「ここが、ローマか……!」
テルミニ駅のホームへと降り立ったブチャラティが感嘆の声を上げた。
駅の構内は忙しない人々と、ひっきりなしに到着する鉄道の乱雑な物音で溢れている。
ネアポリス辺境の港町で生まれ19年間そこで育ってきたブローノ・ブチャラティには、その騒々しさは新鮮に感じられた。
今年からこのイタリアの首都たるローマの大学に入学するブチャラティは、人生で初めてこの大都会の地を踏んでいるのである。
『都会には出会いが多い分、悪い人も多い。気を緩めないようにな』
『わかってるよ、父さん。愛してる』
数時間前にネアポリスの駅のホームで交わした会話がもう昨日のことのように思える。
混雑する駅の中をなんとか潜り抜け、ブチャラティは外に出る。
(まずは下宿に行って荷物を置かなくちゃ)
ブチャラティはまだ使い慣れていないスマートフォンを取り出して、地図アプリを開く。
この携帯は、大学入学に際して必要だろう、と父が買い与えてくれたものだ。周囲を見渡せば、若者たちは皆画面を見ながら歩いたり、写真を撮ったりして使いこなしている様子だが、この歳になるまで欲しいとも思わなかったブチャラティは、まだこの箱を使いこなせていない。
スマホを持って縦に持ってみたり、斜めに持ってみたりして数十分格闘してから、ブチャラティは歩き出した。
(よくわからんが、進んでいれば辿り着けるよな……?)
わからなければ街の人に聞いてみれば良いのだし、と楽観的に考えながらブチャラティは歩き出した。
秋風がブチャラティの背中を押すようにほのかに吹いている。
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入学式初日からブチャラティの気分は少し下降気味だった。
ローマに到着した昨日、ブチャラティは駅から下宿まで大いに迷った。
なんとなく進んでいけば辿り着けるだろう!という目論見は早々に潰えて、無数に入り組んだ道路に、交通量の多さ、観光客も多くて歩道も通りづらい。ローマの喧騒のすべてが、ブチャラティの頭を混乱させた。
困ったブチャラティが目についた店で道を聞いても「知らないね」とそっけなく返される。それもブチャラティの心を傷つけた。顔見知りばかりの小さな漁村から出てきたブチャラティは、困っている人がいたら手厚く対応するのが当然だと思っていたので、初めて経験する都会の冷たさに驚愕したのである。
それでなんとか下宿に到着したはいいものの、アパートの屋根裏部屋まで階段を使って重いスーツケースを持っていくのは骨が折れた。もう疲れて、食事も取らずにシャワーだけ浴びて眠ろうと思ったら、蛇口からお湯が出ない。随分長い間使われていない部屋だったようで、ガスが壊れていたのだ。修理屋に電話しようにも、もう日も暮れていたので、ブチャラティは冷水シャワーで汗を流すしかなかった。
(踏んだり蹴ったりだ……)
新たな生活に胸を高鳴らせていた状況から一点、ハードモード。
へとへとの体で少し眠くなりながら式辞を聞き終え、会場の外に出ると、今度は大人数の学生から囲まれてしまった。
「君! 運動できそうだね! サッカー興味ない?」
「音楽は好き? ジャズサークル楽しいよ〜」
「ぽまえ、アニメ研究会に興味はござらんか〜?」
クラブやサークルの勧誘のようだ。チラシや看板を持った上級生が、入学式の会場から出てきた新入生を囲んでいる。
ブチャラティは律儀にも、一つ一つ丁寧に会釈しながら差し出されるチラシを受け取るので、学生たちも味を占めてブチャラティを解放してくれない。
色々なグループに囲まれて八方塞がりになってしまった。
(ど、どうしよう……!)
前にも後ろにも進めない状態で、ブチャラティが困っていると
「おーい! オメー、大人気だな! オレのところのサークルのチラシも持っていってねん」
黒山の人だかりをかき分けて、ニットキャップを被ったちょっとガラの悪い男が顔を出し、ブチャラティにチラシを渡す。
そのついでにひょいっと、人だかりの中からブチャラティを引っ張ってくれた。
「ありがとうございます……!」
「いいってことよ! イケメンは大変だな〜」
「?」
ケラケラと笑う先輩の言動にブチャラティは首を傾げる。
「自覚なしか〜! ま、いいや! オレはニ年のグイード・ミスタ!」
「ブローノ・ブチャラティです」
「ブチャラティ、よろしく! そうそう! 今日の夜、新入生歓迎会やるから、オメーも来いよ!」
ミスタ先輩が、ブチャラティに渡したチラシを指差す。
”今夜六時から! Bar Argotに集合! 新入生は飲み代無料!”
「いくら飲み食いしても新入生はタダだからな。お得だぜ〜! 絶対来いよ!」
ミスタ先輩はそれだけ言い残し、ウィンクして去っていった。
一食分のご飯代が浮くのは嬉しい。何しろブチャラティは、学費と生活費をすべて自分で賄うつもりなのだ。
時給の高いアルバイトを見つけるまで、しばらくはアーリオ・オーリオでしのぐしかないと思っていたところだ。
それにお酒も飲みたい。アルコールで体を温めれば、冷水シャワーも多少はマシになるだろう。
(友達もできるかもしれないし、行ってみよう)
ブチャラティはミスタ先輩に渡されたチラシだけを握りしめ、その他のものはゴミ箱に入れて大学を後にした。
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「ブチャラティくん、出身はこの辺?」
「背、大きいね〜」
「何学部なの?」
「えー…っと……」
タダでご飯を奢ってもらえると言われ、サークルの新入生歓迎会にやってきたブチャラティだったが、開始早々疲弊していた。
(帰りたい……)
友達ができるかも。と思って来てはみたものの、会が始まって早々女の子達に囲まれてしまい、一通り世間話をしてブチャラティが別の場所に移動すると、今度は別の女の子達に囲まれる……という感じでキリがない。流石に鈍感なブチャラティも、女の子達が自分に何を求めているのかわかる。
要は出会いの場なのだ。
ブチャラティが新入生、先輩問わず女の子に声をかけられまくっているため、男子学生と話す暇はなく、友人を作るなんて無理そうだ。なんなら白い目で見られているような気もする。
(疲れた……)
昼は助け舟を出してくれたミスタ先輩の方も、女の子に声をかけるのに忙しいらしい。やっと会場の女の子達と話をし終わって、ブチャラティは壁際へと移動する。ミスタ先輩以外に知り合いもいないので、ポツンとひとりで立っている。
(もう、帰ろうかな……)
ブチャラティがぼーっと宙を見ていた時、入り口のドアが開く音がした。外気が店内に入り、冷えた風がブチャラティの足元まで流れてくる。ブチャラティは顔を向けなかったが、来訪者がミスタ先輩に歓迎される声が聞こえた。会場の女性達がそちらを見てざわついているような気もする。
色めきたつ女性陣の間を通り抜け、やってきた誰かさんの足音がブチャラティの横で止まる。
「はじめまして。新入生だよな? オレはニ年のレオーネ・アバッキオ」
その声にようやく彼の方を向いたブチャラティは、ハッとした。
(きれいな人……)
女の子達がざわついていた理由がよくわかった。ブチャラティの眼前でまっすぐに立っているその人───レオーネ・アバッキオはダビデ像を思わせる精悍な顔立ちをしている。
先ほど女の子達に「背が高い」と褒められたブチャラティだったが、彼の隣ではその褒め言葉は通用しないだろう。すらりと伸びた背筋と、長い脚が印象的な男だった。
差し出された右手から、ふわりとフローラルな香りが舞う。
(甘いにおい......香水かな……?)
ブチャラティは母が持っていた香水くらいしか知らないが、この香りは彼の持つ印象に対していささか甘すぎる。
ブチャラティは持っていたグラスを慌てて左手に持ち直すも、右手が結露で濡れていた。
ハンカチを出そうとしたけれど、そういえばバッグの中に入れっぱなしだし、彼の前でズボンで拭いて右手を差し出すのはダサくてやりたくない……
あたふたと考えあぐねていると、向こうから
「大丈夫だよ」
と声をかけて手を握ってくれた。
(なんてスマートな人なんだろう……!)
見た目だけじゃなく、内面まで素敵なんて!
ブチャラティの心臓が大きく跳ねる。
アバッキオ先輩は湿ってしまった右手を気にする素振りも見せず、爽やかに微笑んで見せた。
「うるさい場所でごめんね。すこし、疲れた?」
「い、いえ……! 地元には同年代がいなかったから楽しいです! ただちょっと慣れてないだけで……」
先ほどまでは帰ろうか迷っていたけれど、今は少し楽しい。この人とは落ち着いて話せそうだ。
「へぇ……! ブチャラティくんはどこから来たの?」
「ネアポリスの近くのマレキアーロっていうところで……」
「港町か……! いいね。もしかして、漁師の息子だったりする?」
「どうしてわかったの!?」
驚愕してブチャラティは思わず大きな声を上げる。
「やっぱり?」
「すごい……!当てられたの、今日初めてだ」
今日はたくさんの人と話したけれど、ブチャラティの出身地を聞いてそこまで言い当てた人はいなかった。むしろ、田舎出身だと聞いて興味を失った人もいたくらいなのに……
「オレも魚好きだよ。漁師の息子ほど詳しくはないだろうけど」
「そうなの?」
「ローマの郊外に水族館があるんだ。中心地から遠くてこじんまりしてるから、人が少なくて穴場でよく行く」
「へぇ……!」
ブチャラティが海の近くの出身で魚が好きだと言うと、アバッキオは郊外の水族館の話をしてくれた。
その水族館にどんな魚がいるのか?哺乳類はいるのか?とブチャラティが思わず質問攻めしても、アバッキオは面倒がらずに答えてくれる。
(優しいな)
ブチャラティは思う。
さっきまで都会の人間たちに揉まれて戦々恐々としていたブチャラティだったが、趣味が合う先輩と話せて嬉しい。
それにこの人はとても優しい。比肩する人を見たことがない美しい見た目だけど、それを鼻にかけず、こうして隅にいたブチャラティに話しかけてくれるのだから。
アバッキオ先輩となるべく長く話したくて、つまらない話をしたら別のところに移動してしまうのではないかと不安になる。そう思うとますますブチャラティの酒のペースは上がってしまう。そうやって飲み続けていたら、会が終わる頃には、ブチャラティはアバッキオの肩に体を預けて歩くほかなくなっていた。
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「ブチャラティ、大丈夫か?」
心配そうなアバッキオ先輩の声に胸が痛む。
「う、うーん…………」
「家はどこだ? 送っていく」
「ガエタ通り……64のB……」
先輩の優しさに対して、自分の不甲斐なさったらない。こんなところまで面倒をかけるなんて。
ブチャラティは落ち込んでしまう。
「アバッキオ先輩……迷惑かけちゃってごめんなさい……」
「いいんだ、無理するな」
朦朧とする意識のなかでブチャラティの記憶に最後に残ったのは、口の端だけを上げて笑うアバッキオ先輩の横顔だった。