白蛇と青年 ───ねぇあなた、ご存知?
あちらに住んでいたご家族、奥さんと小さいお子さんだけ残して、ご主人が出て行ったそうよ。ここに来た頃はいかにも幸せなご家族、って感じでしたのよ?…今?今は、住んでいるのは奥さんだけね。そういえばいつの間にか、お子さんは出ていかれたみたいね。もしくは奥さんがお子さんを放置でもして…ごほん。いいえ、なんでもないわ。
奥さんはとてもお綺麗な方で、お子さんは奥さんにそっくりな娘さんだったわ。そうね、まるであなたみたいな艶のある金の髪で……あらやだ。娘さんじゃなくて、息子さんだったの?私、あの子に髪飾りをあげたことがあるわ。それは、悪いことをしたわね。…ええ、あげたのは昔よ。…えっ?そ、そんな…わ、私は関係ないわ!この話は聞かなかったことにして頂戴。…やめて、金輪際うちには来ないで!私は何も知らないわ!無関係よ!
* * *
大きな音を立てて、玄関戸を閉められる。風圧で家の中にあった空気が顔にぶわりと当たる。人臭くて、思わず右腕で鼻と口を覆った。すると直ぐに鍵をかける音が聞こえる。もう、ここの住人に問い詰めるのは無理だろう。今度また、別の人間のフリをして訪れるしかない。面倒ごとが増えてしまった。人の中にある"地雷"が見えていなかった自分を責める。固く閉じられた家を後にして、真っ赤な夕陽が照らす道を歩き出した。
「…人から聞き出すのが一番早いんだけど、これが、一番大変だよぉ…」
腹に空気を溜め込んで、それをふう、と吐き出した。今回は本人である僕が聞き込みをしているわけだし、あの反応を見た限り、素顔のままだとバレていただろう。この母親似である金の髪も、泥で真っ黒く汚してから訪れた方が良かったのだ。反省点が多過ぎて、気が滅入る。この後も仕事が入っているというのに。
特徴的な緑眼が見えないようにと、茶色いレンズが嵌め込まれた黒の丸眼鏡をかけている。それを下げて、周りを一度確認し、建物の間の暗い路地へ入る。左右に見える橙色の道路に挟まれた暗闇の中で、身につけている警官の堅苦しい制服の上着を脱ぐ。深くかぶっていた帽子も取って、ゲンコと呼ばれる鞄に押し込む。長袖のシャツ一枚になったところで、書生羽織を羽織った。羽織の袖にしまってあった別の青縁眼鏡をかけて、身支度を終える。すると、腹の虫がぐうう、と鳴いた。ありゃ、とお腹に手を当てて夕食の時間が来たことを自覚する。
「う〜ん、ご飯でも食べに行こうかな…新しく出来たお店があるって聞いたし!」
ふっふ〜ん、と気分を変えて、食事処への歩みを早めた。
時は明治××年、世の中は和装と洋装が入り乱れ、少しずつお役人と庶民の見分けが難しくなってきた頃である。中には変わった服装をしているものもいるが、いろんな人間が増えれば増えるほど、僕の仕事は有利になってくる。この後も仕事だ。
僕は、小さい頃から『鼠』を捕まえるのが得意だった。その才能を買われてなのか、今はとある医者の補助の立場で働いている。表向きは、だけど。表があれば、裏がある。表を見ることができたなら、裏もあるだろうと考えるだろう。さっきの奥さんも、その裏側に"地雷"があったのだ。…ああ、失敗したことを思い出してしまった。だめだ、だめだ。考えるな、落ち込んでいる暇などないのだから。
「いらっしゃいませ〜」
目的の食事処に着いた。客の来店を店全体へ知らせるように、店員の大きな声があちこちで響く。男性の店員が近づいてきた。適度に距離を保ち、軽い会釈で返す。人差し指で一、と示した。
「一名様ですね!すみません、今席が空いていなくて…あっ、お急ぎならご相席はいかがです?」
相席、かぁ…。他のお客さんが立ち上がるのを待てるほどの時間があるわけではないし、仕方ないか。出来るだけ、当たり障りない席に座りたい。がやがやと騒がしい店を見回すと、店の端っこの席に、見慣れた銀の猫っ毛を見つけた。目は窓の外を向いているが、確かにあの人だ。しかし、どうして彼がここにいるのだろう。いつも、この時間なら、医院で休んでいるはずなのに。
「…あそこに座っている人と知り合いなので、あそこに」
黙り込んで周囲を見渡していた僕の顔を、こっちは忙しいんだから早くしてくれよ、という感じで見つめていた店員が嘘くさい笑顔になる。
「では、お席どうぞ!」
ご相席で〜す、と男が再び大声で叫んだ。元気はあるけれど、面倒な客はごめんだ、という圧を思わせる声だった。
「…先生。瀬名先生」
銀の猫っ毛を持つ彼に話しかける。外に向けられていた顔が、想像よりも早く、こちらに向いた。薄い群青色の瞳が僕を捉える。うん、やっぱりそうだ、泉さんだ。お外では「瀬名先生」と呼ぶ決まりのため、ここではそう呼ぶ。「泉さん」は、二人きりのときだけ許されている。僕は、彼の助手だから。
「ゆうくん…!どうしてここに?夕方は仕事でしょ?」
「うん、でも、お腹が空いちゃって。ね、隣座ってももいい?」
いつも、僕がどこにいるのかを把握している泉さんにしては爪が甘い。僕がここに来ることは知らなかったみたいだ。横目で泉さんの様子を見ると、陶器のように白い肌を纏う頬が、今はほんのりと朱く染まっていた。口元が少し緩んでいる。なんだか嬉しそうだ。僕もつられて微笑んでしまう。そうして泉さんの隣の席に座ると、こちらを伺っていた店員が、素早く目の前に水を置く。ぱちゃりと、コップから水がこぼれそうになった。
「ちょっとあんた…もっと丁寧に置きなよねぇ!もしゆうくんにかかったら、どうしてくれるわけ」
泉さんが、朱に染めていた表情を器用に仕舞い込んで、冷気を放ち始める。この人は雪女か何かなのだろうか。正確にいうと、少し違うけど…。しかし、鋭く店員を睨みつけ、一瞬で氷漬けにしてしまった。店員は青くなって、申し訳ありませんでしたと頭を下げた。泉さんは、僕のことになると、簡単に獣になる。
「かかっていないので、大丈夫です」
僕の言葉で、泉さんはこれ以上圧をかけても無駄だろうと判断したのか、ふん、と鼻を鳴らして店員から目を離した。店員が平謝りをしながら下がると、泉さんが僕の方を向く。また、僕のことを甘く見つめる彼に戻った。
「ゆうくん、何食べるの?あんまり重たいのはだめだよぉ…はい、メニュー」
「ありがとう!う〜んと、お腹がいっぱいになれば何でもいいんだけど」
お腹が満たせるなら何でもいい。さらに、美味しければ満足だ。お腹が減ると不快感が増して、集中力も下がってしまうため、とりあえず食べているという感じだ。僕にとっては食事が大切なのではなくて、今過ごしている、この時間の方が大切だから。空腹は我慢できるけれど、時間はどんどんと過ぎるばかりだ。
「はぁ…ゆうくん、俺、いつも言ってるよねぇ?満遍なく食べなって。メニュー貸して」
貸して、と言った泉さんは、僕の手からメニューを奪い去った。やっぱり訂正する。彼は僕に甘いけど、それ以上に過保護だ。幼い子どものような扱いにムッとしながら、店員を呼びつけてあれこれ注文する泉さんの横顔を盗み見た。僕が食べる料理にしては多過ぎるので、多分、自分の分も頼んでいるのだろう。一緒に外食するなんて、久しぶりだ。
泉さんと暮らし始めてから、二年ほど経つ。元々は母と二人暮らしだった僕が、なぜこの人と一緒に暮らしているのか。それは、僕が小さいときに起こしたある事件がきっかけになっている。
* * *
幼い頃。
父と母と僕の三人で、この町に住んでいた。かなり小さい頃のためなのか、父に関する記憶は何もない。"幸せなご家庭"、だったそうだ。わざわざ変装をして家のご近所に聞いて回ると、みんな口を揃えてそう語り始める。そんな前口上は、"幸せなご家庭"の子どもである僕の目の前に並べられる前菜だ。しかし、口に入れても入れても、何の味もしない。僕はそのことに、何の感情も抱かない。
ある日、父は帰って来なくなった。物事を理解するには幼過ぎた僕は、父がいなくなったことすらも、その男が父だったのかということすらも知らない。愛した男が帰って来ないという現実を、母は一人で受け止めた。
お母さんは一生懸命、僕を育ててくれた。当時の気持ちは計り知れないけれど、愛してくれたことは、ちゃんと覚えている。だから、お母さんを守ろうと思った。たくさん愛してくれたから、その愛を、僕もたくさん返したかった。だから…だから、お母さんに近づく『鼠』を全て、追い出した。
僕に物心がついた時。母に近寄り、我が物顔で家に入ってくる『鼠』たちは、いつも、母と僕が暮らしている家を壊そうとした。母について行く『鼠』が上の階に登ると、ギシリ、ミシリ、という不快な音が聞こえる。僕は柔らかなソファにうずくまっていた。何がどうなっているのかを知りたいと思う興味よりも、恐怖が勝った。月が見え始める頃、気持ち悪い音が止む。少しして母が下に降りてくると、『鼠』も一緒に降りてきた。
確か、あの日は寒かったと思う。その日は、部屋の中が暗くなっても、気持ち悪い音が鳴り止むことはなかった。いつも通り、ソファにうずくまっていたけれど、冷え込んだ部屋の中では無意味だった。お腹が空いた。寒い。気持ち悪い音が鼓膜を震わす。生まれて初めて、何かに耐えきれなくなって、急激に這い上がってきた吐き気に口元を押さえた。お手洗いに行くためには、階段の近くを通なければならない。でもあの時は、絶対に、通りたくなかった。台所へ走った。異物感を吐き出そうとしても、何も出てこなかった。
はやく、早く…、『鼠』を追い出さなきゃ…。
「ゆうくん」
「!」
とんとん、と左肩を叩かれる。呼ばれる方を向くと、むにっと頬に何かがあたった。
「ふぇ…」
自分の方を向いたことに気を良くしたのか、いたずらを仕掛けてきた主が気位の高そうな鋭い瞳を柔らげる。普段から冷たい印象がある薄い群青も、優しく見える。形の良い、僕よりも少し小ぶりな唇は悪戯っぽく弧を描いた。
「ふふ、かわいいね」
僕の頬をぷにぷにと指の腹で突きながら、泉さんはすこぶる上機嫌な様子。あまりこういうちょっかいは掛けられたことがないけれど、今日はそういう気分みたいだ。変なの。だけど、変な泉さんの笑顔を、ちょっとだけ可愛いなと思っている自分もいる。
数分経ってから、店員が食事を運んでくれた。僕の頬を突きながらにやついている泉さんから目を逸らしていたが、手早く、かつ丁寧だった。
「ほうひへば、へなへんへいはほうひへほほひひふほ?」
「ゆうくん、口の中に食べ物をいっぱいつめてしゃべるの禁止」
「ふぁい…」
口の中にたくさん入れる方が、早くお腹いっぱいになれるんだもん。…でも確かに、今のは大袈裟過ぎたかも。二人きりで、久々の外食に浮き足立っているのは、泉さんだけじゃないみたいだ。言い訳と湧き出てきた羞恥心を隠すように、もぐもぐと咀嚼した。隣から僕を凝視している泉さんが、かわいく言い訳してもだめだよぉ、お行儀悪いんだから、直らなくてもずぅっとそばで教えてあげるけどねぇ…などと、小言なのか脅しなのかよくわからないことを囁いて来る。側から見たら愛を囁いているように見えるだろうか。多分、間違ってはいない。ただ、みんなの想像よりも重い。これは、僕だけが我慢できる重さだ。咀嚼に集中して、聞こえていないふりをする。水を一口飲んで食べ物をお腹へ流し込んだ。
「…ここの娘さんが体調を崩したって連絡を受けて、今日はその診察に来たの」
「そうだったんだ。治りそう…?」
「病気…自体は、ただの風邪だった」
頷きながら話を聞いていたが、言葉の流れに少し引っかかった。今、泉さんは病気"自体は"と言っていた。思わず、泉さんが僕からメニューを奪い取り、僕のためにと選んだ、季節の野菜たっぷりのカレーライスを口に入れる手を止めた。
「それって……」
「…うん。ゆうくん、それが今夜の仕事だよ」
真剣な表情をしていた泉さんはふっと微笑んで、ついてるよ、と僕の口元についていたご飯つぶを指で攫って、ぺろりと食べた。
* * *