世界一の朝ごはんブラッド・ビームスの朝は、寝起きの空腹を刺激する香りから始まる―とても幸せな目覚めだ。
今朝はコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、朝食は洋食だと知る。これが出汁の香りが漂う朝ならば和食だ。
最近、朝食が和食か洋食かどちらになるか想像できるようになってしまったのだが、その理由を語るのは少しだけ恥ずかしい。
「今日は……予想が外れたな」
和食だと思っていたのだがと、小首を傾げる仕種は寝起きのせいもあり少々無防備だ。だが、こんなブラッドの表情を見ることができるのは、一緒に暮らしているキースだけなのだから引き締める必要はどこにもない。
ふわふわのブランケットに顔を埋めれば、二人分の混じり合った匂いが香り、いつまでもぬくぬくと埋もれていたくなる。
こんな穏やかな朝は、堅物だと言われるブラッドであっても、ベッドの中で惰眠を貪りたくなるというものだ。
それでもベッドルームに漂ってくる匂いの源を思えば、自然と口元が緩み起き出してしまうのだから不思議だ。
勤務日は必ずと言っていいほど、キースはブラッドよりも先に起きベッドルームのドアを開けたまま朝食の支度をする。香りに誘われたブラッドがキッチンに顔を出すと「おはようさん」と声をかけてくれるのだ。だからブラッドも「おはよう」と微笑みながら挨拶を返す。
こんな幸せな朝を迎えることができる喜びを、ブラッドはキースと暮らすようになって初めて知った。この家の中ではブラッドの表情はとても豊かで、タワーにいる人物と同じとは思えない。
それはキースも同様で、職務中の怠惰で自堕落な姿は鳴りを潜め、炊事に洗濯と忙しなく家事に明け暮れている。細々と動き回り二人で暮らす家を整えるのを厭う姿を、ブラッドは一度も見たことがなかった。
時にはハメを外して酒を呑みすぎ二日酔いになることもあるが、それもブラッドが許容できる範疇で、むしろたまには昔の様に手間を掛けさせてもらいたいと思うことがある程だった。
二人で暮らし始めた当初は、それぞれが役割分担を持って生活するべきだとブラッドは主張したものだが、それはキースに止められた。
『家の中でまで、堅苦しいルールで雁字搦めになんのはやめよーぜ』
『手間のかかる家事は二人で分担すれば、仕事や趣味に回せる時間が増えるだろう?』
『ったく……効率的に生活しようなんて考えんなよ。とにかく、オレは嫌だね』
『だが俺たちは二人共ヒーローで、かつメンターという責任ある立場にいる。任務や研修など家を空けることも多い。特に俺は家を空けている時間も長くなるから、キースの負担が増えてしまうぞ』
メンターリーダーのブラッドは、どうしてもキースよりも朝も早く夜も遅い。自然とキースばかりに家の事で負担を掛けてしまうのはわかりきっていた。
『お前だけに負担を掛ける様な事は……したくない』
同棲することを再検討するべきかブラッドが考え始める前に、キースは大きく息を吐き出し、ブラッドの前髪をさらりと撫で上げる。
『負担だなんて思わねーよ。一人の時もしてきた事だし、お前の為に手間暇かけんのも楽しそうだ』
『………手間をかけさせるようなことは…………』
『だーかーらー。そんな顔すんなって! オレはやりたいことしかしねーし、そんな無理もしねーぞ。始めて見なきゃわかんねーだろ。臨機応変に気楽にいこうぜ~』
『……わかった。俺も自分にできることを探してみよう』
これから二人で暮らしていくのだ。何事も一緒に考えていくのが礼儀だと気持ちを新たに決意する。
『だ~か~ら~! そんな気負うなって』
つい堅苦しく考えてしまうブラッドのことなど、全てお見通しだと言わんばかりにキースは額を突き、諫める言葉を優しく紡ぐ。
『ルールは一つだけだ。何事も話し合って決める。オレもお前も言葉にするのは苦手かも知んねーけどさ』
『あぁ……あぁ、もちろん異論はない。キースの言う通りだ。二人でたくさん話をしていこう』
キースの決めた、たった一つのルールを聞き、ようやく明るい笑みを見せたブラッドの額に唇を寄せる。
ちゅっ、と音を立ててキスを贈ったキースも瞳を和らげ、穏やかな笑みを見せた。
そうして二人の同棲生活が始まったのだった。
***
「ブラッド、起きてるか? もう少し寝かせてやりてーが、そろそろ時間だ」
ブラッドが幸せな回想に浸っていた時間は、思ったより長かったようだ。寝室に向かってくる足音を聞き我に返る。
「起きている……すぐに支度をして行くから、少し待っててくれ」
開いた扉から顔を覗かせるキースは、制服のシャツを腕まくりして上にはエプロンを着けている。
「まだ時間はあるから急がなくて大丈夫だぞ~。それより、体は平気か……って、いてっ! ちょ、おい! 枕投げるなって」
朝から返答に困る質問をされ、思わず手元にあった枕を投げつけ、キースに最後まで言わせない。
「う、うるさい! 問題ない」
急に動いたせいで下肢に鈍痛が走り、あらぬところにツキンと痛みを覚え、昨夜の出来事を思い返し頬が熱くなる。ブランケットに潜り込みたくなる衝動を抑え、ブラッドは深呼吸を繰り返し、表情を整えてからキースを見上げる。
「本当に大丈夫だから……」
昨夜は少々二人とも羽目を外し睦み合った。
久しぶりに一緒に帰宅し、途中でデリに寄り買った総菜を肴に軽く晩酌をした。ほろ酔い気分で一緒に風呂に入り、そこで軽い触れ合いをした後、ベッドに縺れ合うように倒れ込み―……
「…………」
昨夜の出来事が次々と頭の中に浮かんでは消える。
軽く頭を振り恥ずかしさを堪えてキースを睨みつければ、肩を竦める気障な仕草をしたキースは、無言で寝室から逃げ去って行った。
「まったく……気が緩みすぎだ。あまり甘やかしてくれるな……」
ブラッドを労わるような甘い空気を撒き散らすキースが部屋から去ると、ブラッドは窓を開け室内の空気を換気する。
風に乗ってコーヒーの香りが漂ってくるのに気づき、自然と口角が持ち上がる。そういえばなぜ今朝は和食ではないのだろうか?
SEXした翌朝は必ずと言っていいほど、キースは和食を用意する。そのことに気づいた時、ブラッドは恥ずかしさと共に、胸の奥がほっこりと暖かくなるのを感じた。
キースを受け入れるブラッドを労わる、ささやかな気遣いに幸せを感じたからだ。
同意の上の行為だし、なにより愛しい人との幸せな交歓だ。礼など以ての外だし気遣われる必要などない。それでもキースが自分を想ってくれる気持ちが嬉しくて、素直に受け取ることにしている。
「キースの手料理は本当においしいし、ありがたい……」
こんな朝を予想していたのだろうか?
不思議に思う程キースは同棲当初から炊事だけは自分が担当すると宣言していた。ブラッドに任せられないのではなく、自分がやりたいのだと、これだけは唯一譲らなかった。
キースが炊事に精を出す理由は二つある。
一つ目は、言葉を尽くすことが苦手なキースにとって料理を作ること。そして己の料理をブラッドに饗することは最大限の求愛行動なのである。
『食事』とは、生命維持に欠かせない栄養素を取り入れるだけの行為ではない。作り手の愛情を実感し、たくさん語り合うための大切な時間を作り出してくれる。
努力の甲斐あって、健啖家のブラッドを唸らせるほどレパートリーを増やし、それまで以上に腕を上げたキースはブラッドの胃袋をガッチリと掴むことに成功した。
二つ目は、ブラッドが仕事の効率を重視するあまり食事の手を抜くことをキースが嫌ったからだ。多忙は理解できるが、栄養とカロリーだけ取り入れようと、手軽な携帯食で済ませることはどうしても許せなかった。
大切な人に機械に油を注ぐような行為はして欲しくない。
食事は心と体の資本だ。ブラッドには健やかな身体で、元気いっぱいに職務に当たって欲しいのだ。
「まあブラッドが元気すぎると、困るのはオレの方だけどな~」
キースの愛情あふれる料理を食するようになってからのブラッドは、これまでにないほど体の調子が良く気力も体力も充実している。
元気すぎる余波が、セクター違いのキースにも届くのは勘弁願いたいが、有り余る体力は夜の運動でも発揮してくれるのだから、楽しくて仕方ない。
今朝の様子を見る限り、昨夜の無理な運動に体は多少悲鳴を上げているものの、食事の効果は各所に表れていた。
寝ぐせの付かないサラサラの髪には天使の輪が輝き、たっぷりの栄養と睡眠をとった肌は艶と張りが増し、元々の美貌に磨きがかかり眩しいほどだ。
「やっぱ食事は大事だよな」
今朝も元気なブラッドの様子を見て、キースは満足そうに何度も頷く。そして今度は何を食べさせようかと張り切る後ろ姿は、ブラッドが見たら『仕事にも同じくらい精を出せ』と小言を漏らしそうな程の意欲が漲っていた。
***
バスルームで顔を洗い、身だしなみを整えたブラッドはパジャマを脱ぎ、ドレッサーから新しいシャツを取り出し着替え始める。
鎖骨の下あたりから胸や腹に散らばる赤い痕を見つけ、体の奥に残る熾火に気づかない振りをするのに必死だ。
「あれほど痕は残すなと言っているのに………」
「なんか言ったか~」
ブラッドの独り言が大きかったのだろうか?
開け放たれた扉の向こうで、キッチンカウンターを整えているキースが大声で問い返してくる。
「……なんでもない」
ブラッドは止まっていた手を動かしシャツのボタンを留め、ネクタイを締めるとベストを片手に寝室を出る。
リビングに姿を現したブラッドの顔を見て一瞬動きを止めたキースは、じっとブラッドの顔を見つめてから、ぽりぽりと頬を掻く仕草を見せた。
「……朝から心臓にわりぃ」
「…………?」
昨夜の余韻を引きずる、色っぽい空気を纏わりつかせるブラッドを見て、鼓動と共に股間が跳ねそうになるのを必死に抑える。
「あ~……のさ、今日トレーニングする予定は?」
「今日か? 確か……ないはずだ。それがどうした」
「悪いな、痕……付けちまった。気づいたんだろ? 着替えるときには注意しろ~って、思っただけなんだけどよ……」
「…………悪いと思うならば、自重しろ」
「わかってんだけどさ~……。まぁ、この件は善処するって方向で。オレは朝食の仕上げをする。今朝は洋食で悪いな」
キースはブラッドがこれ以上、口を開く前にサッと話題を変えた。
「………別に構わない。お前の料理は何でも美味しい」
「あんがとさん。けどな……オレ的にちょっと不本意だ」
悔しそうに唇を尖らせる理由がブラッドにはわからない。いつも美味しい料理を準備してくれて感謝しかないのだ。我儘などいうつもりは毛頭ない。
だがキースの考えは違う。
SEXした翌朝は、必ず和食にすると決めている。
キースにしか見分けられない程、僅かな気怠い仕草を見せるブラッドが、味噌汁を口にした時、ほっとしたような穏やかで優しい自然な笑みが見せるのが好きなのだ。
なのに今朝に限って味噌を切らしてしまい、止む無く洋食にするしかなかった。
「卵……どうするよ?」
「そうだな……この間のオムレツはとても美味しかった。中がトロトロで野菜やベーコンなどの具もたくさん入って……あ、手間がかかるなら簡単な物でいいからな」
「別にそんなんでよけりゃ~すぐに出来るよ。ちょっと待ってろよ」
「ありがとう、楽しみにしている」
リビングに置かれたままのワークバッグを手に取り、中身を確認するブラッドは、端末を中に仕舞い、インカムは鞄の側に置き出勤の準備を整える。
「さて……せっかくの朝食だ。ゆっくり食したい」
玄関に掛けられた姿見で全身の身だしなみをチェックし、スマホを片手にキースの後を追いキッチンへ向かった。
***
作り置きしたラタトゥイユを冷蔵庫から取り出し小さく刻む。
フライパンにバターを入れ中火で熱し、卵液を流し入れ軽く掻き混ぜ、周りが固まり始めたところで火から下ろし、具材を入れて上下を折りたたみ引っ繰り返す。
「何度見ても、器用なものだと……感心する」
支度を終えたブラッドがキースの手元を覗き込んでから、キッチンカウンターに腰を下ろした。
「すぐ出来るから、そこのジュースでも飲んで待ってろ」
テーブルクロスの上に置かれたグラスには、緑色鮮やかなコールドプレスジュースが準備されている。
「昨日と同じもんで悪いな。スイングボトルで保存したけど、鮮度は仕方ねぇ。ライム絞ってあるから傷んじゃいねーから安心してくれ」
ブラッドはフライ返しで指されたグラスを口元に運び一口含む。
サラサラしたのど越しのジュースには、野菜と果物の旨味が良く引き出されており、ライムの香りが爽やかな口当たり与えている。
「美味しい。あぁ、乾いた体に染み渡る………」
「野菜たっぷり使ってあるからサラダは省略したぞ~。ほら、お望みのオムレツだ。温かいうちにどうぞ」
ブラッドの前に皿を置いたキースは、すぐにまたフライパンを手に取り、自分の分を作り始める。
目の前の湯気が上がる皿を前にして、ブラッドは身動きせずにじっとキースの手際を見ながら出来上がるのを待機することにした。
「どした?」
視線を感じたキースがブラッドを見ると、皿を前に両手を膝の上に置き待っている姿が目に入る。
「食ってていいぞ?」
「………一緒に」
「ん? あぁ、そうか。でも冷めちまうから……な」
「…………わかった。いただきます」
ブラッドの注文通り、中に具材が入っているからとケチャップはかけられていない黄色い楕円の美しいオムレツは、焦げ目など一切付いていない。
つるりとした黄色い表面に、手にしたナイフで切れ目を入れると、中からトロりと半熟の卵液が溢れ出す。零さないようにフォークで掬い上げながら口の中に入れると、卵の甘味とラタトゥイユのトマトの酸味が絶妙に絡み合う。
「………………」
ブラッドが口に入れたオムレツに舌鼓を打っていると、キースが皿を片手に隣の席に着いた。
「美味そうに食ってんな~」
無言で咀嚼するブラッドからは、幸せいっぱいの雰囲気が伝わってくる。そんなブラッドを見て、キースも楽しそうに眦を下げ、軽く焼いたライムギパンを乗せた皿を二人の間に置いた。
もぐもぐと咀嚼してから飲み込み、ブラッドはキースの方に顔を向ける。その時キースの前に置かれた皿が目に入った。
「オムレツ……じゃない、のか?」
「んん?」
ちぎったパンを左手に持ち、スクランブルエッグを乗せているキースと目が合う。
「手早く作るにはこっちのほうがいいからな。お前を待たせるのもなんだしって思っ……なんだ? これも食いたいのか?」
食いしん坊だなとキースが口元を緩めると、ブラッドは軽く首を横に振り眉尻を下げた。
「俺だけのために、朝からこんな手間をかけることは……」
「いいんだよ。オレの手料理幸せそうに頬張るお前見るのが、たのしいからさ。それに、今朝は味噌汁……用意できなかったし」
「………」
悪かったなと謝るキースに、そんなことは気にしなくていいと、首を横に振り手元の皿に目を落とす。
オムレツからはトロトロと卵が溢れ出し、どんどん白い皿に広がっていく。せっかくキースが綺麗に作ってくれたのだから、ありがたく食さなければとブラッドは慌てて次のナイフを入れた。
そんな姿を横目に、キースはスクランブルエッグと付け合わせのカリカリに焼いたベーコンをパンに乗せ、ブラッドの口元に差し出す。
「ほら、こっちも食ってみろ」
ブラッドがオムレツの次の一切れを口に入れる前に、キースに差し出されたパンに齧り付く。するとブラッドが手にしたフォークはキースの口の中に消えていった。
「んー。オムレツもなかなかの出来だ~」
唇を黄色く染めながら、咀嚼する間もなく飲み込んだキースの笑顔に、ブラッドも自然と微笑み口の中のパンを飲み込んだ。
「………スクランブルエッグも美味しい。胡椒……だろうか? 良いアクセントになっているな」
「そうだろ~同じ材料で作ってんだから、ぜんぜん手間なんかじゃねーって。なっ、違う卵料理を食えて、朝から得した気分になんねーか?」
「………そうだな」
二人で顔を見合わせ、同時に口元を綻ばせる。
直ぐに己の皿と向き合い、次の一口はオムレツ。その次はキースの差し出すパンと交互に口に入れる。そしてブラッドのオムレツが乗せられたフォークも、キースの口の中に消えていく。
カトラリーの奏でる音だけがキッチンに木霊する、二人だけの幸せな朝食時間に、これ以上の無粋な言葉は不要だった。
皿が綺麗になり、ブラッドがカトラリーを揃えて置く。
口元をティッシュで拭い、隣に座るキースの口元に着いた黄色い汚れに手を伸ばしそれも綺麗に拭った。
「サンキュ。付いてたか?」
恥ずかしそうに唇を舐めたキースに、ブラッドは優しい眼差しを向け、感謝の気持ちを込めて食後の挨拶をする。
「ご馳走様でした」
「さて、コーヒー淹れてくるから、それ飲んだら出かけるだろ?」
キースに言われて腕時計に目をやる。残念な事に、あと少ししたら出勤の時間がやって来てしまう。
仕事へ向かうことを残念に思う自分を不思議に感じるのは、もう何度目の事だろうか?
それだけキースとの生活が充実している証拠だ。
「あぁ……片付けを手伝いたいところだが………すまない」
「気にすんなって。それよりゆっくりできたか? 体調は?」
「問題ない。今朝も美味しい朝食を摂ることができたおかげだ」
「ならいいさ。あんま無茶すんなよ~」
「………お前は真面目に働けよ」
藪蛇だったと舌を出したキースの肩を拳で小突いたブラッドは、いれたてのコーヒーを一口啜る。
この一杯を飲み干したら、今日も忙しい一日が始まる。
「先に行っているぞ」
「はいよ。また後でな」
ブラッドは空になった自分専用のマグカップをカウンターに置き、スツールから腰を上げる。
「いってきます」
そう言ってキースの頬に唇を寄せキスすると、キースも同じように頬にキスを贈り返してくれる。
一日の中で一番穏やかで、幸せな時間の中―
のんびりとコーヒーを啜り、ひらひらと手を振るエプロン姿のキースに見送られ、ブラッドは今朝も元気にエリオスタワーに向かうのだった。
END