キミがくれたもの、おくるもの(マッシュ視点)シャワーを浴び終えて浴室を出れば、当然のように用意されているタオルと着替え一式が視界に入る。
なんだかそわそわと落ち着かない気持ちになるのもこれで何度目だろうか。
用意されていたタオルを借りて体の水気を拭き取り、ややゆったりとした部屋着へと袖を通した。
レインが用意してくれているのは彼が普段着ている部屋着と同じもの。着心地を重視しているために手触りが良く、通気性もあるのに薄さは程よくて軽い服。
いつもハイネックのインナーを愛用しているマッシュにとってはやや喉元辺りがスースーするVネックは少しばかり心許なく感じる。⋯けれど、レインくんが満足そうにしているし、何よりお揃いが気恥ずかしくも嬉しいのでこれで良いかと思ってもいたりする。
慣れた動作で脱衣所を出て、迷う事なく動いていたマッシュの足が寝室の扉の前でピタリと止まった。
扉と柱の間に僅かに設けられた空間が、あと指先の一押しで簡単に開くのだと物語っている。
(レインくんの、こういう所が好きだなぁ)
扉の開閉が苦手で、ドアをぶち破るのが恒例行事となりつつあるマッシュへの配慮であることは明らかだった。
故意にしたことでない限りは呆れて諭しはするけれど無闇に怒ったりしない。相手がどうしても苦手とする事は、自分側が工夫して補えば良いと、そう言って甘やかしてくれるレイン。
大切にされてるなぁ、と感じずにはいられない。
配慮を無駄にしないよう、できるだけそっと押した扉の先でレインが本をパタンと閉じて視線をこちらへと向けてくれる。
和らぐ双眸が“待ち遠しかった”と語っているようで擽ったくて仕方がない。
「お風呂、ありがとうございました」
お礼はちゃんと言いなさいと幼少の頃から教えられてるマッシュはどんな時でもお礼を言えるいい子だった。ただ、ちょっと気恥ずかしさが優ってしまって言い方が多少ぶっきらぼうになってしまったかもしれないが、今更そんな些細なことを気にするほど初心な関係ではない。
律儀なマッシュに対し、フッと呼気に笑みを含ませ「あぁ、髪を乾かしてやるからこっちへ来い」と隣の空間をポスポスと叩く姿は機嫌を損ねる事など無く楽しそうでなによりだ。
こっち、と強調して促す声に誘われるままにレインの隣へと腰掛ける。
レインが手に取った杖を軽く振るえば、ふわりと暖かな風に包まれる。このわずかな時間がマッシュはとても好きだった。
ちゃんと乾いたか確認する為に髪に差し入れられた指先が毛先を擽る感覚も。ほんの少しだけ、乱れたという程でもない髪を手で梳き直した後に、頭にぽすっと乗せられる掌の温もりも。
触れてくる掌の優しさと温もりに口の端が緩んでしまうのをいつも止められない。
「ほら、できたぞ」
(あぁ、もう終わっちゃった⋯)
「ありがとうございます。この魔法、便利で良いですよね」
便利だし、何よりこの心地よさを君にも分けられたならと思っていたら「僕も魔法が使えたなら、使いたかったな⋯」と溢れ出ていた。
「風と火の複合魔法だ。簡単そうに見えるだろうが、一つ調整を間違えば火だるまになる可能性もあるが⋯微調整がお前にできるのか?」
「ヒッ⋯なんっ⋯!!」
「俺はそんなヘマしないがな」
「レインくんのいじわる!」
合理主義な男はこれだからいけない。
僕の気持ちを何もわかっていない。
何も魔法を使いたいだけならそんな事は言わないのに。君が関わっているから、なのにそれを理解してくれないのはどうなんだ。
レインくんに同じことをしてあげられたら、そう思っていたのに⋯。
なのに”火だるま”と来たものだ⋯一瞬想像してしまったではないか。レインくんを火だるまにしてしまう悲惨な想像を。
そんな想像をしてしまったのだから身体が跳ねてしまうのも当然の反射だろう。
体をびくつかせたマッシュを笑うレインにムッとしてフイッと顔を反らしてやる。
その様子に機嫌を損ねたと思ったのか「マッシュ⋯」と伺うような声色で呼ぶレインに意趣返しのつもりで「レインくんは時々いじわるですよね」と返してしまうのも仕方がない。
だってその通りなのだから。
一瞬の間の後「悪い⋯」と言いはしても反省など微塵もしていないのは今までの経験上よく知っている。
「悪いと思ってないでしょう?」と返せば、案の定ふっと笑われてしまった。
(レインくんは、いつもこう⋯でも、甘えてくれてる証拠だから許しちゃうんだよね⋯)
これは日常的に行われているやりとりで、お互いに戯れ合うための言葉遊び。だから、これで良い。
ちょっと困らせて、ちょっとだけ困ったふりをして、許して、甘えて、甘やかして⋯。
それが付き合ってからしばらく経つ二人の日常になった、とマッシュは思っていたのだが、周囲からは「付き合う前からそうだっただろ?まさか自覚無かったのか?」と呆れられ、「俺たちが”さっさとくっついて、二人きりの部屋の中でやれ”と散々言っていたのを何だと思っていたんだ」とチクチク言葉で刺されたのが今では懐かしい。
特に、その中でもドットは最初こそ「ケッ、ふざけんなよ!リア充がよぉおお!?」などと言って突っかかってきていたのに、明らか両想いなのにも関わらず、あまりに進展しない二人に剛を煮やして最終的には懇願する勢いで縋り付いてきていた。
「頼むから(フィンの兄貴と)付き合ってくれよぉおおお!!」とマッシュに泣きついた場面を、省いてはいけなかった人物名その人に目撃されるという不運に見舞われる。
なんやかんやあったわけだが、詳細は省き、その日、アドラ寮の一部が倒壊したとだけ明記しておこう。
目撃者は後に語る、あの時のレイン・エイムズの面相を思い出そうとすると恐怖で身体が震え出し記憶が飛ぶのだと。
無理やり思い出そうとすると、気づいた時には運が良ければベッドの上、運が悪ければ床に転がっているのだと⋯。
当時のレインは意識を保つのも難しくなるほどに多大な恐怖心を周囲に与えてた。
その殺意と敵意をモロに浴びる事になったドットは、レインの顔を遠目に見るだけで失神するようになってしまったのだが⋯⋯まあ、そんな身体を張ったドットのおかげで二人は無事にお付き合いを始める事となり今に至る訳だが、それは今はおいておこう。
付き合う前からと考えればそこそこ時間が経ってるのに、レインくんのちょっとしたいじわるは健在で、よく飽きないなとマッシュは思っている。大事にされてるのは充分に知っているが、今は少しばかり困る事の方が多いのだ。
それに、少年ぽさが多分に残っていた頃の時折覗かせるいたずらっ子のような部分は年相応で可愛げがあって何だか嬉しいと思う部分が大きかった。
レインとの会話が少しずつ増え始めた頃合いから徐々に”ちょっと”のいじわるが増えていき、それを、またまた見ていたフィンくんが「好きな子の気を引きたい子供みたいだね」と呆れたように溢せば、ランスやドットも同意とばかりに頷いていたのをなんとなく覚えている。実際にレインには意識的か無意識だったのかは別として、そういった意図が含まれていたのだろうし、”自分にだけ”という事実がマッシュには嬉しくて仕方がなった。
それから、卒業してもう子供と呼ぶには似つかわしくない今になっても、そのちょっとのいじわるは継続中である。
本気で嫌がるような事をされることは無い。そこらへんの線引きも引き際もレインは見極めが得意で、これが原因でケンカに発展することも拗れたこともない。
けれど、問題がないわけではないのだ。主にマッシュの心情的にだが⋯⋯。
イタズラが成功した時のような嬉しげな顔を、あの少年らしさが抜けた顔立ちでされるのは心臓に悪い。可愛いのに、可愛くない。世界で一番カッコいいと思っているその顔で、その声で、愛でも囁くように不器用に甘える君にとことん弱いというのに⋯。もう少し前もった心の準備をさせて欲しいのに、その猶予をキミはくれないから困るのに⋯。
思考の小旅行に出ていたマッシュだったが、軽く逸らしていた顔に添えられた手が頬を撫でる仕草に意識を戻される。
レインへと視線を向ければ、「俺をいつまで放っておくつもりだ?」と機嫌良く優しく語る瞳と目が合った。
ぱちぱちと目を瞬かせていると、添えられた手が頬から首筋を伝い流れるような動作で頸に添えられる。
あぁ、これはいつもの始まりの合図だと、これから何が起こるか知っているマッシュの心臓がトクリ軽い鼓動を刻む。
近づく顔に、"今日はレインくんのお願い全部叶えてあげたいな⋯"と流されそうになった時に、ふと"お願い"の部分で何か大事なことを忘れているような気がして、何だっけ?と思い返してハッとする。
(あっ⋯僕、まだ、レインくんに言えてない⋯)
そう思った時には、重なりかけたレインの唇を指で遮っていた。
「何だ⋯」
眉間に皺を寄せて凄んでくるレインに少しばかり申し訳ないとは思いつつ、現在の時間としても誕生日当日の『今』伝えておかないと間に合わなくなってしまう。
去年のレインの誕生日は遅れた卒業式や無邪気な淵源との戦いの余波で積み重なってしまった神覚者の仕事で延期に延期を重ね、誕生日らしいお祝いができたのは一月ほど経ってからとなってしまった。それでも仲のいい人間が集まり、慎ましやかながらも祝ってもらっている本人が満足そうにしていたのでそれはそれで良かったと思っている。
ただ、あの時も何か伝えようと思っていて上手く言葉にできなかったことが、今なら伝えれるかもしれない。
昔、じいちゃんから教えてもらったのだ。
物心ついた頃に、毎年同じ日に誕生日だと祝ってくれるけれど、そもそも誕生日とは何なのかと聞いた事がある。その時に「大切な人が、この世界に生まれて来てくれた事を祝う日」だと教えて貰った。
それを、まだ僕はレインくんに伝えられていなかった。
だから、僕に少しだけ君の時間が欲しい。
「少し、待ってもらっても良いですか?」
物言いたげな視線は変わらないが、突飛な行動にも比較的寛容なこの恋人は言ってみろと促してくれる。
「レインくん、お誕生日おめでとうございます」
「あぁ⋯ありがとう。だが、それは来たときにも言ってくれただろう?」
物言いたげな表情から思案するような顔へと変わる。
「お前は何をしたいんだ?」とでも言いたげな顔をしているのに、マッシュの次の発言を待ってくれる彼は優しい。
確かにレインが言ったように、マッシュは玄関で出迎えられた時に祝いの言葉も言ったし、フィンと共に作った誕生日デコレーションのうさぎさんシュークリームも渡していた。
でも、いま伝えたいのはそうではないのだ。
「うん、でも⋯⋯あれは今のレインくんにだから」
何を言っているんだと疑問符を浮かべるレインを真っ直ぐ見据え、マッシュは言った。
恋人になってから、初めて二人きりでちゃんと祝えるこの祝福すべき日に、どうしても伝えたくなった言葉を。「君にまだ言えてなかったので」と弾みそうになる声を抑えて。
「まずは、十九年前のこの日に生まれてきてくれたレインくんに、生まれて来てくれてありがとう、ですね」
レインが目を見開き、息を呑んだのはわかった。
でも、伝えたい言葉はまだまだ沢山あったから、ここで言葉を切ったりはしなかった。
(フィンくんに相談して話したい事が決まってて良かった。そうでなければちゃんと言葉にできていなかったかも⋯)
「一歳と二歳のレインくんはどんなだったんだろう?きっと、元気いっぱいで可愛いかったんだろうな。そうしたら、その頃のレインくんには元気に過ごしてくれてありがとう、がいいのかな?それから、三歳のレインくんにはね、可愛い弟くんができて良かったねって。羨ましいくらいの素敵な兄弟になるよって教えてあげたいな⋯。僕ね、今のフィンくんとレインくんを見て兄弟って良いなって、すごく思うようになったから⋯だから、その頃のレインくんにも自慢の兄弟ができたねって言ってあげてたいなって⋯」
喜んでくれるかな?と問いかけようとレインを見て、なんの反応もない事を不思議に思い言葉を止める。
いつもの怒っていたり不機嫌な時とは違う眉の寄り方をしているレインの表情が、子供が拠り所を無くし不安がっているような、寂しさを堪えているようなそんな表情に見えてしまった。
(こんなレインくん初めて見た)
どうしよう⋯と思った時、フィンが話してくれた幼少の頃の話が浮かんだ。
『僕がね、不安に押し潰されそうな時とか、寂しくてどうしようもなくなって泣くとね、兄さまがいつも抱きしめて大丈夫って言って慰めてくれてたんだよ』と言っていた事が。
(そっか、こんな時は抱きしめたらいいのか)
マッシュは徐に手を伸ばした。
自分の幼少期に不安や孤独を感じた事は無かったけれど、じいちゃんに抱きしめて貰った時、酷く安心したのは覚えてる。それが君にも伝わればいい。そんな想いを込めて、レインの身体を力を込めすぎないようにぎゅうっと抱きしめた。壊れ物を扱うときのようにそっと、大切なモノを扱うときよりも優しくなるように。
優しい君へ伝わりますように、君の心にどうか届きますようにと精一杯の優しさを込めた声音で紡ぐ。
「フィンくんと、二人きりになってからフィンくんをずっと守ってくれてありがとう。僕なら、じいちゃんが突然いなくなってたらきっと今ここに居なかったと思うから⋯レインくんは凄いね。フィンくんを守ってくれて、フィンくんの為に生きてくれてありがとう。そんなレインくんが居てくれたお陰で、今のフィンくんが居るし、フィンくんと僕は友達になれたんだと思う。フィンくんは性格が優しいからかな、魔法も優しくってね、それでね、困ってるといつも助けてくれるんだよ。フィンくんのあの優しさって、きっとご両親やレインくんの優しさから生まれたんだろうね。二人のご両親の事は僕にはわからないけど、レインくんがとても優しい人だから、きっと、そうなんだと思う⋯」
フィンくんから、子供の頃にレインくんからしてもらった出来事を沢山聞いた。
「つらい事もいっぱいあったけど、そんな時はいつも兄さまが支えてくれたんだ」と。「きっと、兄さまは昔の自分のことは話したがらないだろうから、かわりに僕の知ってる優しい兄さまの話を聞いてね」とも⋯。
「僕の兄さまは不器用だけど、とても優しいんだ」と笑うフィンに、「そうだね」と同意すれば、「マッシュくんだけは分かってくれると思った」と言われた。
どうやら、この時初めて”優しい兄”を肯定してもらえた、らしい。
勿体無いな、と思った。
レインくん自身が自分は排他的で非情な人間だと思っている事も、自分が優しい人って気付いていない事も。
他の人からの印象はきっと関わっていくうちに変わっていく。少ししか知らないから、表面でしかその人を評価できないから勘違いをされてしまうが、レインを知る人達はちゃんと彼を評価してくれているのだ。だから、きちんと関われば、知れば変化するものはこの際置いといてもいい。けれど、本人の認識は本人が改めない限り変わることはない。それがもどかしいとフィンに言えば「兄さまだからね」と苦笑いされてしまった。
「でも⋯」と続いた声に、「なに?」と返せば、「マッシュくんが言ったら、少しは変わるかもしれないよ?」と言われた言葉。
(あの言葉に、どこまで期待しても良いのだろうか?)
知ってほしい、少しでも伝わってくれたなら嬉しい、そんな気持ちを込めた。
決して器用でも雄弁でもない自分にできる最大限を込めて。
「ねぇ、レインくん。僕と出会ってくれてありがとう。たくさん、助けてくれてありがとう。レインくんが色々と手助けしてくれてたのちゃんと知ってるよ、僕。それから、好きになってくれてありがとう。いつも忙しい中、一緒にいられる時間を作ってくれてありがとう。僕はね、そんなレインくんが大好き。だから、生まれてきてくれてありがとう。君が生まれてきてくれたこの日を、僕にとっても特別な日にしてくれて、ありがとう⋯」
普段、言わない事ばかりで、こんなに一度に喋ったのも人生で初めてかもしれない。
流石に、恥ずかしいなぁ、顔が見えなくて良かったと思った時だった。
力が抜け切ったような状態で抱きしめられていたレインの手がマッシュの背中に周り、グッと力を込めて抱きしめ返して来たのだ。
今までに無い強さの抱擁に、一瞬、絞技か?と場違いにも思ってしまったが、抱きしめられ触れ合った身体や腕から伝わるごくわずかな震えが違うと教えてくれる。
肩口に強く顔を押し付けられる度に、借りものの服の肩口だけが生暖かい水分を含んでいき、ゆっくりと浸透して肌まで湿った感覚を伝えてくる。
フィンが必死に堪えながら泣いていた時の姿に今のレインが重なり、やっぱり兄弟なんだなと思った。
(レインくん、泣かせちゃったな⋯)
決して声を出すまいと、堪えているのだろう。
時折、ギリッと奥歯を噛み締める微かな音と、堪えきれずに漏れる嗚咽が彼の不器用さを物語っている。まともに泣いたことのない人の泣き方。人の事を言えた義理ではないが、これがありふれた一般的な泣き方でない事だけはわかる。
ただ、それも仕方がなかったのだろう。物心着く頃には甘えられる大人は側に居らず、守らなくてはいけない弟がいては弱い姿を見せる事を彼が良しとするはずが無い。そんな状況で、頼られる事はあれど頼る事もできず、泣かれる事はあれど泣くことはできなかった。
出来ないこと尽くしだったレインくんが、やっと泣ける場所を見つけられたのなら、これほど嬉しい事はない。
嫌なら彼はとっくにこの場から出ていっている。それがないどころか、しがみつくように回された腕が”どこにもいくな”と言っているようで愛おしさが込み上げてきた。
(僕は、ちゃんと君の心の拠り所になれているのかな?)
多分、今、涙を流して縋り付いているのは十九歳の大人の階段を踏みしめ始めたレインくんでは無いのだと、なんとなくそう思う。泣き方を知らない、甘え方も不器用な子ども⋯⋯みたい、ではなくきっとそうなんだと。今この瞬間だけはきっと。
マッシュは肩口に埋まる頭を撫で、ぐずる子供をあやすように背中を一定のリズムで叩く。
これも、君が、フィンくんにしてあげてた事ですよ、覚えてますか?とは口に出さなかったけれど⋯。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
レインの身体の震えが治(おさま)り、嗚咽を堪えすぎたせいで荒くなっていた呼吸音も落ち着きを取り戻した頃。
縋るように回されていた腕が外れ、この数分で馴染んでしまった体温が離れていくのを少し惜しいと感じながら、緩慢な動きのレインを見やると不貞腐れた様子で軽く睨まれてしまった。
心中、複雑なのだろうけれど、そんな顔しても可愛いだけなのになぁと思ってしまう。
だが、このままというのもやや気まずいので何か和むような⋯と考えてレインの目元に着目する。
彼の大切にしている愛兎を引き合いに出せば、少しは場も和むかもしれないと軽い気持ちで「レインくんの目元、兎さんとお揃いですな」と言えば、ギッとさっきより強めに睨みつけられてしまった。
(話題、間違っちゃったかな?)
けれど、睨んでいるはずのその目から普段なら感じるはずの怖さもなければ、凄みすら微塵も感じられない珍しい様子に申し訳なさより楽しさが勝ってしまう。
レインくんがいつも仕掛けてくるいたずらで、もしかしたら同じように感じているのかも知れない。
それなら、確かに次もと思ってしまう気持ちがわかったなと、見つめ返したままの視線を緩めればレインが諦めたように一つため息を溢した。
「突然、どうしてこんな真似を⋯?」
(今しかないと思ったんですよね)
内心では即答だったのだが、そう言われたとしてレインは納得できないだろうなと、なんとか言葉を探してみる。
だが、即興で思いつくうまい言葉もなければ上手な説明だって出来そうになかったが、何か言わなくては彼は納得もしなければいつまでも追求してきそうだと必死に言葉を並べた。
「えーっと、レインくんの誕生日のお祝いをどうしたら喜んでくれるかな?ってフィンくんに相談しまして⋯⋯」
「それで?」
「⋯今まで考えてた事とか、思ってる事とか全部言ってあげたらきっと喜ぶと思うよって言ってて⋯。あのタイミングを逃したら言い出し辛いなぁって⋯それで、こうなってしまいました⋯」
うん、嘘では無い。ちょっとぼかして、内容をかい摘んだけれども。
フィンくんに相談したのも、あのタイミングしか無かったと思ったのも本当。
ただ、泣かせるつもりは⋯なくも無かった⋯。
まさか本当に泣かせてしまうとは思っていなかったのだけれど。
フィンくんに相談したときに「できたら兄さま泣かしてきて!」と言われ、「どうやって?」と困惑したのは記憶に新しい。
一瞬、新手の兄弟喧嘩の仕方なのかと心配もしたが、すぐさま本人が否定をし「あの人は僕の兄だから。弟の前で弱いところを昔も今も見せようとはしないんだよ。だからね、あの人の弟じゃ⋯僕じゃダメなんだ。だから、マッシュくんにお願いしたい」と真っ直ぐに見つめられ、いつになく真剣な面差しで”お願い”というフィンにマッシュは気付けば頷いていた。
親友のお願いなら叶えてあげたいけれど、「あのレインくんを泣かせられるとも思えないんだけど」と自信なく言ったマッシュにフィンは確信があるようで、マッシュくんならできると強く後押しされてしまった。
「マッシュくんが、さっき兄さまに伝えたいって言ってた事をそのまま言ってくれるだけで大丈夫だから」
そんな事だけでいいのだろうか?と疑問は尽きないけれど、難しいことを要求されてもきっと出来ないし、フィンがそれでいいと言うならと「わかった」と返した。
マッシュの返答に一安心したのかホッと息を吐くと、フィンが小さな声で「⋯それとさ、もし兄さまが泣いた時はいっぱい甘やかしてあげて、兄さま、そういうのされた事無いんだ。⋯いつも、僕にしてばっかりだったからさ」と続いたフィンの声はどこか悲し気だった。
自分に出来ないことを人に託すのも勇気のいる行動だと思う。
浮かない表情が崩れないのは、フィンが複雑すぎる心情を抱えているからだろう。
少しでもこの兄想いな優しい彼の心が晴れるならと、フィンの手を取り「僕にやれる範囲で頑張るから、任せて」と力強く宣言すれば、やっと普段通りの柔らかな笑顔が返ってきた。
その笑顔を見てフィンのためにも頑張らねばと気合を入れていたのだが⋯。
一応はフィンくんのお願いを叶えられた形にはなったはずだし、やましい事などはない、のだが⋯レインが無言でじっと見続けてくるから視線が泳いでしまった。
断じて、やましい事などはないが視線を戻せないままでいたら、またレインからため息が聞こえた。
ただ、ため息にしては重苦しさが感じられないそれに、引き寄せられるように視線を戻すと”憑き物でも落ちましたか?”と言いたくなるようなレインの顔がそこにあった。
レインは、しばし言い淀み唸った後、決まりが悪そうにしながら話しはじめた。
「⋯人間、嬉しすぎたり感極まっても泣けるもんだって、初めて知った。⋯嬉しかった。ありがとう」
(あの、レインくんが!こんなこと言ってるよ!フィンくん!!)
思わず、心の中でフィンへと報告してしまうくらいの衝撃だった。
「⋯はわわっ!レインくんが素直!!」
「今日くらいはな⋯」
(あぁ、この可愛くない可愛い返しは、いつものレインくんだ)
やっと調子が戻りつつあるらしい。
だけど、怠そうにしている姿と瞼が閉じそうになるのを堪えている様子を見るにかなり眠そうだ。
フィンくんがめちゃくちゃ泣いた後は眠くなって仕方がないと言っていたから、レインくんも同じ症状を体験しているのかと珍しすぎる様子をしげしげと観察してみる。
(あっ⋯眠いの堪えて瞬きの回数が増えるのフィンくんと似てる。でも、眠すぎるときに眉間に皺が寄るのはお兄ちゃんに似たんだフィンくんは)
なんだ、似てるところあるじゃないか。周囲の似てないと言う人たちは見つけられてないだけ。
他にもあるかな?と観察を続けようとしたら、レインと目が合った。
何か一瞬迷ったようだったが「⋯寝るか」と予想していた通りの言葉がレインから出て、「そうですね」と頷き返しはしたが、マッシュには寝る前にしておきたい心残りが一つあった。
(レインくん、ちゅーがお預けのままなの忘れてやいませんかね?遮ったのは僕ですが、待ってほしいと言っただけで、やめてほしいなんて言ってないんですけど?いいんですか?しないままでも)
言ってみようかとも考えたが一旦思いとどまった。
以前に一度だけ自分からレインへキスしようとしたことがあったが、その時に勢いをつけすぎて盛大に流血させてしまい自分からキスする事は諦めていたが、今一度チャレンジしてみるべきだろうか?
それと、フィンくんの言っていた「甘やかしてあげて」はこれにも適用されるのだろうかとふと考える。
普段はしてもらってばかりのことを、自分から⋯⋯。自分がしてもらって嬉しいことを、君にも⋯⋯。
(ダメだったら謝ろう。レインくんなら許してくれる)
「⋯あの、レインくん⋯ちょっとこっち向いてください」
不思議そうにしながらも言葉通りにこちらへ向けられた顔にそっと手を伸ばす。
レインの唇の端に親指が触れるようにマッシュは頬に手を添えた。
(自分の指に触ってからなら距離感も見誤らない、と、思う。ゆっくり近づきさえすればぶつかったりもしない、はず⋯)
考えがまとまり、距離感を見誤らないようにと視線をずらせばレインの見つめてくる視線とぶつかった。
じっと見つめてくる視線に”あんまり見られると恥ずかしいんだけどな”と思いながら、目を閉じ、そっと、そっとと顔を近づける。
レインの口端に添えた親指に自身の唇が触れたのを確認してから、指をややずらし、レインの唇と己のそれを触れ合わせた。
(うん、ぶつかってない⋯それから、いつもレインくんは⋯)
触れ合う唇の感触を確かめてから、いつもレインがどうしてくれていたのかを反芻し、その行動をなぞるように動く。
一度、唇同士が微かに触れ合う距離まで引いて、下唇をなでるように唇だけで食(は)んでみせる。
それを、何度か繰り返す。
そんな恋人同士の触れ合いとしては軽い小鳥の戯れのようなバードキスは、ディープキスにやや苦手意識を持ってしまったマッシュにレインが合わせ、定着していったものだ。まあ、お互いに盛り上がりすぎてしまえばその限りではないのだが⋯。
口づけの合間に無性にレインの顔が見たくなり、薄目を開ければレインの見開かれた瞳とかち合う。
(ちゅーする時は目を閉じろって、レインくんが言ったのに、キミはいいんですか?)
ちょっとだけムッとしたので、抗議の意味合いも込めて下唇に吸いついてみた。
本当は甘噛みでもしてやろうかと思っていたが、下手をすれば第二の流血事件となりかねないので譲歩したのだ。
感謝していただきたい。
唇を離し、一応念の為とレインの唇に傷が無いかを指でなぞって確認してみた。
(うん、大丈夫。ちゃんとできた、はず)
だが、一向にレインからの反応がない。
あれ、やっぱり何か失敗したのだろうか?と不安になり、試しに自分の唇も指でなぞり確認するが、やはり傷などはない。
何がダメだったんだろう?とレインを伺う視線は自然と上目遣いになっていた。
(そういえば、フィンくんが失敗してもとりあえず笑っとけば兄さまは絆されてくれるって言ってたな⋯僕のも効くかな?)
ごめん、失敗しちゃった、テヘペロ!の精神で試しに笑ってみた。
表情筋がどこまで働いてくれたかはわからないが、体感では口の端は持ち上がっていたと思う。
それでも、やっぱりまだ動いてくれないレインくんに、これはヤケクソになるしかないかと腹を決め、テヘペロ、めんご!の精神で発言してみる。
「おあずけのままだったので僕からしてみました。それから、レインくんの真似っこもしてみたんですけど⋯」
(盛大に失敗してしまったみたいなんですよね。慣れないことはするものではありませんな⋯)
「⋯⋯っ!⋯起きたら、覚悟しておけよお前⋯」
思わずといった感じで目元を手で覆うレインに、「これは大層ご立腹でいらっしゃる」と震えるマッシュに「違う、そうじゃない」と突っ込んでくれる人は誰もいない。
もしもこの場にフィンがいたなら、今すぐ逃げてとマッシュに助言を出していただろうがそれもない。
レインの葛藤など欠片ほども理解しないまま、マッシュはレインの横へ転がり「おやすみなさい」と言って先に目を閉じる。
こうしてしまえば、レインもすぐに眠ってくれるのではないかと思っての行動だ。
フィンから聞いた話で、これは僕がするには難しいなと思っていた事があったのだが、今日ならできるかもしれないと思って試してみたくなった。
なにかあった夜でも、そうでない夜でも、いつもマッシュはレインよりも先に寝ついてしまう。マッシュがレインより長く起きれていた事など今までなかったから、だいぶ先か出来ないだろうなと半ば諦めていたのだが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
意識して呼吸数を減らし寝つきのいい人間を演じてはみたが、果たしてこの狸寝入りがレイン相手に通じるのだろうか?と思っていた心配もレインが「おやすみ」とマッシュに囁いてすぐに横になった事で杞憂に終わる。
それからそう時間も経たずに、寝ている人間特有のゆっくりとした呼吸音がレインから聞こえ始めた。
念の為と少し間を空けて小さな小声で「レインくん⋯」と呼びかけてみる。規則的な呼吸音に乱れもなく、呼びかけに返事が無いことへの安堵と「本当に寝てるんだ⋯」と謎の感動を覚えたけれど、目的はまだ達していないのだと意識を戻す。
手を伸ばし、レインの二色に分かれた髪へとそっと触れ、頭の形へ沿うように繰り返し撫でた。普段レインが触れてくれる感覚を思い出しながら、手触りの良い髪の上に指を滑らせた。
(うん、これがしてみたかった⋯)
普段なら手が触れた段階で目を覚ましていたかも知れないが、今は目を覚ます気配もない。
ずるいタイミングを狙ってしまった事だけは申し訳ない気もする。けれど「僕が泣き疲れて眠る時にね、兄さまはいつも頭を撫でてくれてたみたいなんだよね。たまたま意識があった時に気づいたんだけど⋯。それで、頭を撫でてもらって寝た時って悪い夢も見ずに寝られてたんだ」と、フィンくんから聞いた話からするとたぶん同じような状況だと思う。
フィンくんも最初は知らなかったのだし、君もまだ知らないままでいい。
今はまだ気づかないまま、悪い夢に囚われることなく眠れていたならそれだけでいい。
君がしてくれたことは僕たちがちゃんと知っているから。
寮を出てくる際に、フィンには念押しされていた。
「マッシュくんは任せてって言ってくれたけどさ、僕のお願いはできたらでいいから、無理はしないで。マッシュくんのやりたいようにやってきてね?それと、万が一でも兄さまから何か嫌なこととかされたら必ず教えて。マッシュくんを傷つけるような事があれば僕は兄さまでも許さない。僕としては、マッシュくんに兄さまを預けてるんじゃなくて⋯⋯ぼ・く・の・大事な!親友を!!兄さまに預けてるだけだから。僕はマッシュくんの味方だからね?」と、そう言って送り出してくれていた。
さて、やりたい事をやった上で、大事な親友のお願いもちゃんと叶えられたと思う。
次に会ったときに、君のお願いちゃんと叶えられたよって教えたらフィンくんは喜んでくれるだろうか?
そうだといいな⋯⋯。
レインはもちろん一番好きだけれど、マッシュにとってフィンの事もレインに負けないくらいに大切な存在なのだ。だから、二人に悲しい顔はさせたくない。今まで苦労した分、これからは幸せでいてほしい。それで、二人の描く幸せの傍(かたわ)らに自分の姿があるなら嬉しい。そう思いながら手を引くと、今度こそ眠るために目を閉じた。