「歯医者」「変態」「マントヒヒ」山のふもとに歯医者があった。チビの頃は年に一回検診に行った。歯医者の隣には卵と野菜の無人販売所があり、週に一度、晴れた日には坂を下り買い物に行くのが俺の大事な役目だった。俺を送り出す父さんが「初めてのおつかいだなぁ!」と笑い、「全然初めてじゃないじゃん」と言って出発するのがお約束だった。
無人販売所というのは看板にそう書いてあったからだ。父さんの喋る声と同じ調子の、デカくて太くて勢いのある字の看板だった。けれども、そこにはいつもお婆さんがひとり座っていた。看板に偽りありだ。大ありだ。座っているお婆さんの顔は皺くちゃだった。図鑑に載っているマントヒヒを思い出したが、もちろんそのことを伝えた記憶はない。ヒヒ婆さんは色があせた小花柄のシャツに紺色のチェックのもんぺを着て、擦りきれた草履を履いていた。毎回同じ服だったように思うのだけど、俺の記憶違いなのか、それとも本当に同じ服ばかり持っていたのかは分からない。
「こんにちは」と挨拶するとヒヒ婆さんはこっくり頷く。そうしてこちらを見ずに「いい天気」と呟く。俺は、山の全部に響くようなクソバカデカ声で挨拶する人と暮らしているから、ヒヒ婆さんの挨拶が不思議だった。でも嫌ではなかった。父さんはあの声だから特別なんだ、って思えたから。
「豆あるよ」とヒヒ婆さんが言う日は、野菜の隣に豆菓子が置いてあった。豆菓子はタダだった。甘いやつの日も、辛いやつの日も、コーヒー味の日もあった。金平糖の日もあった。可愛い星型の飴に俺が嬉しそうにすると、ヒヒ婆さんは「虫歯になったら怒られるからな」と注意した。歯医者の隣で虫歯の話をするなんて。そう思ったが、よく考えたら歯医者のおばさんは、皺はなくともヒヒ婆さんになんとなく似ているのだった。どう考えても家族だ。そして大人になってから思うに、あの家族は六平の関係者だったのだろう。ただの歯医者にしては場所が悪すぎるし、婆さんは勘が良すぎた。怪しいにもほどがある。でも、もう確かめることはできない。あの日に歯医者も襲撃されたからだ。
山のふもとに歯医者と無人野菜販売所があった。俺はそこまでならひとりで行っても良い場所だった。
ある朝、目が覚めると頭が痛かった。違う、耳が痛い。それも違う、歯が痛い。右の奥歯と付け根が火の棒でいじくり回されてるみたいにギリギリと痛んだ。布団から出ない俺を父さんが見にきたのは覚えているが、その後、何をどうしたのか記憶が曖昧だ。気がついたら柴さんに手を引かれ、山道を下っていた。
柴さんがクソバカデカ声で知らない歌を歌いながら隣を歩く。いつもは大好きな柴さんのデカ声が歯と頭に響く。痛いよ。柴さんの歌が痛い。
口に出して言ったつもりはなかったけれど、柴さんは急に歌うのをやめた。それから俺の顔を覗きこんで「担いだ方がええか?」と聞いてきたので、力一杯首を振った。首を振ると歯と頭が痛んだ。こっそり泣いたけど、柴さんには内緒だった。だって俺だって男なんだ。
でも、歯はずっと痛かった。喋ることもできず、柴さんの乾いた手を握りながら、黙って山を降りた。痛みの波がくるたびに、握る手が強くなる。その手を握り返してくれたのを覚えている。彼の握力が強すぎて指がもげそうだったが、それでも良いと思った。柴さんがそばにいてくれるのを感じていたかったから。
歯医者では明るい光に包まれた。目を開けていられないのであたりの様子が分からない。頭は痛い。歯も痛い。ヒヒ婆さん似のおばさんが話しかけてくるけど、よく分からない。そうこうしているうちに歯茎に注射され、それからは、鍛冶場でも聞いたことがない、鋭く甲高い、怖い音がして何も分からなくなった。
「アイスでも食べるか」
ヒヒ婆さん似のおばさんにお金を払い、柴さんは再び俺の手を握った。もう、歯も頭も痛くなかったので、手は握り返さなかった。勿体無い、という気持ちがよぎったけれど、俺だって男だからひとりで歩ける。ちょっと勿体無いけど。
「うん」
「アイスええよなあ!ソフトでもええか!」
「一緒じゃないれすか」
「チヒロ君、かわいい喋り方やん!」
「うるさいれす」
麻酔で痺れた顎と唇はおもったようには動かない。もういい歳の男なのに、舌足らずになっている自覚はある。せめて、柴さんには突っ込まれたくなかったのに、早速いじられた。面白くないので、黙って柴さんの隣を歩いた。家には帰らないので山から離れ、街の方へ向かう。少し行くと商店がある。柴さんは店外のボックスに手を突っ込み、ソフト型アイスを取り出した。ジャジャーン!
「これ食お!」
柴さんが元気いっぱいに叫び、アイスを空に突き上げた。
柴さん、それまだお会計してない商品ですよ。
でも、突っ込みはせず、柴さんの笑顔に素直に頷いた。柴さんはニカッという効果音が聞こえそうなくらい大きな笑顔で頷き返し、アイスを二つ持って中に入った。よかった。あんなに笑うなら素直に頷いて正解だった。本当はチョコがいいと言うか、少し迷ったのだ。
ベンチに腰掛け、柴さんを待つ。空は青く、雲がいくつか浮いていた。晴れてるなんて、朝は全然気がつかなかった。そういや、ヒヒ婆さんの前を通ったはずなのに、挨拶しなかったな。
「食うでェ!」
当たり前の掛け声をかけ、柴さんはベンチに腰を下ろした。遠慮なく体重をかけられたベンチからはドカッと大きな音がした。大股開きで口を大きく開け、アイスを放り込む柴さんは楽しそうだった。
俺も食おう。
柴さんに買ってもらったアイスの包みを開き、顔に寄せる。冷たくて甘い香りがする。食べる前のいい香りが好きだった。特に冷たいものから漂うツンとした香りがいい。みんな分からないというけど、冷たさにも香りがあると思う。
「溶けるで」
一生懸命、冷たさを嗅ぐ俺を柴さんは愉快そうに笑う。
「柴さんみたいに二口で食べちゃったら勿体ないでしょ」
「次は一口やで!」
偉そうに胸を張る柴さんを横目に、俺はアイスに舌を当てた。柴さんの言うように、溶けて白い液が垂れそうになっていたから。
アイスは甘くて、なめらかで、冷たかった。舌の半分はそう感じた。
麻酔で痺れた唇が上手く動かない。味も冷たさも半分しか分からない。口の左側だけで食べようとしても、溶けかけたアイスが傾いて、液がどんどん垂れていく。ああ。上手く食べられない。
「チヒロ君」
振り向くと、口が伸びていた。柴さんに唇を掴まれているのだ。俺の伸びた粘膜と、唾液とクリームに塗れた柴さんの太い指が見える。濡れた指は日光を浴びて、てらてらと光っていた。
「唇、うまく動いてへんで?」
引っ張られた唇は痛みを感じない。が、痛み以外の何かを俺は腹の奥に感じていた。
最近、キスをしながら、歯医者に行った日のことを思い出す。
あの日の自分は明らかに快感を感じていて、夜になっても掴まれた唇のことばかり考えていた。引っ張られた唇の感触を思い出すたびに、柴さんが欲しくて胸と股間が疼いた。もう一度、麻酔を受けられたらな、と思うのだが、丈夫に育った俺の歯は、あれ以降虫歯になることはついぞなかった。
「くちびる、引っ張ってください」
「ええよ」
情事の最中に柴さんにお願いしたことは、断られることはない。たぶん、首を絞めてくれ、と言ってもためらいなく実行してくれるだろう。それは、もう少し先に取っておくのだけど。
キスの合間に、唇を引っ張られ、噛まれているのを楽しむ俺を、柴さんは笑って見つめていた。
「チヒロ君、変態やな」
そういって、口端を上げ、女王のように俺を見下ろし陰を含んだまま笑う。
歯医者の帰りに初めて唇を引っ張られた時も同じ顔をしていた。
それが好きだ。その顔が。
さあ、柴さん。揶揄うように笑って。そしてキスして。
〆