俺の前からひらりと去っていった「秋斗!晩ご飯には帰ってくるんでしょ。七時だからね」
「あー、たぶん、大丈夫」
「多分やなくて、ちゃんと帰ってくるんやで!正月くらいウチでご飯食べや!すき焼きやで!」
へいへい、と適当に返事をしながら、秋斗は靴の爪先をならした。とんとん。
「出かけるんか」
「お前には関係ないやろ」
「質問したらあかんのか」
苛立った夏彦が壁を叩いた。面倒くさそうにしていた秋斗は、糸目の笑顔に切り替わった。言い争うつもりはないらしい。
「シニア時代の奴らとマクド行くだけや」
「東京やったらお前もマックって言っとるんやろ。ウザ」
夏彦はなにやら嬉しそうなニヤけた声で煽った。
「マックなんて言うてへんわ。そもそも、寮以外で飯なんか食わんやろ」
お前もそうだろ、という意味がにじんでいたが、夏彦は言外の質問を無視した。
「まあ、せいぜい遊んできたらええやん。東京の奴らよりはおもろいやろうし」
「東京の奴らかて、お前よりはおもろいわ」
「アホ言いなや、ボケカス。俺がいちばんおもろくて、俺がいちばん強いやろ」
そうやなあ。秋斗は気乗りしない相槌をうち、ドアの取っ手に手をかけた。本当に出かけるらしい。まあ、勝手にどっか行ったらええねん。
「そうや、『かなめけい』って知っとるか?」
秋斗は踏み出した足を止め、唐突に質問した。
「なんやそれ。美味いんか?」
「…………考えようによっては美味いかもしれん。夏彦お前、天才やな」
「俺は天才なんは日本中みんな知っとる。分かってへんのはお前だけじゃ」
秋斗が何を言っているのか分からず、腹立たしい気持ちがただただ募る。苛立ちをその原因にぶつけようと殴り掛かった瞬間、秋斗はひらりと外に出た。
「要圭はキャッチやぞ。東京かておもろいやつはおるからな」
それだけ言い捨て、秋斗は廊下を駆けていった。あの方向なら階段を下りたはずだ。追いかけて追撃をくらわそうかとも思った。が、出掛けに見せた笑顔を思い出すと、勢いは急速に萎えていった。細い目の奥で輝く瞳は、興奮で青く光っていた。簡単に言うと嬉しそうだったし、楽しそうだったし、綺麗だったのだ。ムカつく。なんだあの顔。腹たつやろ。
腹の中は煮えくり返っていたはずなのに、脚はまったく動かなかった。石のように重い。感情が筋肉に直結している夏彦は、怒りで動けなくなったことなどない。腹が立てばその分動いて発散する。なんなら暴力で解決する。それだけだ。それなのに、どうして動けないでいるんだろう。
分からない。
分からんもんは気にしても仕方ない。
とにかくだ。
あいつが返ってくる前に、この家の肉は俺が全部食べたんねん。
「お前、清峰なんかにビビっとんの?カスはやっぱり気にすることがみみっちいやん。
すき焼きの後はアイスが出た。今年から息子が二人とも実家を離れ、寮に入ってしまったからか、それとも正月だからか、はたまた単に母が食べたいだけだったのか、贅沢にもハーゲンダッツだ。
「清峰?」
「お前、自分が昼間言うたことも忘れんのか。アホすぎるやろ」
「ああ、お前、自分で調べたんか。かなめけい」
クスっと笑った秋斗の瞳がキラリと光った。昼間と同じだ。ムカつくな!
席を立って走り出したかったが、視界の端にアイスが映り、上げた腰をまた下ろす。ハーゲンダッツは完食するやろ。さすがに。
「まあ、今年は東京大会もちゃんと見ときや。おもろいもん見れるから」
そう言って、秋斗は俯き、アイスに集中した。
夏彦も、言いようのない腹立ちを全てアイスにぶつけてやった。
だから、かなめけいって何やねん。そないにおもろいもんなんか。俺がそれを奪ったる。もしくはそれを潰したるから。
野球でおまえを追い越したみたいに。
「兄弟揃って試合前に陽動作戦か?」
甲子園のトイレで見かけた要圭は東京もんらしく真面目腐ったスカした真顔でこちらを見つめた。なんなら少し小馬鹿にされているような気もする。弱いくせにムカつくな。小物はもっと怯えたらええねん。
「なんやねん、陽動作戦て」
「お前の大事な兄貴も東京の決勝前に声をかけてきたって話だよ」
あれはあれで、今思えば面白かったけどな。要は小さく何かを呟いたが、よく聞こえなかった。
「大事なってなんやねん!俺はあのカスのことなんかいっこも気にしとらへん!今年も結局、甲子園には来いひんかったしな!」
「ふふっ」
要は急に愉快そうに吹き出した。こいつ、絶妙に腹立つやっちゃな。
「お前に作戦なんて無さそうだもんな」
「はあ?馬鹿にしとんのか?」
「違うよ」
「ふざけんなよ!」
糸目の作り笑顔でを吐く男に怒りを覚え、壁を叩く。タイル張りの壁はドンと鈍い音を立てた。
「いいのか?今日、先発なんだろ?指は大事にしろよ」
壁に打ち付けられたまま固まった拳を。要は無駄のないスマートな動きで捕らえた。夏彦は身構えたが、要はそっと拳を下ろした。ポンと桐島の手に軽くタッチしてから、元に戻った。キモいな。
「おまえ……」
「なんだ?」
糸目の作り笑顔を崩さず、要は問い返す。腹の底が読めない。こんなやつ、他におらん、と思ったところで頭の隅によく知った男がよぎった。
「お前、カスににとんな」
「カス?ああ、桐島さんか」
強引に投げつけられた感想も、動揺せず受け流すところも秋斗を思わせた。本当に、腹が立つ。
「『似てる』って言われたのは初めてじゃない」
「あ?」
「弟にも判定されたんだから相当だな」
なぜだか嬉しそうに口角を引き上げ、惚気るように目尻を下げた要は、先ほどまでとうってかわって可愛らしかった。色っぽいとまで言ってもいい。
うるせえ、黙れ、カスの話はお前がするな!
そう思った直後、夏彦は要を壁に押しつけ、ついでに唇も押しつけていた。
はあ?
そんなことをするつもりなど一ミリもなかったというのに、現に自分は要と唇と唇を合わせているのだから、意味が分からない。
どうしよう。舌とか入れるんかな。いや、そんなことより早く離れなあかんやろ。てか、試合どうすんねん早う戻らな。
混乱した頭の中を、脈絡のない思想が錯綜する。
にゅる。焦っても動けないでいる夏彦の口の中に、ぬるりと温かいものが侵入してきた。やばい。そして気持ちいい。
要の舌は夏彦の咥内をゆっくりとなぞり、舌をねっとりと執拗に絡めた。要に舐め回されるたびに、夏彦は絡まっていた思考がひとつずつ解されていき、代わりに少しずつ快感に侵されていった。こんなに気持ちいいなら、このままぶち犯してえな、と股間を熱くした瞬間、要の舌は夏彦の中から去っていった。残されたのは、呆けた自分だけだった。
「キス下手じゃないか?」
気づけば要は糸目の作り笑顔に戻っていた。口にした台詞は辛辣なのに、事務的な印象が拭えない。投球フォームがおかしい、と注意するときと同じような口調だった。もしくは、学級委員長だ。
「なにごとも練習だろ?実践に持ち込む前に、練習した方がいい」
夏彦が無礼にも強引に実践に持ち込んだことは問わず、要は忠告を続けた。なんだこいつ。人形か?意味わからねえ。
「はあ?練習?相手もおらんのに?」
ふ、と要は笑った。仮面のような顔を崩し、堪えきれないように、小さく。素顔を見せた要から、目が離せない。愉快そうに、目尻を柔らかく垂れている姿は、可愛らしいと言えなくもなかった。先ほどと同じだ。
「俺のキスは上手かったか?」
「は?」
「うっとりしてたもんな。気持ちよかったんだろ?」
「てめえ」
「俺が誰と練習しているか聞きたいか?」
絶句している隙に要はひらりと逃げていった。眇めた目から覗く瞳は興奮で淡く光っていた。
試合が終わったら教えてやるよ、と言っていた気がするが、あいつとは二度と口をききたくなかった。次は、喋る前に殺してやる。絶対だ。
〆