「アバッキオ〜、もぉ帰っちゃうの?」
今日も泊まっていけばいいのにと言って腰にまとわりついてくる女を引き剥がして、アバッキオはバスルームに向かう。手早くシャワーを浴びて髪を乾かす。
昨日着ていた服はまだ女が寝そべっているベッドの足元に散乱していた。シャツを拾って軽く払って、第三ボタンまで閉める。
「次はいつ来れる?」
上目遣いの女がシーツの上で尋ねるのを尻目に、姿見でシャツにシワがないか確認する。
「……わからねぇ。また連絡する」
「ひっど〜い! そうやっていっつも全然会ってくれないじゃん!」
投げ出されていたデニムのチャックを上げ、ベルトを締めていたアバッキオの腕を女がつかむ。邪魔なことこの上ない。「しつこいぞ」と言ってアバッキオが振り払おうとした、その時 ───
「えいっ!」
「! ?……けほっ!なにすんだよ!」
女がベッドサイドチェストから、香水を取り出して一吹き、アバッキオに吹きかけた。
「最悪だ……」
「飲み会行くんでしょ? 一応! 虫除けね」
女が首を傾げる様子は、アバッキオ以外の男が見たなら可愛らしく思えただろう。だが支度の邪魔をされ、好みでもない甘ったるい香水の匂いをつけられて、アバッキオは不機嫌の極みだった。小さく舌打ちするとアバッキオは踵を返す。
「じゃあな」
「あ、待ってよ! そんなに怒んなくてもいいでしょぉ!?」
女が追いかけてこようとしたのでピシャリと玄関を閉じてやった。さすがに裸で外までは追ってこない。
(もう潮時だな)
見た目も良くて、夜も積極的で悪くなかったのだが、最近は目に余る。
お互いを気遣うのはベッドの上だけ、それ以外には干渉しない。
そういう約束だったはずなのに、アバッキオのプライベートにも口出ししてくるなんて面倒だ。
スマホを開く。
ミスタから「今日の店はココだぜ!」とメッセージが届いているのを確認して、ついでに先ほどの女の連絡先をブロックした。女には自室の住所を教えていない。これでもう会うこともないだろう。
さっさと携帯をポケットにしまって、アバッキオは会場の店へと急いだ。
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会場に到着したアバッキオに同学年のミスタが抱きついてくる。暑苦しい。会が始まってからだいぶ時間が経っているから、お調子者のこいつはもう出来上がっているようだ。
「よぉ〜! アバッキオ〜! 遅かったじゃねぇか」
「チッ……触るな、鬱陶しい……テメェが、オレがこないと参加人数44人になるってうるせぇから来てやったんだぜ」
「おぉ〜! ありがとなぁ! 持つべきものは優しいダチだぜ〜」
「言っとくが、オレの飲み代はテメェ持ちだからな!」
わかったわかった、とミスタは言うがこの顔の赤さだ。ちゃんと聞こえているのか怪しい。
アバッキオの参加費はミスタが払うというので、しぶしぶ来てやったのだ。そうでなければこんな騒々しい場所になど、わざわざ来ない。
会場にいる面々に軽く会釈する。新入生達が頬を赤らめ、こちらをじろじろと見上げる視線が不愉快だ。自分の見た目の良さには自覚があるので、この手の目くばせには慣れているけれど、興味のないやつと長々と話すのは好きじゃない。テキトーに腹を満たしてさっさと帰ろう。
貼り付けたよそ行きの笑顔の下で、作戦を立て終わったちょうどその時。
アバッキオは部屋の片隅で、壁にもたれかかっている青年を目にして息を呑んだ。
(美人だ……それもドタイプの……)
隅の壁にもたれてどこか遠くを見ている瞳が、吸い込まれるように綺麗だ。切り揃えられた黒髪の奥にある、すっと通った鼻筋と厚めの唇の組み合わせが美しい。あの髪に触れながらキスしたらどんな気持ちだろう。アバッキオは一目見ただけで彼への好奇心と欲望を覚えた。
疲れている様子を見ると、こういった場は得意ではないのだろう。ツラもスタイルも良いのに、着ているものは流行遅れだ。
(田舎からローマに来たばっかりってとこか)
ラッキーだ。そういう奴はつけ込む隙がある。
アバッキオは狙いを定め、彼の方に歩を進める。
「はじめまして。新入生だよな? オレは2年のレオーネ・アバッキオ」
にこりと微笑みながら右手を差し出すと、ぼーっとしていた表情が一変する。持っていたグラスを左手に持ち変えたものの、右手が結露で濡れていたので焦っている様子を見て、アバッキオが「大丈夫だよ」と声をかけて手を握ると、はっとした顔をした。
「ブローノ・ブチャラティです。はじめまして……!」
正面から見ると、遠目で見た時よりずっと大きな衝撃を受けた。
(かわいいな……)
水分量が多いくりくりした瞳に見上げられて、アバッキオの胸が思わず跳ねる。
「うるさい場所でごめんね。すこし、疲れた?」
「い、いえ……! 地元には同年代がいなかったから楽しいです! ただちょっと慣れてないだけで……」
「へぇ……!ブチャラティくんはどこから来たの?」
「ネアポリスの近くのマレキアーロっていうところで……」
「港町か……! いいね。もしかして、漁師の息子だったりする?」
「どうしてわかったの!?」
何気ない質問にブチャラティは目を丸くする。驚いた拍子に敬語も忘れている。
本当は、彼の荷物であろうバッグに魚のストラップが付いていることと、彼の日に焼けた肌や、細身に見えるが意外に締まりのある身体から判断したことなのだが。
「やっぱり?」
「すごい……! 当てられたの、今日初めてだ」
「オレも魚好きだよ。漁師の息子ほど詳しくはないだろうけど」
「そうなの?」
「ローマの郊外に水族館があるんだ。中心地から遠くてこじんまりしてるから、人が少なくて穴場でよく行く」
「へぇ……!」
実はアバッキオは別に海にも魚にも興味はなかった。しかし郊外の水族館が穴場なのは確かで、よく女を連れてデートにいった。有名なデートスポットではないから、前の女と出くわすこともないし、暗がりは手っ取り早くロマンチックな気分にさせるのに役に立つ。
そういう意味で、詳しいだけだ。
小一時間で、アバッキオはブチャラティのさまざまな背景を聞き出すことができた。
彼が海沿いの田舎出身で、漁師の父親と二人で暮らしていたこと。海と魚が好きで、海洋研究ができるローマ大学の理学部に入ったこと。男手ひとつで育ててくれた父に迷惑をかけたくないので、学費と生活費は自分で稼ぐつもりだということ。
ただ話を聞くようでいて反応を示す話題を広げていくと、ブチャラティはよく喋った。喋ると喉が渇くのだろう。話が滞らないように気遣うフリをして、アバッキオは何度もブチャラティのグラスに酒を注ぐ。
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───そうして会がお開きになる頃には、ブチャラティはアバッキオの肩に体を預けないと立てないほどになっていた。
「二次会に行くやつはオレに着いてきなー!」
店の前で大声を張り上げるミスタを横目に、アバッキオはブチャラティと共に一団から離れていく。
「ブチャラティ、大丈夫か?」
「う、うーん…………」
「家はどこだ? 送っていく」
「ガエタ通り……64のB……」
ガエタ通りはここから地下鉄で15分ほど。
今なら終電にも間に合うだろう。
「アバッキオ先輩……迷惑かけちゃってごめんなさい……」
「いいんだ、無理するな」
苦しげに謝るブチャラティに、優しい言葉をかける。
(別に謝る必要はない)
アバッキオは内心でほくそ笑む。
そう仕向けたのは他でもない、アバッキオ自身なのだから。