ビールでええんちゃう「あっ!きたきた!チヒロ君きた!」
騒がしい店内を覗き、入口で戸惑っていた俺を、薊さんは手を上げて呼んだ。
「とりあえず、座りな」
薊さんは俺をスマートに引き寄せ。座ったのと同時にメニューを渡した。流れるような無駄のない動きだった。
「なんか飲む?」
「ビールでええんちゃう?」
「柴はちょっと黙っておきなよ。ビールでいいなら、これは来たばかりで誰も口をつけてないから飲みな」
受け取ったジョッキを口に運ぼうとして、薊さんに止められた。ちょっちょっちょっ、ちょっと待って。
慌てて机の端から飲みかけのグラスを持ってきた薊さんは、それを俺のジョッキにコツンと当てた。そうか、これが乾杯ってやつか。
「乾杯。大晦日に急に呼び出してごめんね」
「いえ、予定ないんで」
「柴がさあ、まだギリギリ自力で歩けるうちに連れて帰ってもらえると助かるんだけど」
「分かりました」
元から電話で聞いていた内容と同じだったので、素直に返事をしただけなのだが、薊さんはちょっと呆れた顔をした。
「俺が呼んだのにこんなこと言うのも変だけど、柴をあんまり甘やかさなくてもいいんだよ?」
「別に甘やかしてないですよ」
「柴なんて勝手に酔い潰れとけばいいんだけど」
奥の机で昔の仲間だという人たちと騒ぐ柴さんは、子供っぽい仕草でふざけていたが、俺にはかえって大人に見えた。俺の知らない過去があると思い知らされる。
「でもまあ、明日は正月でみんな休みだし、店の人に迷惑かけてもね、よくないし」
ごめんね、と薊さんは俺に手を合わせて拝んだ。本当に気にしてないんだけど、しきりに謝る仕草にこの人の仕事の大変さをみた気がした。普段、こうやって色んな人に謝りながら気を配って生きているのかもしれない。神奈備なんて、組織なんて面倒くさいことばかりでクソやって柴さんは言うけど、薊さんには薊さんのやり方と考え方があるのかもしれなかった。この世は本当に俺の知らないことばかりだ。
「チヒロ君、酔ってる?」
「いえ」
「やっぱ六平の息子やなあ」
俺の肩を杖みたいに支えにしながら、柴さんはよろよろと歩く。かわいいと思う。そして全部、昔と同じだ。弱さと可愛げを隠さないところも、俺に「酔ってる?」と聞くところも、父さんと比べるところも。ふざける空気にまぎれ、ちゃっかり甘えてくるところが、少しずるい。でも、子どもの頃は父さんと柴さんが飲んでふざけあっているのを遠くから眺めているだけだったけど、この歳になれば、この人の支えになることもできるのだ。
柴さんの腰を抱き、よろける彼を支えた。筋肉が熱い。本気の酔っ払いって重くて熱い。稽古で組み合う時はこんなに重いとは思わなかったから、手加減されていることを知る。ついさっき、大人になって良かったと思ったばかりだったのに、やっぱり未熟者扱いされていることを思い知り、落ち込んだ。そうやって、この人の言動に一喜一憂しているしていること自体が、子どもっぽく、一層自分に腹が立った。
「柴さん」
「ん?」
「来年は俺も一緒に飲みます」
「あかーん!」
警報みたいにバカでかい声量だった。柴さんは昔から、酔っ払うと格段に声が大きくなる。
「なんで?」
「未成年やし。きょうはぁ、とくべつや」
なんで未成年だけハッキリ発音するんだよ。うるさいな。
「じゃあ、柴さんと二人きりの時だけ、酒を飲みます」
口にしてから、俺はこれが言いたかったんだなと気づく。我ながら子供っぽい。くっそ。
「なんやそれ。俺とおったら未成年ちゃうんか」
ふふッと笑った柴さんは全く真剣には聞いていなかった。
「ええよ、こんど、そのうち、ふたりんときな」
落としてからあげるこの人のやり口に、分かっていても沸き立ってしまう。ずるい人を俺は好きだなと、改めて感じた。
「柴さん」
来年は、成就しましょうね。
言おうとしたが、今言うのは違う気がした。成就なんて毎時間毎分毎秒願っている。明日にでも、今からでも毘灼を滅したい。
「柴さん」
何を言うべき分からなくなり、また名前を呼んだ。
「柴さん」
俺が呼んでも柴さんは応えない。ふらふらと歩くだけの柴さんの腰をギュッと抱いた。
いい匂いがする。煙草と、酒と、香料っぽい甘い匂いが混ざった大人の匂いは、昔から変わらない心騒ぐ匂いだ。苦さと甘さを同時に浴び、心どころか、頭や股間がもぞもぞと熱くなることに気がついたのは、少し前のことだった。この人はずるいまま変わらないのに、俺は少しずつ変わっていく。
遠くで「あけましておめでとうございます!」という掛け声が聞こえる。飲み屋の大将だろうか。その声で年が明けたことを知った。柴さんを見上げると、目が半分閉じていた。寝ながら歩いているらしい。可愛い。そしてやっぱりずるい。年が変わったところで、別に何も特別なことは無いな、と思い直し、そのまま柴さんを引きずって家に帰った。
〆