「風信様ですね。お荷物はこちらお一つでしょうか?」
「は、はいっ……」
グラウンドスタッフに頓狂な声で答えてしまい、風信は思わず咳払いでごまかした。
何も悪いことなどしていないのに、なぜ空港カウンターでこんな犯罪者のようにどぎまぎしないといけないのだ。見ないようにしないようにしようとすればするほど目に入ってくるロゴから目を逸らす。いつもの南陽航空のロゴではなく目の前にあるのは——ライバルたる玄真航空のロゴ。
ツイていなかったとしか言いようがない。休暇先から急に呼び出されたものの、この休暇シーズン、直前で空いている便などない。同僚に頼み込んでみたものの、どうあがいても、南陽航空も他の航空会社も空きはなかった。ただひとつ奇跡的に空いていたのが、なぜか玄真航空だったというわけだ。
私服なのだし誰も気づかないだろうとわかっていながらも、できればライバル社のスタッフとの接触は避けたい。だが、今日に限って手荷物を預ける機械も故障しているときた。ツイていない。
便は定刻きっちりに出発した。玄真航空といえば、定時運行のランキングでは常に上位に入る航空会社。だが、定刻どおり運行をするだけが能じゃない。硬い表情の風信を乗せて、飛行機は滑らかに離陸した。
深く息を吐く。
大丈夫、まさかアイツの便なわけはあるまい。
玄真航空にはごまんとパイロットがいるのだ。たまたま自分が乗ることになった便のパイロットがアイツだなんてそんな偶然あってたまるか。
教科書通りに高度を上げ、すぐに消えたベルトサインを見ながら腕組みする。ほどなくしてアナウンスが入った。思わずごくりと唾を飲み込む。
『本日はご搭乗ありがとうございます——』雑音混じりながら、その声はどこか凛とした冷たさがあり——
『——機長は慕情、副操縦士は……』
くそっ……!
思わず小声で悪態をつく風信を、隣の客がちらりと見た。
何故だ、何故そうなるんだ……!
直前にとったから、当然慕情だってこの便を選んだわけではない。
もう一度大きく深呼吸する。いや、慕情も気づいていないかもしれない。乗客名簿だって、満席の大型機、一人ひとりの名前まで確認しまい。そう言い聞かせる。
寝るなり本を読むなりしていればいいものを、一度窓の外を見ると空の様子が気になってくる。客室の小さな窓に顔を付けるように外を伺っていると前方に不穏な感じの雲が見えた。カバンからいそいそと業務用のタブレットを出して雲の様子を見てみる。口元が無意識にニヤリと歪む。
前方にめんどくさそうな雲があるぞ、さぁどうする慕情。
だが驚くべきことに、そのあたりの空域に来たところで、前方の雲がぱっかりと割れた。まるで飛行機に道を開けたかのように。体感からして高度を変えてはいないはずだ。
いったい何故……風信はタブレットをじっと凝視した。進路方向の雲が綺麗に姿を消していく様子は──なんだか無性に腹が立つ。
慕情、あいつには恐ろしい神でもついているのか?
不機嫌な顔で歯噛みしていると、声をかけられていることに気付いた。
「お客様、お飲み物は何になさいますか?」
通路から客室乗務員が風信を見つめている。
「あー……何かおすすめは?」
「玄真航空特製のお茶はいかがでしょうか?」
「じゃあそれで」
どうも、と微笑みながらカップを受け取るが、客室乗務員は美しくもどこか人工的な笑みを向けただけで次の客へ行った。
風信は他の客室乗務員も眺めた。
皆、スマートに無駄のない所作でサービスをしているが、どこかピリリとした冷たさがある。この感じは何処かで……と考えるまでもなく思い当たった。──慕情だ。
玄真航空はみんな揃って慕情なのか? 思わず軽く鳥肌が立ち、身を縮める。手元の温かいカップを口に運ぶ。確かに旨い。茶が旨い航空会社なんて珍しいが。
飛行機はそのまま、順調に快適な飛行を続けた。
自分はいま、慕情が操縦する飛行機に乗っている──それは風信を不思議な気分にさせた。操縦席に並ぶことは叶わないが、同じ飛行機で一緒に飛んでいる。
ほどなく到着するとのアナウンスが入る。風信は気象状況を見てみた。晴れているが横風がある。困難を極めるほどではないが、嬉しくない程度に。
風信はシートベルトを閉め、座席に身を預ける。ハードランディングしたら、後で言ってやろうか。
だが飛行機は滑らかに高度を下げていき、そして──これ以上ないほどソフトに着陸した。自分が操縦するとき並みに全神経を集中させていた風信をして、いつタイヤが接地したのか分からなかったほどに。
アスファルトすら滑らかになったのではないかと疑うほどスムーズに地上を走行していく機内で、風信は目をつぶって上を仰ぎ見た。
認めよう。慕情、お前はやっぱり優秀だ。
何やら無駄な敗北感とともによろよろと降機する。手荷物受け取りでぼんやりと立っていると突然後ろから声がした。
「これはこれは南陽航空のパイロットじゃないか」
その声に風信はぐっと歯を噛み締める。
荷物を待つ玄真航空の便の客たちの視線を感じる。
「慕情……!」
「どうしたんだ? ウチの便に乗るなんて」
横で面白そうに腕を組む姿を睨む。
「空いてるのがお前のとこしかなかったんだ! うちは生憎人気だからな」
風信が言うと慕情はフンと肩をすくめる。
「なんで俺が乗っているとわかった」風信が聞くと慕情の唇が面白そうに持ち上がる。
「茶を持ってきた客室乗務員が、南陽航空のマークがついたタブレットでレーダー画面を食い入るように見ている長身の客がいると教えてくれたから、まさかと思って乗客名簿を確認してみた」
慕情の言葉とともに風信の頬が赤くなっていく。
「快適なフライトを堪能いただけたかな?」
「……」無言で聞こえないふりをする風信に気をよくしたように、慕情がにやにやと笑う。
「まぁお前がウチの便に乗ることなんて稀少だろうからな、記念品をやろう」
そう言うと慕情は風信のシャツの胸ポケットにすっと何かを入れ、ぽんと風信の肩を叩くと、颯爽と去って行った。
風信は眉間に皺を寄せたままポケットに指を入れた。出てきたのは丸いステッカーだ。飛行機のイラストと玄真航空のマークが入っている。ひっくり返してみると、そこには慕情の字が書いてあった。
『いつかお前の便にも乗せろ』
風信はそれをポケットに戻した。
ふん、嵐の時にでも来やがれ。
どんな困難なシチュエーションでも揺るがないテクニックを体感させてやる。口元に不敵な笑みが浮かぶ。
流れて来たスーツケースをむんずと掴み、謎の決意に満ちた足取りで出口へ向かった。