最後に鉛玉の音が一発。そして部屋の中は静かになった。
「……ブチャラティ」
アバッキオが傍らの男に声をかける。ブチャラティの顔にはまばらに血の跡が飛んでおり、いつもシミひとつない白いスーツには赤い色が点々と落ちている。
「ブチャラティ、大丈夫か」
「問題ない ……これはほとんど俺の血じゃあない」
最初の呼びかけに応じなかった彼にもういちど呼びかけると、低い声で返ってくる。
たしかに、彼についた血の大半は先ほどまで相手をしていた男たちのものだ。アバッキオもそれはわかっていたから、「大丈夫か」と尋ねたのはそのためではなかった。
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今日の任務は難しいものではないはずだった。
パッショーネのシマで勝手に薬をサバいているチンピラがいる……ポルポから話をもってきたブチャラティは、腕っぷしに自信のあるアバッキオを連れて、その足でアジトと目されるネアポリス郊外の廃墟に来たのだった。
嗅ぎつけられたと分かっていたのだろう。チンピラどもは、人質をとって立てこもっていた。人質は何の変哲もない街のガキ。パッショーネ構成員の親族ですらなかった。ギャング相手にこんなことをして一体なんの意味があるのかとアバッキオは訝しんだ。
しかし、この作戦はブチャラティには効き目があった。人質のこめかみに銃口が押し付けられた瞬間、ブチャラティはほんの一瞬……怯んだ。
———その瞬間を、敵は見逃さなかった。
先ほどまでされるがままに拳銃を頭に突きつけられていたガキが、瞳孔をカッ開いて、背中から拳銃を取り出したのだ。
(人質のガキもグルだ……!)
アバッキオの方が、拳銃を抜く少年の動きに早く気づいた。
体中の血管にアドレナリンが駆けめぐる。
少年が拳銃を取り出したのとほぼ同時——奔走する思考の中で、アバッキオもまた銃を取り出した。
「ブチャラティッ!!あぶねぇッ!!」
少年の銃の軌道の先にいたブチャラティを咄嗟に突き飛ばし、倒れた上体でアバッキオは引き金を引いた———
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「12、3歳ってとこか……」
ナランチャよりもずっと幼い顔立ち。アバッキオの腰あたりにも届かない身長。そして、左胸をまっすぐに貫いた穴がひとつ……
先刻アバッキオが放った弾は、寸分の狂いなく少年の左胸を貫通していた。ほぼ同時に少年の銃から放たれた銃弾は、倒れ込むアバッキオの肩の上を通り、背後のコンクリ壁に穴を開けた。
アバッキオが少年の異変にいち早く気づかなければ、風穴を開けられていたのはブチャラティの体だっただろう。
(油断していた……)
中学校も出ていないだろう幼い子どもが危険な目に遭っているのを見て、わずかに冷静さを失った。……その子どももグルで、命を狙ってくるなんて考えもしなかった。ブチャラティは横たわる小さな体躯を見つめながら、奥歯をきつく噛み締めた。
「ブチャラティ、大丈夫か」
あたりを見回り、もう仲間はいないことを確認したアバッキオが声をかけてきた。
「問題ない ……これはほとんど俺の血じゃあない」
服や顔にかかった血は、アバッキオが少年を撃った後、ブチャラティがほかの敵をシメた時のものだ。
アバッキオの機転のおかげで、ふたりともほとんど無傷で済んだ。痛むのは、敵を殴った拳と倒れ込んだ時に床に打ちつけた左肩だけだった。
アバッキオが心配していることは自分の心情についてだとわかっていたが、ブチャラティはあえて答えなかった。
……いや、答えられなかったのだ。
目の前で年端もいかない子どもが死んでしまったこと、アバッキオにその引き金を引かせてしまったこと。不甲斐なさに、返す言葉が見つからなかった。
「……すまない」
生きているものが2人しかいない廃屋の中、ブチャラティの沈んだ声は口に出した時より大きくなって反響した。発した声が、憐憫に満ちていることに気づきブチャラティは苦笑する。
アバッキオは俯くブチャラティの横顔を、じっと見つめていた。しかし、何を思ったのかおもむろに右手を伸ばし、ブチャラティの頭を引き寄せ、キスをした。突然襲ってきた唇に驚いて、ブチャラティは目を見開く。
(今、なぜ?)
アバッキオはそのままブチャラティの舌に自分の舌を混ぜた。困惑するブチャラティの舌を誘い、熱い舌使いでキスをする。あまりに性急に唇を重ねたから、ブチャラティの唇の端が切れたようだ。
血の味のするキスだった。
咥内に広がる鉄の匂いもお構いなしに、アバッキオはブチャラティの舌を絡め取り、ざらつく長い舌でぬるりと口蓋を撫ぜる。
「ん……んんっ」
アバッキオの長い舌に翻弄されて胸が苦しい。
血塗られた体と死体まみれの廃墟の中で、それすらも忘れさせるほど、アバッキオのキスは火傷するほどの熱をブチャラティに分け与えた。
ブチャラティの目尻を一筋の雫が流れる。
すすり泣く声は塞がれた口の中に飲み込まれてしまった。
一度タガが外れると止めどなく溢れてきて、ブチャラティの両頬はぐっしょりと濡れてしまう。
涙を流しながら、ブチャラティはよかった、と思った。息も止まるほど熱いキスによって、生理的な涙のふりをして、ブチャラティはぽろぽろと泣いた。
(涙の本当のわけは、言いたくない)
口が塞がれていることは、今のブチャラティにはありがたかった。
角度を変え、また深く絡め合う。
互いのまつ毛さえ触れてしまうような近さだった。
ブチャラティは、言い訳のキスを与えてくれるこの男の優しさが悲しかった。
この優しい男の運命の糸を、クズみたいな自分の運命の糸と絡めてしまったことを悔いてもいた。
ふたつの糸はもつれて絡まり、もうブチャラティの指では解くことができない。
絡み合った糸のようなふたり。解くためにはふたり共々、ハサミで切ってしまうほかないのだろう。
ネアポリスの片隅の、薄汚れた廃墟。
ブチャラティはアバッキオを抱き寄せながら、この優しい男の運命が、いつか自分と共に断たれてしまうのではないかと考えていた。
自分ひとりなら、とうに覚悟ができている。
でもアバッキオを失ってしまったら、ブチャラティは一体その先どうやって生きていくことができるだろう。きっとその時がきたら、ブチャラティの魂もちぎれて元には戻らない。
濁流のように押し寄せる悲しみを誤魔化すために、ふたりは何度も口付けた。
月の光も届かない暗闇の中、ふたつの影だけが熱く息をしていた。