復縁ごっこ/百々秀 時刻は午後九時を過ぎたところ。リビングの方からは、テレビを見ながら談笑をしている祖父母の楽しげな声が聞こえてくる。
明日は学校も仕事も休みだ。今日は夜更かしをしても問題はない。先日から始まったソシャゲの期間限定イベントに参加するべく、秀はベッドの上に置いてあったスマホを手に手を伸ばした。その瞬間、画面が急に明るくなり、軽快な着信音と共に、バイブ音が静まり返った室内に響いた。
「うわっ! びっくりした……」
突然の出来事に秀は思わず大きな独り言を漏らし、小さく跳ねた心臓に手を当てる。画面を覗き込むと「百々人先輩」の文字が表示されていた。
「はい、もしもし」
『あっ、しゅーくん。久しぶりだね……、急に電話しちゃってごめんね』
「いえ、俺は大丈夫ですけど……」
電話をとると、いつもと変わらない百々人の声が聞こえた。百々人から急に電話がかかってくることは時々あったが、今日はなんだか様子がおかしかった。秀は百々人の「久しぶり」という言葉が引っかかり、記憶の引き出しをいくつか開いていく。
秀の記憶が正しければ、百々人とは昨日事務所で会ったばかりだ。昨日会ったばかりの相手に”久しぶり”と言う言葉を使うのはおかしいというか、表現として間違えているのではないのだろうか。百々人は時々おかしな事を言って秀を揶揄ってくる時があるが、今日もまたその類だろうか。
「あの、先輩、”久しぶり”って何ですか? 俺ら昨日会いましたよね?」
『うん、昨日事務所で会ったけど、急にキミの声が聞きたくなっちゃって……、元気にしてたかな?』
「はぁ」
会話を進めながら、秀は百々人の言動がおかしい理由について、大方予想がついてきた。昨日、百々人と事務所であった際に百々人が出演するドラマの撮影が始まったという話を聞いていた。
百々人の演じるのはヒロインの友人役。作品の内容は恋愛ものではあるが、百々人は女性キャストとの恋愛シーンには関わらないと聞いて、恋人である秀は内心ほっとしていた。とはいえ、今後、秀自身にも、百々人にもそのような仕事が舞い込んでくる可能性があり、仕事だとは分かっていても、その時に心の準備ができるかは分からない。
自分がもう少し大人であれば、なんてことを思いながらも、秀も百々人もまだまだ青春を謳歌しているような歳だ。映画やドラマで他人の恋愛シーンを見ても、そこまであれこれは考えたことはなかったが、知り合い、ましてや自分の恋人となると、それが仕事であってもなんだか引っかかるものがある。それに、百々人の先ほどの言葉は、まるでかつての恋人に話かけているような台詞であった。
秀はまだ演技の仕事については詳しくはない。キャストの起用から実際の撮影までに台本が変更がなされることもあるだろう。百々人がそのドラマへ出演する事が決まったと聞かされたのは二ヶ月ほど前。百々人から演じる役について聞いたのも、その時だった。百々人の役に恋愛シーンが絡む事はない、そう聞いていたが、変更があったのかもしれないし、百々人が恋人である秀に心配をかけまいとそう伝えていただけなのかもしれない。
秀の頭の中にはいつの間にか、百々人が知らない女性と恋に落ちていく様子が浮かんでいた。いつも自分の頭を撫でてくる彼の手は、その女性の長い髪を梳く様に優しく撫でていた。優しくも、時には少し強引に抱き寄せてくるその長い腕は、彼女を包み隠す様に抱きしめていた。その時、秀の頭の中で、百々人の隣にいるのは自分ではなかった。本当の恋人は、そこにいるべきは自分であるはずなのに。醜い嫉妬が秀の思考回路に靄をかけていく。
以前の秀であればこのような、まるで他人に振り回されているような感情の処理に時間をかけることは嫌っていただろう。このような問題に考えを巡らせて、時間を浪費するのは以前の彼にとってはただの無駄でしかなかった。しかしながら、百々人と交際を始めてから、感情に振り回されることが増えたことを秀自身も自覚していた。人を好きになると言うことは何も楽しいことや嬉しいことだけではない。時には辛く、苦しい時もある。それに、愛は人を狂わせるなんて話を耳にしたことがあったが、それは本当にそうかもしれない。無駄なことに時間を割きたくないと思いながらも、百々人の事となると、自分の事などどうでも良くなってしまう自分がいる。
『……くん、しゅーくん?』
「あっ、すみません……!」
『あはは、電話切れちゃったのかと思ったよ』
そう笑った百々人の口ぶりからして、秀は自分がしばらく考えに耽って、百々人の呼びかけにも気づかないぐらいにぼうっとしていたらしいと気付かされた。
「あれ? 先輩、今外にいるんですか?」
今更気がついたが、百々人の電話先からは風の音が微かに聞こえていた。
「外っていうか、家のベランダにいるけど」
「風の音もしますけど、寒くないんですか?」
『上着も着てるから平気だよ。それに、海を見てたらなんだかしゅーくんの声が聞きたくなっちゃって』
百々人の自宅マンションは比較的海に近く、ベランダからは浜辺が見えたことを思い出した。それに、「キミの声が聞きたくなった」という言葉は、この通話中に聞くのは二回目だ。
「……あの、それって、ドラマの役作りですか?」
先ほどの百々人の言葉について。答えを聞くのは少し怖くもあったが、ずっと思考に靄がかかったままになるのもスッキリしない。だから、思い切って本人に聞くことにした。
『それ?』
「急に俺の声が聞きたくなった、ってさっきも言ってましたよね……」
『あぁ、あれね。ドラマの共演者の人がお勧めしてくれた別のドラマをさっきまで見てたんだ。あれは、その中の主人公の台詞が良かったから言ってみただけ。』
百々人は「面白かったから、しゅーくんも今度一緒に見ようよ」と楽しげに誘ってきた。結果、秀の悩みは杞憂に終わった。秀がそのことに胸を撫で下ろしていると、百々人は話を続けてきた。
『あのね、しゅーくんの声を聞いてたら、急に会いたくなってきちゃった』
「……、それも、ドラマの台詞ですか?」
『ううん、これは僕の気持ち。それに、海を見てたらしゅーくんの声が聞きたくなったっていうのは、僕の本心だから』
電話の向こうで微笑む百々人の声に、秀は室内の時計に目をやった。時刻は午後十時になるところ。高校生が一人で出かけてもいいのは午後十一時まで。今からならまだ出かけても問題のないギリギリの時間だ。
「分かりました! 今から家出るんで、待っててください!」
『えっ、嬉しいけど、もう時間も遅いし……』
「いいから、待っててください!」
秀は百々人の言葉を遮って、強引に電話を切った。それから、祖父母には「いつもの先輩の家に泊まりに行く」と簡潔に告げた。百々人との関係まではさすがに伏せてはいるが、祖父母も百々人のことはよく知っており、可愛い孫を特に咎めるようなこともなかった。祖父が駅まで送っていくと言ってくれたが、その気遣いには礼を言い、秀は荷物をまとめて急いで家を飛び出した。
以前の秀であればこんなことはしなかっただろうし、以前の秀が今の彼自身を見たら「らしくない」と笑うだろう。それに、周りの人々には秀が百々人に振り回されている様に見えるかもしれない。しかしながら、秀本人にとってはそんな百々人からの我儘も信頼の証であり、彼が自分に心を許してくれている証拠であると感じていた。
「わっ、寒っ……!」
外に出ると、秋を告げる夜風は少し肌寒かったが、背中側から吹いてくるその風は秀の背中を押してくれているようにも感じた。
たまにはこうやって恋人に振り回されるのも悪くはない。だから、伝えきれなかった言葉はまた後で伝えれば良い。ただ、「俺も、アンタに会いたくなった」と。