カチカチカチ、振り子時計が時を刻む音に、サラサラサラ、羽根ペンが紙の上をなぞっていく音。窓から西日が差し込み出した執務室には二人の男がいるにも関わらず、先程から彼らの話し声は聞こえない。机に向かって難しい顔をして紙の上に羽根ペンを走らせている男と、窓際に腰掛けながら手元の資料を真剣な顔をして見ている男の間の空気はどこか厳かだ。二人の男は仕事仲間ではあるが私語を挟むような関係ではないのだろう。こうしてお互いに無言のまま仕事に打ち込む。それが二人の男の日常だった。
どれくらいお互いに無言の時間が続いただろうか。二人の男のうちの一人、机に向かって紙に羽根ペンを走らせている男一一将校がふいに手を止め口を開いた。
「参謀、少し休憩にしよう。紅茶を入れろ」
「参謀」と呼ばれた窓際に腰掛けていた男一一カミシロルイは手元の資料から顔を上げ、ゆるりと声の主に目を向けた。
今日も今日とて、人使いが荒い。
ルイは自分に「紅茶を入れろ」と言ったこの男一一将校にあまり良い感情を抱いていなかった。人使いが荒いし、何を考えているのかまるで分からない。裏切った自分をわざわざ手元に置いておく意味もルイはいまだ図りかねていた。将校は若くしてこの地位まで登り詰めた優秀な人だ。もしや自分のような若輩者を手元に置いたところで痛くも痒くもないと高を括っているのか。ならば心外である。ルイとてこの歳にして参謀という地位を得ている切れ者であるし、何よりも自分の歳のせいで正当な評価を貰えないことはルイにとって非常につまらないことであった。
数ヶ月前、将校と和解してからここ最近、ルイは将校に子供扱いされているような感覚を覚えていた。あのムスッとしたつまらない顔を変えてやろうとルイがどれだけ嫌味を言ったとて、将校に「そうか」とサラリと流されてしまうのだ。それがルイの癪に障って余計に絡みに行けば、「そんな小さなことで話しかけてくるなんて暇なのか?」と将校に呆れた目を向けられているような気がする。とにかく、自分のことを確実に見下しているであろう将校のことがルイは気に入らなかったのである。
近頃、ルイは将校のすまし顔を変えてやりたいと日頃からチャンスをうかがっていた。そしてようやく訪れたチャンスにルイは心の中でほくそ笑む。この日のための準備も磐石だ。計画に抜かりはない。今日こそは絶対にあのすまし顔を歪ませてやる。
「どうした、参謀。聞こえなかったか?紅茶を入れろと言ったんだが」
心の中で悪役のようなモノローグが流れて不自然な間が空いてしまったようだ。将校の呼びかけに「いちいち態度の大きい人だな」と内心では思いながらも、ルイはニコリと人好きのする笑顔を浮かべて将校の方へ体を向けた。
「聞こえていますよ。今お入れします」
将校は先程まで集中して執務を行っていた疲れからか、椅子の背もたれにもたれかかり目を閉じている。ルイの返事にチラリと目を開けて「頼む」と小さく返事をした後、再び深く目を閉じてしまった。
執務室にはカチャカチャとルイが紅茶を用意する音だけが流れている。手際よく紅茶の用意をしながら、ルイはまるで今思いついたかのような軽い口調で「そういえば」と切り出した。
「そういえば部下の方からお聞きしたのですが、将校殿は以前はコーヒーしかお飲みにならなかったそうですね」
ルイの言葉に将校はゆっくりと目を開けて「何が言いたいんだ」とでも言いたげな目でルイを見た。しかしルイの言葉にいちいち反応していられないほど疲れているのか、再び目を閉じ、椅子にもたれかかってしまう。ルイにはそれが「お前の相手なんてしていられない」とでも言われたような気がして気に食わなかった。自分の思ったよりも将校の反応が薄かったことに若干の苛立ちを感じながら、ルイは再び口を開いた。もちろん苛立ちの感情はおくびにも出さないで、顔はニコニコと人好きのする笑顔を浮かべたままで。
「将校殿に長年ついている部下の方によると、コーヒー以外の飲み物を飲んでいる将校殿の姿を見たことがないとか」
「……何が言いたい」
ルイの言葉にとうとう将校は目を閉じたまま反応した。その声にはうっすらと疲れが滲み出てている。自分と話すことは疲れるとでも言いたいのか。将校の態度が一瞬ルイの癇に障るが、しかし一言でも反応が帰ってきたことに気を良くしたルイは更に続ける。
「部下の方も驚いていらっしゃいましたよ。将校殿が最近紅茶を嗜まれるようになったとお聞きして」
「…………」
ルイの言葉を聞いているのかいないのか。将校は右腕で目の上を覆って、「ふう」と一つため息をついた。ルイには将校のその態度がまた癇に障る。相変わらず何を考えているのか分からない。この話をすれば少しは動揺する顔が見られると思ったのに。もはや営業の笑顔はどこかへ消え、ルイは将校を冷ややかな目で見つめていた。
「言いたいことはそれだけか」
相変わらず目を右腕で覆ったまま将校が口を開く。まるで相手にされていないような言葉にルイは顔にカッと熱が集まるのを感じた。生まれてこの方、ここまで屈辱的に感じることがあっただろうか。
ルイは神童であった。幼少の頃からありとあらゆる難読書を読破し、年端も行かない子供でありながら勉学においてルイの右に出るものはいなかった。大人と並び立ち、大人と同じように扱われていたルイが、将校の前では地位も才能も何一つとして意味をなさない。無論、ルイは地位などというつまらないものに興味はなかった。しかし年齢だけで子供扱いされるのも正当な評価を貰えていないようで、ルイにはそれが気に食わない。将校との間にはルイがどうしたって埋めることの出来ない歳の差があるのだと感じさせられるのだ。
ルイは自分でもどうして将校にここまで突っかかってしまうのか理解出来ていなかった。自分のことを子供扱いしてくるような大人など今までもごまんといたし、その度に実力を持ってして分からせてきた。しかし将校だけは今までの人とは決定的に何かが違うのだ。その「何か」とは何なのか、ルイはずっと考えているが答えはいまだ見つかっていない。
「今までコーヒーしか飲まなかった将校殿が急に紅茶を嗜まれるようになるなんて、一体どんな心情の変化があったんでしょうねえ?」
将校の言葉に対するルイの返しは文面では落ち着いているものの、声には隠しきれない苛立ちとわざとらしい嫌味が滲み出ていた。ルイは将校の反応を伺う。将校は相変わらず目元を覆ってルイの言葉にも微動だにしない。
「味の好みが変わることなどいくらでもあるだろう」
「長年同じものしか飲まなかったのに突然味の好みが変わったと?にわかには信じ難い話ですね」
ルイが嫌味たっぷりに返事をすれば将校はわずかに身動ぎ、反応する素振りを見せたが結局何も言わなかった。なんとなく将校を言い負かせたられたような気がしてルイは気分が良い。気分が良くなると口も回るようになるもので、ルイはさらに言葉を続けた。
「部下の方にお聞きすると、将校殿が紅茶派になったのは私が来てからだとか」
「お前が紅茶しか入れられないからだろう」
将校の言葉にルイは初めて将校と会った日の会話を思い出した。常に無口でしかめっ面で何を考えているのか分からないと思っていた将校が初めて自分に話しかけた内容が「コーヒーを入れろ」だった。しかしルイはコーヒーの入れ方など分からない。ルイがコーヒーの入れ方を知らないと知った将校が「無理をするな。それなら他の人に頼む」などと言い出すので、プライドを踏みにじられたような気がしたルイが母親仕込みの美味しい紅茶を入れてやったのだった。
それ以来、将校がルイに要求してくるのはコーヒーではなく紅茶。部下の人の発言と合わせても、これはもう間違いなくルイの紅茶を飲むようになってから将校は紅茶派になったに違いないのだ。歳下だからといって子供扱いしてくるが、将校ほどの疑り深い人がこうしてわざわざルイの紅茶を頼んでいるのだから将校は自分のことを信頼しているに違いない、とルイは考えていた。これを認めさせてやれば、将校がもう自分を子供扱いすることはないだろう、とも。
「将校殿はとても疑り深いお方で、信頼のおける人からの飲み物しか飲まないそうですね」
「…………」
ルイの言葉に将校は無言のままだった。将校から反論されないのを良いことに、ルイは更に詰めていく。
「そんな将校殿が私の紅茶をわざわざ飲みたがるだなんて……」
ルイはそこで一度言葉を切った。ここまで言えば将校なら分かるだろうと思ったからだ。ルイはいまだに微動だにしない将校をじっと見つめる。ルイの位置からでは顔を覆ってしまっている将校の顔は見えない。
「それがどうした」
「…………は?」
返ってきた反応が期待していたものとは違ってルイは思わず気の抜けた声を出してしまった。まさかここにきて開き直られるとは。しかし裏を返せばルイのことを信頼しているのだと将校が自分から認めたも同然だ。思わぬ返事に一瞬動揺こそしたものの、ルイは頭の中で更に決定的に将校に自分を認めさせるための算段を構築していく。将校が自分から認めたのだからもうそれでいいはずなのにルイは更にその先を知りたがった。それが何故なのかはルイにはまだ分からない。
「それはつまり、将校殿は私のことを信頼してくださっている、ということでよろしいでしょうか」
「そうじゃなかったらお前をオレのそばに置かないだろう」
「でも不思議ですねえ。信頼してくださっているのはありがたい限りですが、それだけで今までコーヒー一筋だった将校殿の味の好みまで変わるものでしょうか」
ルイがわざとらしく疑問を口にすれば将校は口を閉じて黙ってしまった。自分の言葉に将校が反応を返したのを良いことに、ルイは先程頭の中で一瞬で立てた算段を頭の中でなぞりながら再度口を開いた。
「それではまるで将校殿にとって私は他の人とは違う『特別』のような……」
そこまで言ってルイは再び一度言葉を切った。なんとなくその先の言葉を口にするのは躊躇われたからである。将校の態度は相変わらずで特に動じている様子もない。二人の間に沈黙が落ちる。ルイは将校の次の言葉を待つ間、自分が妙に緊張しているのを感じていた。このまま沈黙が続くかと思われた時、紅茶のために沸かしていたお湯が沸騰したことを告げる音がタイミング良く鳴った。二人の間に妙な空気が漂い始め、引くことも進むことも出来なくなっていたルイは、その音にこれ幸いと沸かしたお湯をポットとティーカップに注ぐことに専念する。普段なら心を落ち着かせてくれるはずの紅茶の良い匂いも今はあまり効果がないようだ。
ポットとティーカップにお湯を注ぎ終え、蒸らす時間を計るための砂時計をひっくり返し手持ち無沙汰になってしまったルイは、なんとなく将校の方を向くことが出来ずに手元の紅茶セットをぼうっと眺めていた。確信を突けると思った言葉が不発に終わり、思いがけず素直な褒め言葉までもらってしまい、ルイはこの先どうやって将校を詰めていけばいいのかと焦り始めていた。ふと将校が再び「ふう」とため息をついた音が聞こえチラリと目をやると、将校は相変わらず目は深く閉じたままだが、体をルイの方に向け、目元を覆っていた腕はいつのまにか下ろしている。ようやく見えたその顔はいつもと変わらぬすまし顔だ。そのすまし顔にルイは苛立ちとも悔しさともとれる気持ちを感じていた。まだ何かこのすまし顔を変えてやる一手はないのか、そう思案しだしたルイの思考を遮るように、今度は将校が口を開いた。
「何が言いたいのかまるで見えてこないな、参謀」
「…………何が仰りたいんです?」
ルイの声には苛立ちと焦りが滲み出ていた。自分がかき乱されるわけにはいかないと頭では理解してはいるが、どうも将校の前ではルイはいつもの大人たちの前での飄々とした態度を保つことが出来ないでいた。
「それを知ったところでお前はどうしたいんだ?お前がオレにとって他とは違った存在だとして、お前はそれを気にするような男ではないだろう」
将校の言葉にルイはすぐに言い返すことが出来ないでいた。何故ならルイ自身ですらその問いの答えが分からないからである。しかし何も返さないままでは将校に言い負かされたようで癪に障る。ルイは子供じみた苛立ちのままに口を開いた。
「私が将校殿にとって他とは違う存在だとお認めになるんですね?」
「先程から言っているだろう。そうでなければ裏切ったお前をわざわざそばに置かない」
「単刀直入にお聞きしますが、将校殿は私のことを下に見ていますよね?年齢ばかり見て実力を見ていただけないのは非常に不愉快なので辞めていただけますか」
ルイは将校の次の言葉を待った。自分にしてはかなり強い言葉を使ってしまった自覚はある。今は一度引いて、余裕のある態度を見せた方が良いことも分かっている。いつものルイならば言いたいことも全て飲み込んで、大人しく引き下がれただろう。しかし今のルイはどうしても将校のすまし顔が変わる瞬間が見たかった。
ルイは自分の感情が制御出来なくなっているのを感じていた。このままでは癇癪を起こす子供とさして変わらない。どんな時でも落ち着いて周りを見ているルイがここまでかき乱される相手は将校が初めてで、ルイ自身でも知らない感覚だった。
中々答えない将校にしびれを切らしてルイが再び感情のままに口を開きかけた時、将校がスっと目を開いた。透き通った琥珀色の瞳がルイの目を捉え、ルイは一瞬で二の句が継げなくなってしまう。将校が何を考えているのか、相変わらずルイには分からない。それがひどくルイの気に触った。
「砂時計」
「…………は?」
「砂が全て落ちているぞ。そろそろ紅茶を入れる頃合いだろう」
将校の言葉にルイは再び顔にカッと熱が集まるのを感じた。ルイが将校の言葉や態度にひどくかき乱されている間も将校はどうやら紅茶のことを考えていたらしい。将校の言葉にルイは何も返事を返さず、黙々とティーカップに紅茶を注いでいく。
「おい、参謀。もう少し丁寧に入れろ」
「…………」
将校の言葉には答えず、紅茶を注ぎ終わったルイはティーカップを持って将校の執務机の前に行き、カチャリとティーカップを机の上に置いた。将校がルイの入れた紅茶に手を伸ばそうとしたところで、ルイは紅茶の入ったティーカップを将校から遠ざける。
「おい、参謀!何をする!」
将校の顔がわずかに歪んだのを確認し、良い気分になりながらルイは机の上に手をついて将校の方に体をグッと近づけた。将校の顔の上にルイが覆い被さるようになり、将校の顔に影が落ちる。今度は怪訝な顔をする将校に、そんな表情も出来たのかとどこか冷静になりながらルイはおもむろに口を開いた。
「質問に答えていただけますか?僕を子供扱いするのは辞めていただきたいと言ったんですが」
ルイはもはや苛立ちを隠すこともしようとしなかった。頭の中は沸騰したように茹だっていて、素の一人称が出てしまったことにも気づけない。至近距離だと尚更透き通って見える琥珀色の瞳に全てを見透かされているような気がして目をそらしたいのに、何故か目をそらすことは出来なかった。将校はしばらく困惑したようにルイの顔をじっと見上げていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「子供扱いしているつもりはない」
「子供扱いでしょう。裏切り者の僕を手元に置いたのも若輩者の僕を甘く見ているからだ」
ルイは自分自身でもどうしてそんなことを口走っているのか分からなかった。実力も見ずに子供扱いしてくる連中は相手になどせずに、全て実力で黙らせてきたというのに。しかし将校とは、怒っているはずなのにもっと話していたい気分だった。怒っているはずなのにもっと話していたい、などと自分の中の相反する感情は、ルイ自身ですら知り得ない初めての感情でルイの心は再びかき乱される。
「年齢なんて関係ない。オレはただ『カミシロルイ』個人としてお前を見ている。それ以上でも以下でもない」
将校の琥珀色の瞳がルイの瞳を真っ直ぐに見据えている。ルイはその瞳から目をそらすことが出来なかった。何も言えないでいるルイに将校は更に言葉を続けた。
「お前をオレの手元に置いているのはお前が優秀だからだ。オレは能力のある者は評価する」
何となく、聞きたかった言葉はこれではない、とルイは思った。理由は分からない。何を聞きたかったのかも分からない。しかしこのまま会話が終わってしまうのだけはなんとなく癪だった。
「それだけじゃないでしょう?将校殿の周りには僕以外にも優秀な方は沢山いるはずだ。わざわざ僕を手元に置いておく理由は何ですか?」
ルイの言葉に将校は一瞬考える素振りを見せた。ルイは自分の言葉が片隅にでも将校に引っかかったことを感じ、少し満たされるような気持ちになる。しばらく真剣な顔で頭を悩ませていた将校だったが、何か思いついたことがあったのか、ほんの少し目を見開いて一拍置いてふいに口を開いた。その表情はすまし顔ではなく、どこか素に近い穏やかな顔のように見える。
「お前ほど歳は離れていないが、妹がいるんだ」
「…………はあ?」
将校の言葉に文脈が繋がらず、ルイはまた誤魔化されたのかと苛立ちを感じ、その感情のままに低い声が出てしまう。しかし将校の表情を見れば今まで見たこともないほどの優しい表情でルイは思わず呆気にとられてしまった。
「小さい頃は『お兄ちゃん、見て見て』と事ある毎にオレを呼んでいてな。小さなことでも嬉しそうに報告する姿がかわいかったんだ。もしかしたらお前が妹に少し似ているから世話を焼きたくなるのかもしれないな」
「…………」
将校の言葉にルイは再び呆気にとられてしまった。二の句が継げないでいるルイに将校は言葉を続ける。
「先程お前のことを『カミシロルイ』個人として見ていて、年齢なんて関係ないと言ったが。その上であえて言わせてもらうと……」
将校はそこで一度言葉を切り、フッと笑った。ルイの瞳を見上げる琥珀色の瞳はルイの心をどうしようもなく揺さぶってくる。
「まだまだ子供だな、と思うことはあるが」
そう言う将校の表情は、駄々をこねる子供を甘やかすような慈愛に満ちた大人らしい表情にも、素直になれない子供をからかうような子供らしい表情にも見えた。ルイは三度顔にカッと熱が集まるのを感じた。しかし今度は苛立ちからではない。初めて見たすまし顔以外の将校の表情に、ルイは今まで感じたことのない類の感情を感じていた。更に心臓の鼓動が急に早くなった気もする。しかし自分を手元に置く理由が「どこか妹に似ているから」では結局子供扱いと変わらない。ルイは自分の胸の中に芽生えた新たな感情を「気に食わない」という感情で上書きしようと試みたが、脳内では先程の出来事の処理が終わっていないのか将校の言葉にすぐに反論することが出来ない。結局ルイの口から出た言葉は「そうですか」という気の抜けた一言だけだった。
将校の思わぬカウンターにルイはすっかり力が抜けてしまい、フラフラと元の位置に戻って窓際に腰掛けた。自分の分の紅茶のティーカップを取って一口飲む。紅茶のリラックス効果が今のルイにも効くことを期待したが、相変わらずトクントクンと早鐘を打っている心臓は紅茶を飲んだ程度では収まりそうになかった。
何故将校の言葉と表情にここまで心を揺さぶられているのかとルイの中の整理しきれない感情に困惑しながら将校を見れば、将校も自分の分の紅茶を飲んでいるところだった。紅茶を一口飲んで「ふう」とため息をつく。そのため息は先程までの疲れが滲み出ていたため息ではなく、どこかホッとしたようなため息だった。
「やはり参謀の入れる紅茶は美味しいな。どこか落ち着く味だ」
「…………紅茶にはリラックス効果があるので」
紅茶を飲んで落ち着くという将校とは裏腹に落ち着いてなどいられないルイは、どこか熱を持ったままの声で曖昧に返事を返した。ルイの言葉を聞いた将校がふいに「ふふっ」と笑みをこぼす。思わずルイが将校の方を見やれば、また今まで見たことがないような穏やかな顔で笑っているからルイはまた心臓の鼓動が早まるのを感じた。
「そういうことではないと思うが」
「……え?それはどういう……」
「それがお前が散々聞きたがっていたことの答えじゃないのか?」
相変わらず穏やかな笑みでルイの顔を真っ直ぐ見ながらそう答える将校に、ルイは早まる鼓動を感じながらも困惑することしか出来なかった。将校の言葉の意味を考えようとしても頭の片隅にこびりついて離れない先程の将校の顔を思い出してしまい、思考がまるでまとまらない。将校の琥珀色の瞳にじっと見つめられていると調子が狂う。優秀な頭がオーバーヒートしてしまい、どこかぼうっと窓の外を見ているルイとは裏腹に、将校はルイが入れた紅茶を飲み終えたようだった。ググッと体を伸ばし一つ息を吐いた将校は「さて、仕事に戻るとするか」と一人呟いてから、羽根ペンを手に取り、休憩をとる前と同じように紙の上に羽根ペンを滑らせていく。再び集中しだした将校の顔は以前と同じようなすまし顔だ。しかしどこか気の詰めた顔ではなく、以前よりも穏やかな顔にも見える。将校の言葉にルイは放置していた資料を一応手には取るが、内容はまるで頭に入っていなかった。
振り子時計が時を刻む音に、羽根ペンが紙の上をなぞっていく音。先程よりも強く西日が差し込み出した執務室には二人の男がいるが、相変わらず話し声は聞こえない。どこか穏やかな顔で紙の上に羽根ペンを走らせている男と、手元の資料をどこかほんのりと頬を染めながらぼうっと見つめる男の間の空気は先程とは違って、どこか落ち着くようにも、甘いようにも感じられた。自分の中に芽生えた新たな感情の正体にルイが気づくのはもう少し先の話。