【若トマ】タイトル未定の長編予定④ 微かな風が頬を撫ぜるのに、目を覚ます。
うっそり重い目蓋を開けば、脳がまだ少し酩酊を訴えていた。
どうやら、故郷の酒であろうと例外なく寝落ちてしまったらしい。
部屋まで運んでくれたんだろうか。
硬い机の感触はおろか、トーマの全身を包む感触は畳よりも柔く優しい。
手を、煩わせてしまったな。次からは、気を付けないと。なんて、まだ鈍い頭を緩慢にまわしたところで、ふとすぐ近くに声が落ちた。
「おや、目が覚めてしまったかい?」
問われ、声のした方へとおもむろに視線をあげる。
伸ばした首が僅かな息苦しさを生んだけれど、それ以上に眼前に広がる光景がトーマの呼吸を奪った。
吐息の絡む。その距離に、綾人がいる。
障子窓が珍しく開け放たれているのか。
月灯りの色が濃く夜の闇に美しいかんばせを浮かばせている。
長い睫毛に縁どられた中に佇む藤色の双眸が、トーマの姿を宿し笑んだ。
まるで、夢のような光景だ。けれど、トーマの肌に触れる敷布の滑らかさも。まだ残る酒気に火照る肌も。そうして、ほのかに朱を帯びたトーマの頬を撫ぜる吐息も。確かなもので。いま、ここに在るすべての現状が、現実であるとトーマに知ら占めていた。
現実。そう、現実だ。夢じゃない。幻でも、ない。
そう認識した瞬間。まるで全身を綾人に包まれてるような錯覚がトーマの脳髄を揺らす。
途端、僅かばかり残されていた酔いが一息に醒めた。ひぐと情けない音を鳴らす喉が、綾人の香りを鼻腔に刷り込む。あわせて引いてゆく血の気に、トーマが慌てて身を起こそうとしたところで、グッと強い力に引き留められた。
はたと意識をそちらに向ければ、なにやら腕に腰を取られているようだ。
そこでようやっとトーマの脳へ実を結んだ現状に、居たたまれなさがその嵩を増した。
――オレの、部屋じゃ、ない。
あの頃。当時の社奉行様であった綾人の父から与えられた――あの日、綾人から買い渡された故郷の酒を、後生大事に置いていた。すっかり肌身に空気も匂いも馴染んだ自室では、ない。
鼻先を擽る微かな香の匂いは、確かにトーマが選んだものではあるけれど。それは仕事が立て込む綾人のひとときの安らぎになるようにと、いつぞやの誕生日に贈ったもの。
そうだ。ここは、綾人の寝所――立ち入れるものもそう居ない。神里綾人の私的な空間だ。
違いない。トーマはそこに踏み入ることを許されている、数少ないものの内の一人である。彼に招かれて。頼まれて。誘われて、幾度となく訪れたことのある場所。いくら、夜が暗くとも間違えようがない。
いま、寝転んでいるのは、綾人が普段。眠りにつく寝具。
彼の匂いがしても、おかしくもないわけだ。
天気の良い日は必ずトーマがその布団を干しているとはいえ、毎夜、綾人が眠るそこには陽だまりの香りと共に、彼の匂いが染み付いている。
そんな主人の寝具に、いま自分は居る。
膝の擦れ合う、その距離に。綾人の半身を、掛布からおそらく追い出しながら。我が物顔で、いまのいままで眠りこけていた、と。その様を、同じように眠るのではなく。寝所の本来の主は、ただ金魚鉢で泳ぐ魚を眺めるように、見ていた、と。
なんて失態だ。
従者にあるまじき行為だ。
だというのに当の主人といえば、どうにも機嫌よい様子で。ともすれば、鼻歌でも歌い出してしまいそうだった。その現状がまた、いっそうトーマの罪悪感を助長する。
ああ、くそ。やってしまった。
両手のひらで顔を覆い、俯く。額を触れさせた肩が軽やかに弾むのが、いっそ憎らしい。
わかってる。これは、自業自得だ。それ以外のなにものでもない。
わかりきっていた結果。予測できた事態である。防げたかと言えば、まぁ怪しいところでは、あるけども。
モンド人の母から生まれ、今となっては半生以上の時を稲妻で過ごしているとはいえ、モンドで育ち。なんなら父も無類の酒好きであるにもかかわらず、誰に似たのやら酒に弱い自分は、嗜む単位からしてモンド人どころかそこらの稲妻人とも一線を画する。もちろん。格下であるという意味で。
そうだ。はじめからわかっていたことじゃないか。
酒を呑んだら眠こけるのは、いつものこと。防げずとも、備えて置くべきだったのだ。
そうすれば、少なくともこんな――ひと組の布団に二人で眠るだなんて、窮屈な思いをさせずにすんだところを。
まったく。二日酔いなど関係なしに、頭が痛い。
そのうえ、くすくすと耳殻に震える笑い声が、いっとうトーマの心を平静から遠ざけようとするものだから、重い首を再びもたげ、無礼を承知で剣呑な眼差しを向けてやる。
「……大の男がふたりで、狭苦しいでしょう」
「いいや、お前の体温を感じられて心地良いよ」
「酒、臭いですし」
「匂うほど呑んでもいないだろう」
ああいえば、こういう。毎度のことながら、よくもまぁ飽きずに返してくれたものだ。
そもそも、綾人相手に口で勝ったことなど、ただの一度だってないのだからしようもない。
だのに、綾人がなおも、それとも私が臭うと言いたいのかな、なんて。いけしゃあしゃあと思ってもいないことを問うてくるものだから、トーマは慌てて首を振って返した。
若が酒臭いだなんて、そんなことあるわけがないでしょう。そう言って返した瞬間だけ、綾人はなんとも言い難い表情を見せたけれど。それもほんの一瞬のこと。
文字通り瞬きひとつで平常の顔を取り戻した綾人は、じりじりと離れようとしていたトーマの腰を叱るように引き寄せ、まだほんのりと朱の刷いた頬に手套を外した手のひらを這わせた。
「さて、小うるさい口は塞いでしまおうか」
「どこで覚えたんですかそんぅ」
そんな、台詞。そう続くはずの言葉の尾を喰らうがてら、くちびるを奪われる。するりと頬を滑る手がうなじをくすぐり、背にまわされた腕と共に、トーマの抗議を封じた。
そんな風にしなくとも、別に逃げやしないのに。そう反論したところで、きっと綾人には信じてもらえないだろう。
いいや、トーマが逃げるとは、綾人だって思っていやしない。
ただ、トーマ自らの意思で逃げぬのだと、そうはじめから露も信じていない。それだけだ。
――まったく、酷い人だ。
でもきっと、いくらトーマが懸命に示したところで、心の底から綾人に受け止められる日はこないのだろう。
それをトーマは難儀な人だと思えど、悲しいとは思わない。
そういうひとなのだ。そういう風に、生きるしかなかったひとなのだ。
だから説く言葉を用意する代わりに、トーマは二度、三度啄むように綾人から重ねられるくちびるを甘受する。
半端なところで彷徨っていた腕を綾人がするようにその背にまわせば、ややしてくちびるのあわいを開くその熱い舌に濡れた息が漏れた。
ふっ、と輪郭もおぼろげな距離で解かれる笑みに、目蓋を閉じて目を逸らす。なおもいたずらに咥内を擽る舌先に下肢をモゾつかしてしまうと、自然と擦れ合う衣が静寂に響く水音と共にトーマの劣情を煽った。
「主人の寝所に潜り込んで誘うだなんて、悪い子だね」
「またそんなことをいって……オレを引き留めたのは貴方でしょう」
仕掛けたのだって、綾人からだ。
トーマは別に、あのまま適当に床に転がされていたって文句ひとつ言いやしなかった。
そう言ってしまえば、きっと面倒な方向に機嫌を損ねてしまうだろうから、絶対口にはしないけども。
「恋人が同じ布団で眠っていて、なにもしない方が不健全だと思わないかい?」
「それは、まぁそうですけど」
トーマだって男だ。煽られた劣情を導く先があるのなら、もちろんその導き手は綾人がいい。
そんなトーマの返答を気に入りでもしたのか。美しいそのかんばせをいっそう艶やかに綻ばせた男は、濡れたくちびるにもう一度だけ口付けてから影を離した。
「というか、ずっと起きてたんですか」
「お前の寝顔を堪能できる時間なんてそうそうないからね」
楽しませてもらったよ。なんて、まったく意地の悪い。
いや、待てください。もしかして、涎垂らしてみっともない寝顔でも晒してましたか。オレ。はたと思い至った有り得る想像に慌てて問うたところで、綾人から戻るのはただ、息を奪われるほどに美しい微笑みだけで。
向かい合う形で寝転んでいた肩を返され、綾人の肩越しに薄く月光を引いた天井を見遣る。
いったい、なにをしているんだ。オレは。とは、さすがに思う。
酔っぱらって、寝こけて。主人の布団を占領して。その貴重な眠りを妨げて。されど止めて欲しいと思えぬ浅ましい自分を、いっそ咎めてくれたればよかった。そうすれば、くすぶった熱を抱えながらもきちんといつもの自分を演じきってみせたのに。
それは駄目だ。させやしない、と。言葉なく告げられる。その眼差しに背筋が震えた。
息を飲む。いつだって天からつるされたようにすらりと伸びた背を辿り、綾人の首裏に腕を絡める。
そうして一度開かれた距離をこちらから引き寄せれば、短い吐息が濡れたくちびるを撫でた。
さらりと流れれ落ちた髪をひと掬い。指先に絡めて耳の裏へ流せば、ふと寝落ちる前の光景がトーマの頭に浮かんだ。
眠ってしまうのかい、と訊ねる声が耳に残っている。
応えようとしたくちびるは、なんだか酷く重くて。閉じ行く目蓋に抗うことは結局かなわなかった。
最後に見えたのは、卓上に広げられた書類に、部屋の至る所に積み上げられた書簡。そうして、歪な御猪口を満たした故郷の酒。
「ああ、そうだ。あの酒は……なくなりましたか?」
尋ねたトーマに、綾人は重ねた額を離さぬまま僅かに首を振って返した。
お前と呑んだだけだよ。柔らかく返された声がすぐ傍で耳朶を打つ。
それもそうか。
もとより、綾人も然程酒を嗜む性質ではない。
付き合いで呑む酒は、それがいくら値が張るものだとしても必ずしも美味しいとは限らないものだ。そう零していたのは、確か、彼が古狸の居座る酒宴にはじめて招かれた夜のことだった。
今夜のようにトーマが夜酒を運ぶのだって、毎日求められるものでもない。
仕事と、疲れ。双方が溜まった頃合いをトーマの方が見計らって、ほんの数杯の酒を用意するよう心掛けているだけだ。
少しの休息になるように。息抜きに、なるように。
「あれは、トーマと呑んでこそ意味を成すものだろう」
静かに紡がれた言葉に、ほんの少しばかり目を瞠る。
あの酒を覚えているか、と。トーマは問うことをしなかった。
きっと、覚えているだろう。そんな、確信めいた自信があったからだ。
綾人が持ち出した歪な御猪口を、トーマが覚えていたように。忘れなかったように。
それが正しい認識であったと、他でもない。綾人の言葉が告げている。
わかりきっていたはずのその事実に、どうしてか胸が締め付けられるような心地を覚えた。口を開けばこらえきれぬなにかが溢れ出してしまいそうで、引き寄せたその肩口に額を甘えさせる。
立てた膝ではしたなくも綾人の腿を撫でて強請れば、耳朶に触れる時が微かに弾んだ。
「だから、お前が呑みたいと思うときだけ、あの酒をここに持っておいで」
時間がかかっても良い。今日、ここにあの蒲公英酒を持ち込もうと思ったように。そう思う夜が訪れるたびに、少しずつ少しずつその中身を減らしていこう。
細く長く。熱を含んだ吐息を受け止めた耳に、低い声を注がれる。
いつの間にか開かれた夜着の合わせから潜り込んだ手のひらは、いつもの体温より少しだけ熱く感じた。
官能に震える喉を舌先でなぞられ、突き出したそこにあわく歯を立てられる。急所へ触れられた恐怖か。それとも弱所を嬲られる悦楽か。薄い皮膚にかけられる微かな圧にトーマが濡れた声が静寂を揺らせば、男らしい欲を孕んだ眼差しがトーマの姿を映してうっそりと微笑んだ。