春宵一刻値千金「流石にまだ、朝方は冷えるな……」
隣で眠るキースを起こさないようにベッドから抜け出したブラッドは、床に落ちたシャツを拾い羽織ると、足音を忍ばせ窓際まで移動する。裸足のままぺたぺたと歩き、カーテンの隙間からそっと外を覗くと、薄っすらと空が白んできてはいるが、夜明けにはまだ早い。
昨夜の濃密な時間を内包した部屋の空気を入れ替えたくて、窓に手を伸ばした瞬間――ふらりとよろけたブラッドは、体を走り抜けた痛みに息を呑み込んだ。
「………ッ」
ゆっくりと息を吐き、体勢を整える。苦笑を浮かべ、出てきたばかりのベッドの方に視線を向けた。
「少しは手加減してほしいのだがな……」
久しぶりの逢瀬に、嵌めをはずしたのはお互い様だ。だから口をついて出た不満も、どこか甘い音を含ませていた。
***
休日にもかかわらずブラッドは会議に駆り出されていた。それが急遽キャンセルになったため、憮然とした表情で会議室を後にし、ブラッドはち今、部屋へと向かう廊下を歩いているところだ。
勝手にスケジュールを入れたのも先方なら、キャンセルしてきたのもあちらの方だ。忙しい合間に時間を確保したブラッドは、流石に勝手な上層部に憤りを覚えた。
それと言うのも、今日は恋人であるキースと、デートを予定していたからである。
「…………まったく」
口から漏れる不満がその表れだ。会議が急になくなったからといって『暇ができたから、遊びに行こう!』などと、気楽に誘えるブラッドではない。
それでも、せっかくできた時間だからキースを誘いたい。
でも仕事とは言え、自分からキャンセルしておいて都合が良すぎるのではないか?
会いたい気持ちがどんどん募り、よけいに苛立ちを覚えるブラッドだった。
スマホに手を伸ばしては、止める動作を何度か繰り返し、何度目になるかわからないため息を吐いたその時――
「よぉ〜、ブラッド!」
廊下の反対側からキースが現れ、しゃがれ声でブラッドを呼んだ。遠目にもわかる格好の酷さに、ブラッドの眉間に縦皺が寄る。
「会議はどうした~?」
「…………………中止になった」
目の前まで近づいたキースは、部屋着姿で髪はボサボサ。だらしないことこの上ない格好だ。ほのかに残るアルコール臭に目尻を釣り上げたブラッドを見て、キースは肩を竦める。
「…………ご機嫌ナナメだなぁ」
ムッとした顔で唇を尖らせ、感情を露わにするブラッドは、とても珍しい。からかう様な顔で目の前まで近づいてきたキースに、僅かに尖った唇の先を摘まれ、ブラッドはすぐにその手を払い除けた。
そんなブラッドの態度にも慣れているキースは、これくらいのことで腹を立てたりはしない。口角をわずかに持ち上げ、ブラッドと視線を合わせる。
「んで、急に時間ができたお前は、この後どうするつもりなんだ?」
「………………」
「まさか、トレーニングでもするつもり~、とかじゃねーよな?」
「…………悪いか」
キースに会いたい。
キースと一緒に出かけたい。
などと我儘を簡単に言えるブラッドではない。恋人に対してはつい天邪鬼になってしまうブラッドに、キースはとても出来た恋人だ。
「お前さ〜、時間ができたなら、遠慮せずオレに言えよ。元々約束してたんだし、キャンセルになったからってスケジュールが埋まるほど、オレはアクティブじゃねーよ」
知ってんだろ? と目を細めたキースが、くつくつと笑う。
素直に本心を言えないブラッドに変わって、キースはへりくだるような言い方をあえて使う。
「………だがそんな急に…………お前も、困るであろう?」
「酒飲み仲間の休日は、忙しいんだとよ~」
ゆっくり起きて、騒がしいウェストのメンバーがいない静かな朝を満喫して、その後のことはその時に考えようと思っていた。その矢先、肩を僅かに落としながら歩くブラッドを見つけたのだ、とキースは説明した。
「オレとデートしたくね〜の?」
「………………」
「したくねーなら、オレは買い物に……「したい!」」
キースが最後まで言葉を紡ぐ前にブラッドの声が重なる。
「お前と出かけたい! だが………………」
勢い込んで返事をしたはいいものの、やはり身勝手ではないか? キースの優しさに甘えていて良いのかと、ブラッドの視線はキースから逸らされる。
するとキースの手がブラッドの前髪をひと房摘む。鼻先にある指先からは、キース愛飲の煙草の匂いが漂ってくる。
「遠慮なんかクソくらえの関係だろ? オレたち」
「…………下品な言葉を、使うな」
「上品に言ったら、お前素直になるの?」
「……………………」
「ま、イジメすぎて逃げられたらたまんねーから、今回はオレが折れるとするか〜。ブラッド、着替えてこい」
自分も着替えてくると言って、キースはブラッドの前髪から指を離す。来た方向に向きをかえのんびりと歩き出した。
「デート。行こうぜ」
肩越しにヒラヒラと手を振り、待ち合わせは30分後にエントランス、とブラッドに告げた。
「デート…………」
遠ざかるキースの後ろ姿をじっと見つめながら、ブラッドは嬉しそうにはにかみ、タブレットを胸の前に抱える。まるで恋する乙女の姿であったが、幸いにも誰にも見られることはなかった。
街をぶらぶらと歩き、春の兆しを見せる公園で昼食をとった。
午後の日差しはポカポカと暖かいが、時折吹く風にはまだ冬の名残を感じる。二人は体が冷える前にと、ウェストにあるキースの家に避難することにした。
途中マーケットで見つけた立派なホワイトアスパラガスに、二人でにんまりと見つめ合い、すぐに今夜のメニューは決まった。
もちろんキッチンで腕を振るったのはキースである。
前菜にホワイトアスパラガスのソテーを。メインはアクアパッツァとくれば、ブラッドが見繕った手頃な値段の白ワインも、よく冷えて料理にとても合うものだった。
「素材がいいと……うん、なかなかのもんじゃねーか♪」
「ふむ……。素材もだが、キースの腕がいいからだと俺は思うがな」
「…………誉めたってこれ以上のもんは準備してねーぞ」
「事実だ…………。俺は世辞など言わん」
小気味いい会話がテーブルを挟んで応酬される。
ほろ酔いのブラッドは、ふとテーブルに置かれた一輪の花を見て、ふわりと口元を綻ばせた。
公園の花はまだ蕾の状態だった。それらが咲き乱れる頃には、イースターリーグで忙しくしていることだろう。だから花見がわりにと、街角で売られていた花を一輪だけ買って帰ってきたのだ。
一輪挿しの代わりが、ウィスキーの空き瓶なのがキースらしい。それに顔を近づければ、ほんのりと花の薫りがした。リビングの小さな窓から覗くのは、朧月――
「春宵一刻値千金…………か」
「んん?」
ブラッドの呟きを拾ったキースが、耳慣れない言葉に首を傾げる。
「春の夜は短く限られた時間であっても、大変素晴らしいものだと例える漢詩の一説だ」
「相変わらず、難しい言葉知ってるのな。ニホンだけじゃねーの?」
ただブラッドは、キースと過ごせた今日一日が、楽しく素晴らしいひとときだっただけに、終わってしまうのは寂しいと感じただけなのだ。
もう少し――あと少しだけ――
その短い時間を、最後に素晴らしいものに仕上げるために、あと一言。ブラッドから――
「まだ宵の口だ。さて、どうする? キース…………」
二人の晩餐は、日が沈む前から始まった。だからまだ宵の口。ブラッドは珍しく、自らキースをけしかけるような言葉を紡ぐ。
わかりやすい誘いではないけれど、キースならきっと――
「ふ~ん……。そんなこと言って……期待しちまうぞ?」
正しい答えを口にしたキースに、ブラッドは満面の笑みを浮かべ、コクリと首を縦に動かしたのだった。
***
昨晩の名残りが体に甘い痛みを与える、それすらも幸せなものだと、ブラッドはひっそりと笑みを深めた。早朝の空気はひんやりと冷えており、部屋と体にこもる熱を入れ替えたあと、すぐに窓は閉めた。
先ほど出てきたばかりのベッドに視線を送れば、キースは部屋に入り込んだ冷気から身を守るようにして縮こまっているが、いまだ夢の中にいるようだ。
「ん〜ん、むぅぅ……?」
言葉にならない声をあげ、ブラッドが寝ていた場所を手で探りながら、目的のものを探し当てることができずに、不満そうな声をあげている。
その姿を見つめるブラッドの表情が、先ほどよりもさらに緩んでいることに本人は気づかない。
「まったく……お前は大きな子供だな」
すぅすぅと寝息が聞こえ、キースが再び眠りに就いたのを確認し、ブラッドは窓の外へと視線を移す。
聳え立つ高層ビルの隙間から、太陽が顔を出す直前の、群青から紫がかる空の色がブラッドは好きだ。
「そういえば『春眠暁を覚えず』という言葉もあったな………」
心地よい眠りの中にいるキースを見つめ、ブラッドの瞳が柔らかい色を浮かべる。
考え方や価値観の違いから、二人は喧嘩になることも多い。それでも、自分にはない長所もたくさん持っていることを知っていて、だからこそ尊敬できる大切な恋人だ。
「ブラ…ッド……ぉ~…」
「なんだ? と聞いても貴様は夢の中だろう……」
深酒していない時のキースの眠りはとても浅い。キースが過酷な環境で独りで生きてきた名残りだろう。眠っている時でも警戒心を解くことがない。
それでもブラッドを抱えてベッドに入る夜は、穏やかでとても深い眠りにつけるようになったのだ。それを知っているのは、もちろん恋人であるブラッドだけだ。
「まだ起きるには早い……か」
抜け出したベッドに戻り、キースの横に身を滑り込ませる。
体を丸めて胎児のようなスタイルで眠るキースの体を引き寄せると、胸元に額を擦りつけ甘えてくる。
この瞬間が、なによりも愛おしい。
夜明けまで、あともう少しだけ——
キースの体温を感じながら、ブラッドも幸せな微睡みの中へ身をゆだねたのだった。
END