知らない横顔/百々秀 ※百々人の喫煙表現
季節は本格的な夏を迎えた。耳をつんざく様な蝉の声に、ジリジリと刺すような日差し。一歩外に出ると溶けてしまいそうになる暑さに、俺はエアコンの効いた室内で、ソファの上に横になっていた。室内にいても、蝉の声を聞いているだけでなんだか熱くなってくる。今日も体温並みの気温だとか、先ほどテレビでも言っていたし、今日は出かける用事がなくてよかった。
「ちょっと、外出てくるね」
俺のいるソファの近く、リビングに敷いたラグの上に座っていた百々人先輩はそう言って、腰を上げた。こんな暑い日にどこに出かけるんだ? そう思いながら先輩の方に目を向けると、彼の左手には緑色の小さな電子端末の様なものが握られていた。
百々人先輩が手に持っていたのは、彼が愛用している電子タバコ。外装の色が可愛いからこの色を選んだと、以前先輩がそう言っていた。
俺は百々人先輩と同棲を始めた数ヶ月前まで、彼が喫煙者であることを知らなかった。先輩が喫煙を始めたのは成人してから間もなく、俺も今年二十歳になったから、まだ一年も経たないぐらいだろうけど。
俺はいつも一緒にいるユニットのメンバーだから、俺は先輩と恋人同士だから。だから、彼の全てを知ったような気になっていたが、そうでもなかったらしい。
先輩がベランダのガラス戸を開けると、少しぼんやりと聞こえていた蝉の声がはっきりと聞こえて、その音と共に外の熱気が室内に入り込んできた。
「ごめんね」
先輩は俺の方に振り返って小さく謝った。あれは、何に対しての謝罪なんだろうと思いながらも、「別にいいですよ」と俺は適当に返した。
先輩はベランダに出ると、隅の方にできた日陰のところを選んで、そこでタバコに口をつけた。俺がいるソファの位置からちょうど見える場所だったから、俺はこっそり先輩の様子を眺めていた。
最近主流になってきた電子タバコはあまり匂いがしないと聞いたことがある。それでも、俺が嫌がるだろうからって、先輩は気を遣って、タバコを吸うときはこんな暑い日にもわざわざ外に出てくれていた。
緑色の箱から顔を出す白い棒の先端に口を付けて、離して、息を吐き出す。タバコってそんなにいいものなんだろうか。喫煙者ではない俺にはタバコがどんなに良いものなのかなんて分からないけど、この暑さを我慢してまでタバコを吸いたいから先輩は外に出ている事実だけがそこにはある。
ベランダの戸にはめ込まれた一枚の大きな窓ガラス。その透明な壁の先にいる彼の横顔は、俺のよく知っているいつもの百々人先輩でありながら、俺の知らない誰かのようでもあった。この暑さで発生した陽炎が、ぼやぼやと、俺の視界にいる先輩の姿をぼやけさせているようだった。
壁にかけた時計に目を向けると、長い針が十二時のところにやってくるところだった。今日は鋭心先輩が出演した地方ロケの番組があるから、百々人先輩と一緒に見ようと約束していた。
「先輩、そろそろ番組始まりますよ」
俺はベランダに出ていた百々人先輩を呼びに行った。
ベランダの窓を開けると、外の熱気が俺の全身にまとわりつく様に包み込んできた。室内との温度差もあったせいか、よくこんな暑い中、よく外に出れるものだと感心してしまうほどの暑さに感じた。
「ありがとう、今戻るよ」
ベランダの隅に向かって声を掛けると、見慣れた後ろ姿からはいつもの優しい声が帰ってきた。
百々人先輩は優しいから、俺がタバコを吸うのは辞めて欲しいと言ったらすぐにでも辞めてくれるんだろうし、俺が先輩に伝えるのは「タバコ吸うの辞めて欲しいです」という簡単な一言だけで充分だろう。
それでも、先輩がどんな理由でタバコを吸い始めたのかは知らないし、俺たちは恋人同士だろうが、所詮は他人だ。先輩のした選択に俺が口を出す権限はないだろう。
喉元まで出かかった言葉を奥に仕舞い込んで、深く息を吸った。暑すぎる外の空気は、肺の中が焼けそうになって、喉がカラカラに乾燥した。
「わぁ、生き返る~」
先輩はじんわりと汗をかいた額を拭いながら、外の熱気を纏ったまま、エアコンの効いた室内に入ってきた。
「俺も喉乾いたんで、麦茶用意しますね」
俺の言葉に、先輩は「ありがとう」といつもの優しい声で返事をくれた。
安心した。いつもと何も変わらない、いつもの百々人先輩だった。
でも、俺の隣を通った彼からは、俺の知らない匂いがした。