「吸血鬼は同じ人間の血を二度吸ってはいけない」
今は昔、吸血鬼が人々に恐れられていたらしい頃の古い古い掟。食卓に置かれた真っ赤なスープに映る生気のない自分の顔を見ながら、百々人はなぜかそんなことを思い出した。
母親にどんなに急かされても「それ」を美味しそうには思えない。黙っているとしばらくして、母親はため息をついた。失望の目を向けながら、口を開く。
「あなたはスポーツも勉強も……、「これ」もダメなのね」
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とある日、秀は談話室で学校で配られたらしいプリントをめくっていて、百々人はその向かいに座ってぼんやりと、Pとの打ち合わせの時間を待っていた。痛っ、という声で秀に目を向けると彼は自身の人差し指を見つめていて、その指の腹に走った赤い線がじんわりと太くなる。
真正面からそれを見てしまったのがよくなかったのか、あるいは自分が前々から彼に抱く仄暗い興味のせいだろうか。
初めて血を、美味しそうだと思ってしまった。
百々人は立ち上がるとふらふらと秀の方に歩み寄った。彼の手を掴み、人差し指の第一関節までをぱくりと口に含む。指紋の微かなざらつきと汗の塩気、ほんの少しの量でも確かに感じられる血のねっとりとした甘さ。頭がふわふわして、どきどきして、満たされているのにもっと欲しくなる。
夢中で吸いつこうとした矢先に体に強い衝撃を感じて、百々人は尻餅をついた。そこでようやく我に返って、秀が自分を引き剥がしたのだと気がつく。
秀はソファに座ったまま、驚愕の表情でこちらを見ていた。その肩が僅かに震えている。
本来なら正体がバレたのだ、怪物だと糾弾されたっておかしくないし、この事務所でアイドルを続けたい百々人としてはそれは困る。だけどはじめてまともに血を吸った高揚感から、百々人はうっとりと自分の正体を告白した。
「ごめんね、アマミネくん。僕吸血鬼なんだ」
「は?……あの、冗談、とか」
「さっきの今で、冗談だと思う?」
秀が身体を僅かに後ろにずらし、距離を取ろうとする。あの天峰秀に恐怖心を抱かせているということに、百々人は場違いな優越感を覚えた。
「物語の中に出てくるようなのが、僕のすっごくすっごく昔のご先祖さまなんだって。血がずいぶん薄くなっちゃって日光も十字架も聖水も全然平気になって、代わりに血がご飯になる以外は寿命とか殆ど人間と変わらないんだけど」
杭を打たなければ死なない身体はとっくの昔に失われたのに、血を吸うチカラだけは残っているだなんて変な話だ。今となってはそれだけが吸血鬼という種族の証で、だからこそ母親に熱望されていたのだけれど。
ずっと血が吸えるようになりたかった。自分の吸血鬼の血筋を信仰していた母親は時折どこからか仕入れた血のスープを食卓に並べた。飲めるようにならなければ母親に失望されるとわかっていても、鉄臭い匂いに百々人は何の衝動も抱くことはなかったのに。
「……百々人先輩は、他の人の血も吸ったことがあるんですか?」
秀が恐る恐るといった様子で聞いてきたが、それを聞いてどうするというのだろう。黙って微笑んでいるのをどう受け取ったのか、秀は少し逡巡したのち──意を決した表情で、とんでもないことを口にした。
「百々人先輩に血を吸う必要があるなら、俺のをあげます。いや、倒れたりしたら困るけど……量さえ考えてくれれば、いつでもあげるんで。だから、他の人を襲って血を吸うのはやめてくれませんか」と。