、もっと知ってみたかった。
そんな走馬灯のような、悔いのような。思い出のような、白昼夢のような。記憶と願いが靄のようになって思考を掠め取っていく。
……ああ、もう何も考えられない。
みなさまの声を、言葉を。音として聞き流すことしかできない。そこに意味を見出すことができない。もうわたくしの頭の中は、空っぽになってしまったのだろう。
せっかくみなさまが、わたくしのために何かを話してくれているのに。
それに、みなさまを床に座らせてしまったのです。わたくしのために、きっと冷たいのに。
でも……なぜだか分からないけれど、みなさまに囲まれているこの場所は、陽だまりのように暖かかった。寒暖を感じる神経ももうきっと無くなってしまったのに、不思議。
……ねえ、お母さま。
普通の子どもでいたいだとか、そんなわがままはもう望まないから。
わたくしは、お母さまのお人形に、きちんとなりたかったのです。お母さまの望み通り。お母さまの躾通り。
その執着が、お母さまなりの愛情の形なのだと、そう信じたかったから。
だから、この瞳がすべてを写さなくなったその時には。この命が伽藍堂になったその時には。
どうか、最後だけでもこの身体を赦してくれますか。
他のお人形と同じに並べて、愛してくれますか。
その代わり、空になる前の。たくさんの思い出が詰まったこの”心”は、ここに置いてゆきたいのです。
ママも、みなさまも。
わたくしをお人形ではなく……”人間”として、”子ども”として。そうやって接してくれるのは、優しくしてくれるのは。
この家で一緒に過ごした、みなさまだけだったのです。
ですから……まだ辛うじて暖かい、わたくしのこの心は。
みなさまの元に置いてゆきたいのです。
これが、わたくしのほんとうのほんとうの。
最後のわがまま。
ママ、みなさま。
わたくしを。”ドール・エミリー”を。
ドール・エミリーがここに居たという記憶を。
どうか。どうか。
忘れないで。
わたくしがお人形になっても。
それだけは、夢見ていたいのです。
「……マ、マ……」
微睡みの波が意識を攫って、深く深く沈んでいく。明日の朝日を浴びることは、もうわたくしには叶わない。
だけれども、もうそれでもいいと思えた。
こんな幸せな夢だけを、ずっとずっと見ていられるのなら。
「…ドール・エミリー、おやすみ。」
全てが途切れる寸前の、いちばん最後。ママの声が、聞こえた気がした。
……ママ、おやすみなさいなのです。
ドール・エミリーの瞳は、ガラス玉のように鈍く光を反射させている。
その瞳から悲しい雫が滴り落ちることは、もうない。
——— 起動、確認。
「廃棄対象児童No.███、フロック・サラ。」
「不調の完全進行による処分を完了しました。」
「廃棄対象児童の残数は4名です。」
——— 記録、終了。