第58回キスブラワンドロライサブスタンスの残した影響は恐らくあと数日程度で消えるだろう。
脅威が去ったニューミリオン郊外の山には、白く輝く雪が降り積もったままだ。
もともと観光用に設置されていたゴンドラには、多くの市民の列ができている。
この機会を商売のチャンスだと考えた商魂たくましい者たちは、山の頂上や麓に露店を並べ、雪山観光やウィンタースポーツを楽しむ客を相手にちょっとした賑わいを見せていた。
「まったく………」
パトロールを兼ね雪山を訪れたブラッドは、苦言を呈しながらもその口元は緩やかな孤を描いている。
スキーウェアを模したヒーロースーツを身に纏い、スキー板を片手にゴンドラの列に並ぶ。
すると前方に見慣れた猫背を発見した。
寒そうに背を丸めスノーボードを片手にキョロキョロと辺りを見回している。その姿に嘆息し声を掛けずにはいられないと列を離れた。
「キース」
「おぁっ!」
声を掛けられるだろうとは思っていなかったキースは、ビクリと体を大きく揺らす。もたれ掛かっていたスノーボードが手から離れ、ブラッドはまるで予測していたかのようにそれを受け止めた。
「こんな場所で何をしている……」
「あ~~……俺は今日は休みだ。何をしていようが俺の勝手だろ~」
「………」
「…………ちっ」
詰問するブラッドの眼光は鋭く、キースは逃れられないと感じたのか舌打ちした後で言い訳を始めた。
「雪山の頂上の小屋で振る舞ってる、っていう珍しい酒を呑もうと思ってよ~。お前はそんな重装備でどうした? スキーを楽しみに来たのか? そんな趣味があるなんて知らなか………」
「馬鹿者!! 俺はパトロールだ」
ブラッドの大声に列に並んでいた人々が二人を振り返る。するとキースが慌ててブラッドの腕を引き、その場から離れようとする。
「俺は任務がある………」
キースの腕を振りほどき、ゴンドラの最後尾に並ぼうと片手に持ったままのスノーボードをキースの胸に押し付けた。
慣れない雪上でも足取り軽くスタスタと先を行くブラッドを、よろよろと危なげな足取りで追いかける。
「ちょ、まてって……うぁっ」
「………………」
滑って転びそうになるのをボードを支えになんとか体勢を整えるへっぴり腰のキースに、ブラッドは大きなため息を吐く。
「貴様……そのような様子でスノーボードなどできるのか?」
「ん~~? できねーよ」
首を傾げ当然のように答えるキース。ならばなぜそんな恰好で列に並んでいるのか?
帰りもゴンドラに乗って下山すればいいだけの事だ。そう問いかけると「運賃が馬鹿になんねー」と即答された。
「お前こそどうなんだよ~」
ブラッドの転倒する情けない姿を想像し、ニヤニヤと口元を緩めながら覗き込むキースに、ブラッドは苛立ちが増した。
「俺は国際ライセンスを取得している」
「………あ~~。お坊ちゃまだもんな、おまえ」
当然のように答えるブラッドにキースは面白くなさそうに唇を尖らせた。
「ところで………スノーボードができないお前はどうやって下山するつもりなのだ?」
「そりゃ、板にさえ乗れば、あとはちょちょいと……」
「……………………」
「流石に上るのは不自然だろうと、仕方ねーから高っかい金払ってゴンドラに……」
「……この、大馬鹿者がっっ!!」
最後まで言わせずブラッドはキースの頭にげんこつを落とす。
「いっ……てぇ~。なにすんだよ!」
「貴様、ヒーロー能力をこのような私的なことに使うなど……言語道断」
怒りに双眸を燃やすブラッドの般若の様な顔に、キースはひぇっ、っと肩を竦めニット帽を目深に被り、二発目の怒声と拳に備えた。
だがいつまで経っても次は訪れない。恐る恐る毛糸の隙間からブラッドを覗き見ると、思案するブラッドの表情が伺えた。
「あの~…ブラッドさん?」
「よし。俺がお前に教えてやろうではないか………」
「えっと……なにを? でしょうかね~?」
「スキーに決まっているだろう。今後、雪山での任務がないとも限らない。この機会に会得しておくのがいい。フェイスもなかなかの腕前だし、ディノは当然滑れるであろう。ジュニアはわからないが恐らく問題ないだろう」
「…………」
「何が不満だ? あぁ、安心しろ、俺はインストラクターの資格も有している」
不満なんて大ありだ。と返したいが、やる気が漲っているブラッドに水を差す勇気はない。
キースは全てを諦めガクリと肩を落とし、今日の休暇はブラッドという鬼教官の特訓を受ける覚悟を決める。
「スキーとスノーボード。どちらを覚えるかは選ばせてやろう」
「パトロールはどうすんだよ~~」
最後の足掻きとばかりにキースはブラッドに問いかける。
「問題ない。人が多い場所を巡回するだけだ。お前と同じ様に滑れない市民は、ゴンドラで山頂付近に、初心者は緩やかな斜面付近に集まっている。指導しながらで問題はない」
「へぇへぇ………よろしく、おねがいしますぅ~」
キースはスノーボードを受け取り、ブラッドと同じスキーに交換してもらえるようレンタル小屋に向かう。その後ろを逃がさないとばかりに見張りについてくるブラッドが、ふと口元を和らげた。
「日没までに形になれば、最後にゴンドラで山頂に行き、お前が楽しみにしている酒に付き合ってもいいぞ」
「…………?!」
「休日にトレーニングをさせる詫びだ。俺が奢ろう………」
「ま、まぢ?」
「あぁ、本当だ。今日はゴンドラの営業終了をもって直帰の予定となっている。最後のゴンドラに乗れれば、任務はほとんど終了となるからな」
「さすがブラッド♪ 話がわかるじゃねーかよ」
「だが、お前が能力に頼らず自力で滑走できるのが条件だぞ」
「わ~ってるって。さ、そうと決まればさっさと始めようぜ~」
店頭で取り替えてもらったスキー板を担ぎ、人の少ない場所に頼りない足取りで向かうキース。
一緒にシュプールを描ける日はまだ先になりそうだが、任務にしては楽しい一日になりそうだと自然と表情が和らいでしまうのを止めることができないブラッドだった。
END