ラヴィナス・アディクション依存は毒だと聞きます。
だけれども、幸福と感じるのならば。それは良いことだとは思いませんか。
思い出せない誰かよりも、うんと遥かに。
それらは心を慰めてくれるのです。
たとえ、一時ばかりの快楽であったとしても。
もう誰の薬指にも繋がっていない、愛などとは違って。
「……ご馳走様でした。」
ぱちん、と乾いた音が静かな空間に響いて、そのあとに囁くようなママの声が続く。
「ごちそうさまでした」
ガシャリ、と金属が擦れるような音は、オートミールの両手が鳴らしたものだ。
2人とも、一人前というにはいささか心許ないのではないかと感じてしまうほどの大きさしかないプレートに乗せられていた食事を、綺麗に完食させていた。
そうして2人の視線が、シルルに向けられる。急かすでもなく、迷惑がるでもなく、ただ終了を待つだけの他意などは一切もない視線。
そう、だから。だから次は……シルルもそれに続いて、ご馳走様と言わなければいけないのだ。目の前に置かれている一段と広いお皿はただ白いばかりで、もう残っているものなど何一つ無いのだから。
……ぐう。
本来ならばシルルの両手が鳴らす音が破るはずだっただろう静寂は、おおよそ真逆の音で裂かれていった。
「おなか、すいた…」
「あら、少し足りなかったかしら。ごめんね、すぐ用意するわ。」
ママはそれにくすりと微笑んで、席を立とうとする。
「すみません、ぼくがもう少し多く分けてあげればよかったですね」
ぼくも手伝います、と同じように立ち上がりながら、オートミールが眉を下げてシルルを見つめた。
その口元には笑みを浮かべたままではあったものの、それはいつもの穏やかな笑みではないことは誰の目にも明らかであるように見える。
「シルル、も…!」
シルルはオートミールの視線に首を傾げつつも、ママへ対しては普段通りに手伝いの名乗りをあげた。
「あら、いいのよ。オートミールもシルルも、座っていて頂戴。簡単なものになっちゃうけれど、もう少し待っていてね。」
ママが駆け寄る2人を制止した。オートミールはそうですか、と足を止め、シルルはわかった、まつ、する!と頷いて着席する。
「2人とも、いつもありがとう。でも見て頂戴。ママもね、もう随分と動きやすくなったのよ。」
去年の夏とは比べ物にならないほどすっかり背丈の伸びたママが、楽しそうに話しかけた。
あの頃は小さな手で重たげに振っていたフライパンも、今では軽々と持ち上げているようだ。身長はオートミールを疾うに越したように見え、シルルにはまだ及ばないものの、少女のようだと感じていたはずの面影は最早どこにも無い。
腰ほどまで伸びている、ウェーブの緩くかかった白髪をふわふわと揺らしながらキッチンでテキパキと動くママは、時折僅かに知らない人であるように感じる…時がある。
ほんのたまに、ではあるのだが。
それは、きっと。ママの急激な成長に、理解と認識が追いついていないだけなのだろうけれど。
うん、きっとそう。
ぐう。
再び響き渡るシルルの腹の虫にそんな思考は容易く掻き消えていき、緩く笑みを溢した。そうして見つめた先で…それは、すぐさま消え去ることになる。
「シルル、だめですよ…!」
隣で、シルルが真白い皿に噛み付いていた。
たくさん食べるシルルのためにと用意された大皿に、牙を強く突き立てている。ガチガチと硬いもの同士が擦れ合う耳障りな音が響いた後、やがてバキリ、と軽快に皿の欠ける音が続いた。
「だめです、やめてください…!」
必死なオートミールの制止も聞こえていないように、シルルは無心で咀嚼しそれを飲み込んだ。瞬間静まり返った空間には、砕けて飛び散った皿の破片が散乱していた。
「シルルっ!」
ママが駆け寄る。焦ったようにシルルの口元や手元を見つめて、状況を確認しているようだ。
怪我は?お腹は痛くない?
「あ、ごめん…シルル……まちがう、した…」
2人の問いかけにハッとする。同時に、口内が切り裂かれているようにズキズキと滲みた。
「いた……っ」
「ああ、口の中を切ってしまったのね。」
シルルが口元から一筋血を滲ませている。ママがそれに気付いて、一層顔を顰めた。
「ママ、ぼくが濡れタオルを持ってきますよ」
「ええ、お願いするわ。ありがとう。」
口内の負傷に対して、手当てというのがどこまで有効かは正直分からない。だけれども、オートミールはいても立ってもいられなかった。
「シルルはそのままでいてね。お皿の破片が飛び散ってしまっているから、触ってしまうともっと怪我をしてしまうわ。」
「わかった……ごめん、ママ……」
しおしおと罪悪感で縮こまるシルルに、シルルが無事なら良いのよ。そう優しく伝えて、破片をかき集める。
存外大きな欠片ばかりで、細かなものは少ないようだ。大きく目立つものを大方手動で取り上げた後、箒で残りを掃きまとめる。
「ごめんね。ママのご飯が少なくて、怪我をさせてしまったわね。次からはもっとたくさん作るからね。」
不調故とはいえ、少なからずこれは防げた事故だったかもしれない。もっと多く食事を用意していれば…後悔しても時は戻せないが、どうしても自責の念が募る。
「ちがう…ママ、わるい、ちがう!」
シルルがふるふると首を大きく横に振り、ママの言葉を否定した。
「シルル…ごはん、まつ…できない、した…」
「だから、わるい…シルル、だけ」
「……そんな事ないのよ。」
そんなに自分を責める必要はないわ。ママはシルルの言葉にそう続けて、優しく頭を撫でる。今までシルルを撫でるというのは体格差のために少し難しいことであったが、こうして簡単にできるようになった掌を見つめて、僅かに口角が緩んだ。
「ママ、なでる、くれた…?」
先まではしゅんとしていたシルルも、それにパッと表情を明るくさせて見上げる。うれしい!と目に見えてはしゃぐ様子に、思わず微笑んだ。
微笑んで、それで。
「ねえ、シルル……キャンディは好きかしら。」
「……キャンディ!たべる、ほしい」
ママがシルルへ持ち上げて見せたのは、紫色の包み紙に包まれた小さなキャンディのようだった。
弾かれたようにそちらを向いたシルルの視線は、そのキャンディへ釘付けになる。
「ご飯を待つ間のおやつにしてね。はい、どうぞ。」
たべもの!それ、それほしい!
いますぐほしい!
ママの手元を見つめる縦長い瞳孔の瞳は、まるで獲物へ照準を定めた獣のようで。動かない、抵抗もしない的であるならば、それは容易く刈り取られる。
ここをサバンナだと仮定するならば、それは日常的な生活のほんの一部でしかないのだろう。絶滅した生物も、現代を生きる生物も。かつての人間すらも。それは生物という種において、いずれも不変であることだ。
人間が進化していく過程でそれらと明らかに一線を画すようになったのは、おそらく“理性”の獲得である…と考える。
一方で理性と本能は対極のものとして用いられることが多く、語る上ではどちらにもどちらかが付き纏う。動物と分かち、人間を人間たらしめさせているはずの理性という存在は、本能が存在しなければ成り立たないとでも言いたげであるように。
……ところで、理性とは何か?
社会性、道理、善悪……それらを思考し判断すること。つまりは、感情のままにコントロールされるのを制御する能力だ。
それは、本能がまろび出そうになるのをひた隠す能力だ。それは、来たる日のために牙を研ぎ続ける能力だ。
……つまるところ“理性”とは、本能を彩るだけの存在だ!
ほしい、と口に出して伝えたはずではあったが、それが喉奥を揺らし発音に至ったかは分からない。
だけれども、そんなことを気にする余裕などは疾うに存在していなかった。
ただ、食べ物が欲しい。
空腹が思考を染め、それ以外は片隅にも浮かばない。先までしていた会話の内容すらも、容易く海馬から溢れ落とした。
牙を突き立て、咀嚼し、噛み砕き、喉奥に流し込み、胃を膨らませる。この工程だけが、今のシルルを慰めることのできる唯一の方法だった。
「あっ…!」
シルルはキャンディを掴んでいるママの右手に文字通り飛び付いて、そうして包み紙も厭わずに口へと放り込んだ。
ガリガリと固く乾いたものを噛み砕く音の奥で、ぐしゃぐしゃと包み紙が跳ね回る音も聞こえる。
口に放り込むことができる、咀嚼することができる…飲み込むことができる。
この工程を踏めるものならば、どんなものであろうとそれは食べ物と言えるのだ。少なくとも、シルルにとっては。
「シルル…!」
聞いたことはそれほど多くないママの張り上げた声に、ハッと意識が覚醒する。
「あ、ママ……」
先程からずっと隣に居たのに、ママの顔をしっかりと見つめたのは久しぶりだった気がした。
その先。狼狽したように眉尻を下げたママの顔は、シルルを心配そうに見つめている。
「包み紙まで飲み込んでしまったの?待っててね、今お水を持ってくるわ。」
「ご、ごめん…なさい……」
「…いいえ、シルルが謝ることではないわ。気にしなくていいのよ。」
無気力なシルルの謝罪に、ママは首を横に振って笑みで返した。そうしてキッチンへと向かうために眼前から離れていくママの右手に、赤い何かが纏っている。
つうっと一筋流れ出て、ママの白い指先を彩るように線を引いていくその赤色から、目が離せなくなる。
ゴクリ、と生唾を嚥下する音がやけに大きく聞こえた。
ドクドクと普段より格段に速い心拍音と、ハァハァと余裕のない呼吸音と…それから、ぐぅ、と腹の底から鳴り響く、シルルを支配する音も。
それ、おいしそう。
深く澄んだダークグリーンの瞳に映るのは、シルルが“食べることのできるもの”だけだ。
それだけだ。
おなか、すいた!
瞬きした後に聞こえたのは、骨同士がぶつかり合うようなガリ、という耳障りな音と、何か濡れた柔らかなものが裂かれるようなぐちゃり、という水音だった。
シルルに背を向けていたママが、その音に気付いて振り返る。
……?
身体のどこかが、痛い気がする。
だけれども、急激に口内に充満した咀嚼できる”何か”によって、シルルの思考の全ては容易く染められていった。求めていたもの、今すぐ欲しかったもの。おいしいもの!おいしくなくたっていいけれど、とにかく食べられるもの!
…ところで、”これ”が何かはよく分かっていない。味や食感で食材を判断できるほどの知識も経験もないけれど、なんとなくこれは普段からよく食べているものに近い気がした。繊維質だけれど歯応えがあって、とっても美味しい。
咬筋を動かし牙を突き立てて、嚥下できる大きさまで噛み砕く。それを喉へ押し込めて、体内へ流し込んでいく。
「おいし、い……」
ほわ、と頬を綻ばせて悦に浸る。胃を満たせた多幸感で思わず顔を持ち上げた。
それで、そうして……目が合ったママは、悲しげにシルルを見つめて絶句していた。……いや、悲しげというよりかは、唖然?呆然?とにかく、信じられないものを見るような。そんな眼差しだった。
ね、ママ…美味しいから、ママもこれ、シルルと半分こしようよ。
そうして無意識に振り上げた右腕。なんだかいつもより、とても軽かった。
それに、ぼたぼたと何か液体のようなものが滴り落ちる音も響いていて。
「あ……え、?」
ママに差し出そうとした右腕が、意識せずとも視界に入る。前腕は抉れ削ぎ落とされて、白い骨が剥き出しになっていた。
今飲み込んだこれは、なに?
シルルは、なにを食べた?
「あ、あぅぅ……っ!」
これは紛れもない、己の肉だ!
食事の興奮と耐え難い飢餓感によって打ち消されていた痛みが、自覚したことにより急激に感覚全てを飲み込んでいく。
いたい。いたい。いたい!
身を引き裂いたことなど、おそらくは生まれて初めてであったから、こんな痛みには当然耐えられるはずもなかった。
立っていることもできずにしゃがみ込む。視界は生理的な涙でぼやけ、呻めきのような声が喘鳴と共に漏れ出るばかりだ。
「シルルっ……」
顔を真っ青にしたママが、シルルの呻めきにびくりと身体を震わせてハッとする。顔を酷く歪ませてシルルを覗き込むママは、患部を見つめると眉間に皺を刻んだ。
「ああ、なんてことなの。可哀想に……」
「ぅぅ……マ、ママ…いたい……」
シルルの悲痛な訴えを、ママはただ沈痛な面持ちで受け止めることしかできないでいた。
怪我の手当てならば、幾度となくしてきた。だけれどもそれは、あくまで“怪我”の範囲内の話であって。
シルルのそれは、どう見繕ってもこの家の設備で対処することは難しい。
思わず目を伏せた。
それに…もうシルルには、ダストドロップを投薬してしまったのだ。判断したのは、シルルにこうさせているのは、紛れもなく己自身だ。
それが、課せられた使命であるとはいえ。
ぐうぅ。
シルルの呻めきに混じって、底なしの胃袋が次の贄を求めている。
「おなか、すいた……たべる、ほしい」
「なんでも、いい…!たべる…したい……!」
涙と血が混じり合った雫を滴らせながら、尚もシルルは空腹に囚われている。ゆらゆらと瞳を漂わせてママを少しだけ見つめるけれども、再び己の右腕に齧り付いた。
ギリギリと音が鳴るほどに容赦のない噛みつきは、筋繊維どころか骨すらも容易く砕いていく。そのまま奥歯で弄び、食道へ流す。口内が空になれば、また同じように次を。
それは、味わうための行為ではない。生命を維持するための行為でもない。
それは、ただ命を消費し、蝕み、貪る行為。
シルルが食べることのできるものには、例外なく”シルル”自身も含まれている。
他ならぬ己の命に向いた牙すら、自覚できない。制御できない。そうするという選択肢しか、シルルには与えられていない。
しばらくの間、辺りには粘度の高い水音と嚥下音だけが響いていた。
気付いた時には、右肘から下の感覚は無かった。だけれども、その切り口からドクドクと血液が流れ出ていくのはなんとなく分かった。
おいしい!
それでも、シルルが止まることはない。美味しい、もっと欲しい、それらだけが脳に伝達された情報だ。次の食事を求めて、左腕にも噛みつこうとした。
「……あ、」
右腕を失った故にバランスが保てなくなったか、急激に体内から多量の血液が失われたことによる眩暈か。くらり、と視界がぶれて、その場に倒れ込む。
硬いタイルの床がひんやりとして、少しだけ心地が良かった。
そこに体温が溶け出てしまったように、あるいは調和していくように?身体の内側から熱が失われていく。
いやだ、まだ食べたい。
無意識のうちにツインテールのようなハサミを動かして、噛みつき損ねた左腕を掴もうとする。だけれども、力の入っていないそれはすごく重たくて、持ち上げるには少し難しかった。
身体のどこも、思い通りにいかない。
まるで、身体の全てが氷にでもなってしまったように感じる。本来ならば恒温動物には備わっているはずの保温器官は、もしかすれば既にこの身体からは無くなってしまったのかもしれない。
……なんだかすごく、ねむたい。
睡魔か気絶か分からないけれど、気を抜けば今すぐにでも意識を溢してしまいそうになる。
瞼が重力に逆らえない。木からもぎ取られたリンゴが、そのまま垂直に落下するように。産まれ落ちたばかりの赤子が、地を這うことしかできないように。
だけれども、代わりに先までシルルを支配していた苦痛や飢餓感は嘘のように消え去っていた。
もう何も感じない。何も見えない。
「……シルル、おやすみ。」
柔らかなママの声が、シルルの鼓膜をやんわりと撫でていく。それはとにかく心地が良くて、暖かな毛布に包まれているような安心感があった。
いいや、言葉だけではなくて。身体にも温もりがほんの少し分け与えられた気がする。その緩やかで優しい締め付けは、確かにシルルを包んでくれた。
温かいな。これがとても、大好きだった気がする。
……うん。眠っていいんだ。
ママがおやすみと言うのなら、それでいいんだ。この衝動に抗わなくていいんだ。
そういえば、なぜ抗おうとしていたのかも、もう分からなくなってしまったのだし。
うん、そうだよね。今日は眠ってしまおう。だってもうこんなに暗いんだもの。暗くなったら、シルルはまだ子供だから眠らなければいけないんだもの。
……そうして次に瞼を開く時には、またいつも通りにこの家で過ごすの。
またみんなで、温かいごはんを食べたい。それからいっぱい遊んだり、星を見たり、パーティーしたり、したいな。
だから、今日はおしまいにするね。
ゆっくりと、ゆっくりと。意識が闇に覆われていく。微睡んでいく。名残惜しいことなんて何もない。次の目覚めまで、楽しみは取っておけば良いのだから。
ねえ、ママ!みんな!
聞いて、あのね。
シルルね、すごくすごく幸せだよ!
シルルにとってこの世界は難しいことだらけで、理解できることの方が少なかったけれど。
でも、シルルの周りのことはすごくよく分かっていたつもり。シルルの周りは、とても楽しくて、暖かくて、いつだってシルルは笑ってたよ。
……今。どうしても、それを伝えたくなった。何故かは分からないけど、今伝えなければいけない気がした。
伝わったか分からない、言えたのか分からない。けれども、それに二度目はきっと訪れないということも分かっていた。
これはきっと理屈ではない、本能なのだろう。だけれどもう何も分からないシルルには、それを理解することは難しかった。
だから、ママの言うことを聞くよ。ママがおやすみと言うのだから、シルルはそれに従うよ。
だから、だからね。
なにも怖くないよ。
ね。おやすみ、ママ。
血濡れた抜け殻は、命を落としても綺麗に形作られたまま。
例え、不完全で間違いだらけの歪んだものだったとしても…確かに、確実に。それは愛で型取られたものでした。
——— 起動、確認。
「廃棄対象児童No.███、シルリア。」
「ダストドロップによる処分を完了しました。」
「投薬許諾書のサインは代筆となります。」
「廃棄対象児童の残数は1名です。」
——— 記録、終了。