溶けない雪 厚手のストールをぐいと顎の下まで下ろすと、ストロファイアは長い溜め息を吐いた。息が白くならないのだなぁと感心する深緑の毛糸の帽子に、フンとそっぽを向く。
エキゾチックな柄織の黒地のストールは、見た目が寒そうだからと真吾に無理やり巻きつけられたものだ。ハイネックのセーターもダウンコートもレインブーツもそうだ。
寒さなど感じないストロファイアにとっては動き難いだけで何の利もない。それでも我慢して着ているのは、どれも一郎の服だからだろうか。とは言え、どの服も持主は一度も袖を通したことはないのだが。
ストロファイアが慣れないブーツに癇癪を起こし悪態をついている。一歩進む度に足が深く埋もれ、バランスを崩して転びそうになるのが彼の自尊心に障るのだろう。真吾が支えようとすると、余計なお世話だと、その手を払い除けた。
それにしてもよく付いて来たものだと思う。絶対に断られると思っていた。久し振りに会えた一郎に纏わり付いていたかっただろうから。
真吾は白い空を見上げると、目を閉じて大きく深呼吸した。味のない冷気が肺を冷やす。
二人の目の前にはどこまでも続く雪原が広がっていた。ぽつりぽつりと立つ黒い木々、遠くに空と地の境があるだけで、他には何もない。こんなにも空は広かったのかと、そんな当たり前の事に驚いてしまう。
ここにはストロファイアの嫌いな人間の匂いのするものが無いから、連れ出すには丁度良い場所だろう。
珍しく三世から連絡があり何事かと行ってみれば、二人の仕事を邪魔するストロファイアに三世は疲れ切っていた。一郎が突き放さないのをいい事に、好き放題に振る舞うストロファイアに三世は怒りをぶつけた。
いくら弱体化しようが何だろうが、俺はお前を絶対に許さない。
三世の言葉はストロファイアに向けられているが、それはストロファイアに厳しく対応しない真吾に対する非難でもあった。
真吾は瞼を開いて虚空を見詰めた。
どこを目指すでもなく歩き出す真吾の後を、ストロファイアが黙って「歩いて」付いて来る。飛ぶ方が楽だろうに、歩くのが楽しくなってきたのか、それとも真吾に合わせているのか。
彼にとってはただの気まぐれなのだろうが、その気まぐれ自体がとても大きな変化なのだ。
こうやって段々と良い方へと変わっていけばいいのに。
「ひとりで笑って気持ち悪いんだけど。」
「笑っていたかな…ごめんよ。ここは綺麗だろう、人間界にはこんな場所もあるんだよ。」
「退屈。来るんじゃなかった。」
憎まれ口を叩くと、ザクザクと真吾を通り越す。こうしていると普通の人間みたいだ、と真吾は翼の無い背中を眺めた。
頰と鼻が冷たい空気にヒリヒリする。真吾は手袋を取ると頰を掌で包んで温めた。強張った皮膚がじんわりと溶ける。
「寒さに耐性がないくせに、どうしてそうまでしてこんな所に来るのさ。」
「ちょっと珍しい風景だからね。」
「それだけ?」
「それだけだよ。」
不可解な生き物、と言うとストロファイアは大袈裟に顔を歪め背を向けた。
「不可解ついでに、僕の話を聞いてくれるかい?」
少し歩いた先で赤い髪が振り返った。
本当に、今日はどうしたというのだろう。
「幼い頃、メフィスト二世と、ここよりももっと寒い北の地に行ったことがあるんだ。東嶽大帝の魔力の影響で自分を失ってしまい、自ら大切な物を破壊しようとする神獣を止め行った。―――でも僕は助けられなかった。」
「へぇ。」
「僕は無力で何もできなかった。結局、神獣は今も永遠に溶けない氷の中で眠り続けている。あれからずっと考えているんだ。何か方法はなかったのか、判断に間違いはなかったか。」
「ずっとって、それがあってからずっとって事?ハハ呆れるね、それが答えじゃないか。寧ろ君ごときが何か出来るつもりでいるのが驚きなんだけど。」
嘲るストロファイアに、真吾はその通りだねと微笑んだ。僕に出来る事などほんの僅かだ。
言い返さない真吾に苛ついて、ストロファイアは眉間に皺を寄せた。
「そんな神獣、何匹消えたところでこの世界に何の影響もない。下らないからそんな事は早く忘れなよ。」
「無価値な存在など無い。きっと助ける方法はあったはずなんだ。」
「わざわざこんな所まで来て反省会?まぁ些末な過去に拘っていつまでもウジウジしているのは下等な君にはお似合いだけど。未だに答えが出ないなんてボヤくけどさぁ、人間の存在意義の一つに君は成長を挙げていなかったっけ?滑稽だね。君の能天気なお仲間にでも泣きついたらいいんじゃない?」
嘲笑う天使に真吾は俯くと、少し躊躇いながら呟いた。
「君だから話してみようと思ったんだ。君は僕を嫌っているから、僕を慰めたりしないだろう?」
一瞬唖然とした後突然激しく怒り出し、ストロファイアは真吾を睨み付け声を震わせた。
「そうさ、僕は君が大嫌いだ。君を嫌っている僕をわざわざ誘って、自己陶酔的な感傷を押し付けたというわけ?随分と気味の悪い嫌がらせだね。そして酷い自虐趣味だ。」
珍しく声を荒らげて怒るストロファイアに驚いて、真吾は慌てて謝った。
「巻き込んで悪かったよ。そうだね、僕一人で来れば良かった。」
本当に来るとは思わなかったんだとは言えない。
「ごめんよ、ただ綺麗な景色を君に見せたかっただけなんだ。ずっと来たかった場所だったんだけど機会がなくて、でも今日君がいたから…折角来たのに詰まらない話をしたね。」
言えば言うほどその場凌ぎに取り繕った言い訳のようになってしまう。真吾はこれはダメだなと諦めたが、意外にもストロファイアは怒りを収めた。
「さっきから謝ってばかりだな君は。」
そうだねと真吾は頷く。また謝ろうとする真吾の口を、ストロファイアは掌で塞いだ。
驚く真吾を斜めに見下ろす。
その赤い瞳は冷たいが、眉間の深い皺はもう消えていた。
真吾の吐息を何度かその掌に受けた後、そっと手を除けた。
真吾は真っ直ぐストロファイアを見上げた。
その赤い髪に雪の花が舞い降りた。次々に落ちてくる小さな花が艷やかな髪を飾る。
綺麗だな、と真吾は胸の内で呟いた。
全てが鎮まる世界の中で、彼の命だけが赤々と輝く。
そんな事を言おうものなら怒って帰ってしまうだろうから、真吾は胸の内に留めた。
ストロファイアは暫く黙って真吾の睫毛を見詰めると、不意に踵を返し、再び歩き始めた。
真吾はストロファイアの足跡に自分の足を乗せて後を辿る。
「考え続ければいい。」
振り向きもせずぶっきらぼうに言う。
「君にはそれしかできないんだから。」
「―――そうだね。」
ありがとうと返すと、首だけ振り返って真吾の表情を確かめ、また前に向き直った。
真吾はふふっと笑って、ストロファイアとの距離を、一歩後ろまで縮めた。何故か今日は近付く事を許されている。そう感じた。
「君の翼は今どうなってるんだい?」
「服の下だようるさいな。」
「自在に大きさを変えられるということ?君もメフィスト二世と同じで、翼で飛ぶわけではないのかな。」
「君は口を開くとすぐメフィスト。」
「君の手は少し温かいんだね。」
「・・・」
「ねぇストロファイア」
「少し黙りなよ」
立ち止まり傍らの真吾を見下ろすその顔は、むすっとしつつも不機嫌そうではない。
真吾はストロファイアに分かったよと笑いかけ、彼が見るのと同じ方向に目を向けた。
音もなく降る雪が地と空の境界を曖昧にする。
こうして隣に立っている奇跡。
今はそれだけでいい。
たとえそこに温度はなくとも。
ストロファイアは静かに手を伸ばし、真吾の帽子に溶け残る雪を指先でそっと払った。
二〇二五年〇八月二二日
かがみのせなか