いなくなった慕情 家の中が、やけに静かだ。
日曜の朝、目を覚ました風信はむくりと体を起こした。
隣に慕情がいないのは珍しくない。たいてい彼のほうが早起きだ。だが、耳をすませても、何の物音もせず、人の気配が感じられない。
風信はジーンズを履きながら、寝室から顔を出した。やはり、しんと静まり返っている。
まあ、買い物かなにかに出かけているのだろう。特に気に留めず、風信は冷蔵庫から出した牛乳を口に流し込んだ。
だが、昼を過ぎて、夕方になり、陽が沈んでも慕情は帰ってこなかった。
メッセージを送るが、既読の表示はつかない。
今日は何か予定があっただろうか。部屋にかけてあるカレンダーを見るが、二人ともあまり書き込まないし、冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードには、買い足すもののメモが残っているだけだ。
夕飯を齧りなら、スマホに手を伸ばす。数回タップして耳に当てる。
『……ただいま電話に出ることができません』
お決まりのメッセージが流れ、留守電に切り替わったところで風信は切った。
予定を聞いていたのに忘れて電話したと知れたら、嫌な顔をされるに決まっている。
愚痴や小言が混ざりがちな慕情の言葉を聞き流すのが癖になっているのだ。たぶん何か聞いていたが忘れているんだろう。そう思いながら一人ベッドに入ったが、どこか胸がざわざわしてなかなか寝付けなかった。
次の日、仕事から帰ってきても、部屋はやはり真っ暗で静まり返っていた。
朝と昼に何回か送ったメッセージにもやはり反応はない。警察、という言葉が頭によぎる。少し迷ったあと慕情のメールアドレスにメールを送る。
『慕情? いまどこにいる?』
そしてふと思い立ち、物置にしている棚へ向かい、扉を開ける。
慕情の大きなスーツケースがない。
そうか、旅行の予定を忘れていただろうか。頭を掻きながら記憶を辿っていた風信の手が止まった。
風信は踵を返し、寝室へ向かった。
慕情のクローゼットの取っ手に手をかけたところで躊躇する。勝手に開けたとバレたら数日は口をきいてもらえない。だが、風信は胸が速く打つのを感じながら、意を決して静かに開けた。
そこは、がらんとしていた。無駄なものを持たない慕情だが、数日の旅行用に数着抜けているだけでないことは一目瞭然だった。
すっと胸が冷えていくのと同時に、数日前、最後に慕情といた日のことを思い出した。
発端は思い出せないくらい些細な、いつもの喧嘩だった。だがその日は殊更に二人とも虫のいどころが悪かった。
そんなに一緒にいるのが嫌なら出て行け、そう言い放った風信の言葉に慕情は、何故かその日は、お前が出て行けと言い返すこともなく、ただそっぽを向いて慕情が自室にしている部屋の扉をバタンと閉じた。風信も取りなす気などさらさらなく、そのままシャワーを浴びて一人ベッドに入った。そのあと慕情がどうしたのか知らない。
ポケットからスマホを取り出し、しばらく弄んだあと、もう一通メールを送る。
『はやくもどってこい』
するとしばらくして着信通知が鳴った。慕情だ。ドキドキしながらそっとメールを開ける。返信は一文だけだった。
『しばらく帰らない』
とりあえず無事らしいと安堵するものの、どしりと岩を投げ込まれたように胸が沈む。返信マークをタップするが、指は画面の上で止まってしまった。
画面が暗くなったスマホをテーブルに置く。慕情のことだ。もし本当に出て行ったのなら、風信が何を言おうと嫌なら帰って来ないだろう。
次の日もやはり慕情は帰って来なかった。
まぁいい、と風信は気持ちを切り替えることにした。いないならいないで、気楽というものだ。
料理は慕情がいた時もたまにやっていたのでそれほど困らない。そうだ、せっかく一人なのだ、気ままにやってやろうと、茹でた麺を鍋のままテーブルに持って行き、鍋から啜る。だが、やれ味が濃いだのなんだの言う奴がいないとどこか調子が狂う。
洗濯なんて溜まったらでいいだろう。掃除も。帰ってきて靴のままベッドに倒れ込む。
だが、存分に羽を伸ばすつもりでウキウキと過ごしたのも数日だった。
いつもは大柄な男性二人で狭苦しいほどの部屋が、やけに空間を感じる。慕情がいても、ともすると気配のなさに驚かされることもたびたびなのに、いないとこんなに「いない」ことを感じるとは。それに、言い争いする相手がいないと手持ち無沙汰だ。
「あ」
ぼんやりソファに横になっていた風信は視線の先で靴下の爪先から指が覗いていることに気づいた。靴下を脱いで、ゴミ箱に入れようとしたところで手が止まった。
『捨てるな、もったいない』
慕情の声が頭によぎる。風信が穴の空いた靴下をすぐに捨てると、不機嫌そうな顔をしながらゴミ箱から拾ったものだ。そして穴があったとはわからないくらい綺麗に繕われて、クローゼットに戻ってくるのだった。
「……やってみるか」
ぽつりと呟いた。慕情にできるなら、自分でもできるはずだ。
やると決めたら行動が早い自覚はある。次の日、風信は適当な裁縫セットを買ってきた。靴下の繕い方を動画サイトで検索する。
「くそっ、難しいな……」
動画は開始数秒の所で止まっている。まず、針に糸を通す、それだけがこんなに大変な作業だとは。
針に糸を通すだけに数十分。なんとか不格好ながら穴がふさがったときには、空が明るみかけていた。
「慕情、お前、さりげなく凄いな……」
呟いた声に、ふんと笑う慕情の顔が見えたような気がした。靴下の穴は塞がったのに、胸の中に空いた穴はそのままだった。
「さむっ……」
その朝、目をさました風信は思わずベッドの中で呟いた。
起きたときのベッドの冷たさと寂しさには慣れたつもりだったが、今日のは違う。意を決してベッドから這い出る。窓から忍び込む部屋の空気は、一歩冬に近づいたことを意味していた。
羽織るものを出そうとクローゼットを開け、上のほうの箱を取り出す。蓋を開けたところで手が止まる。箱の半分、慕情のセーターが入っていたところはぽっかり空いていた。溜息がもれる。
コートを着て出勤のために外に出ると、冷たい風が風信を嘲笑うように吹き抜ける。
風信の気持ちなどお構いなく、季節はうつりかわっていくのだ。
夜、仕事から帰ってくると、暗い部屋はひんやりとした空気で満ちていた。リモコンを探し出してエアコンをつけるが、すぐには温まらない。肩にブランケットを羽織り、身を縮める。夕食の買い物を忘れたことに気づいたが、外にもう一度出る気には到底ならない。すべてが億劫な気持ちでピザを注文する。
しばらくして玄関のブザーが鳴った。のろのろと玄関口へ向かい、ドアを開ける。「どうも……」
だが、目の前の姿に風信は固まった。肩からブランケットが落ちる。
「……慕情?」
「ああ」目の前の姿がぶっきらぼうに答える。
「慕情?!」
「ああそうだが、なんなんだいったい。疲れてるんだ、さっさと入れろ」
思わずよろめいた風信の横で、慕情は重そうなトランクを引きずりながら玄関に体をねじ込む。
「慕情……おまえ、もう帰って来ないのかと思ったぞ!」
目を潤ませる風信の顔に、慕情は呆れたように白眼をむいた。
「はあ? なにを大げさな。たった一週間の海外出張だぞ」
慕情はトランクを玄関に残してすたすたと部屋に入っていく。
「海外出張……?」
風信は急いで慕情の後を追う。「そ、そんなの聞いてないぞ」
「はあ? 言ってあったはずだが」
「いつ」「さあ、たぶん半年くらい前か?」
「そんな前に聞いて覚えてるわけないだろ!」
だんだんと風信もいつもの感覚が戻ってくる。「メッセージも返ってこないし」イライラと毒づく。
慕情はソファに身を投げると「向こうではプライベートのはオフにしてた。メールはパソコンで見れるしな」と言って、ポケットからスマホを出し、電源をいれる。ほどなくしてその手の中でスマホが賑やかに震え、慕情の目が細くなっていく。
「お前……」
「だって、しょうがないだろう! 心配したんだぞ!」
慕情は呆れたように目をぐるりと回し、スマホをソファの隅に放った。
「なんで私が出ていったと思ったんだ」
「だって……ほら、服……冬服までなくなってるし」
「ヨーロッパの北の方だったからな」そう言うと慕情は寒そうに二の腕を擦る。
「それにしても、帰ってきたらこっちも寒くなってるな」
風信は脱力したようにカーペットに座りこむ。だが、ふたたび玄関のブザーが鳴り、やれやれと立ち上がる。
「ピザ?」戻ってきた風信の手元を見て慕情が眉をひそめる。
「さてはお前、私がいない間、ズボラしてたな」
「違う!」風信が頬を赤らめる。「ちゃんと料理もしてたって! 今日は疲れたから」
どうだか、と眉を上げた慕情は「ああそうだ」とがばっと体を起こし、置いてあった鞄から小さな箱を取り出し風信に放った。風信は驚きながらキャッチする。
「なんだ?」
「空港で余った小銭を使うために買った。欲しかったらやる」
風信が箱を開けると、そこには、透き通ったオレンジ色の小さなピアスが並んでいた。
「琥珀だ。あのあたりの名産らしい」
風信は一つを外し、指先でつまんでまじまじと見つめた。複雑な模様を中に刻むガラスのような丸いオレンジ色を、金の装飾がくるりと囲んでいる。小さいが、小銭で買えるようなものではないことは風信にもわかる。
「もらっていいのか?」
「ああ。お前なら似合いそうな気がしたし」
ぷいと顔を背ける慕情を風信は見つめた。
「うあッ」ソファの自分の隣に飛び込んできた風信を、慕情が驚いた顔でよける。
「つけてくれ」風信が慕情の前に箱を差し出す。
「なんで……今日はもうどこにも行かないだろ」と慕情が怪訝な顔をする。
風信はふんと笑う。
「俺がつけたとこ、いま見たくないのか?」
慕情は口を尖らせ目を逸らしていたが、風信が動こうとしないのを見て、諦めたように箱からピアスを取り出した。風信は顔を傾け耳を差し出す。慕情の冷たい指先がそっと風信の耳たぶに触れる。続けてもう片方。
「ん。やっぱり私の見立ては間違いないな」
慕情の顔に得意げな笑みが浮かぶ。風信も耳に手をやって微笑む。
無言のまま二人は見つめ合った。そして、引き込まれるように唇が重なり合う。
一週間の隙間を埋め戻すように、互いの舌を、呼吸を、絡め合う。
「寂しかった」風信の口から声が漏れる。
「信じがたいが——」慕情の唇が風信の上唇を掴み、ちゅっと離す。「私もだ」
二人の口はまた言葉を手放し、熱い息遣いだけが部屋に響く。二人の体重でソファが軋む音が加わるまでにはそれほどかからなかった。
しんと冷える部屋のエアコンは冷房表示になっていたが、二人が気づくことはなかった。