さざ波 生温かい波が足の甲を撫でた。
藍に沈みゆく空と、黄金に輝く海。
横一線に飛び去る白い翼が、夕陽を受けて一瞬煌めいた。
湿り気のある強い海風に飛ばされそうな麦わら帽子を押さえる。
あの日の、あの人と同じ様に。
幼い頃、あの人と何度か来た海だ。
あの頃は広く見えたが、今こうして立ってみると、とても小さな浜辺だった。記憶の海は二人以外に人がおらず、成る程そういう事だったのかと理解した。きっとあの人の取っておきの場所だったのだろう。
打ち寄せる波に足を浸しながらゆっくり歩いた。
膝上まで上げた裾ギリギリまで波を受ける。
波に沈んだ息子を助け出そうと差し出された手。
あの手も、小さかったのだと。
海の遠くを眺めていた姿を思い出す。
あの背中が怖かった。
しかしあの人は離岸流を辿ることはなかった。
僕が成長し、マントの内から離れても、あの人は変わらずあの書斎にいて、そこから世界を見守っていた。
僕の側を離れることはなかった。
選んだ生き方に後悔はなかったのかと、僕が問うのは滑稽だろうか。
繋いだ手を離せなかったのはきっと僕の方だから。
昼間の熱が残る砂浜を歩く。
あの日、あの人を追って歩いたように、砂上に目を落としながら足を置く場所を探す。
小さな足には歩きにくかった砂浜も、もう躓くことは無い。
貝殻の欠片を見付け、拾い上げる。
縞模様の巻貝。あの日あの人はこの貝を何と呼んでいただろう。
砂を落として握りしめる。
かすかに温かい。
海の中で感じた、あの人の体温のように。
鮮やかに蘇る夏の海の記憶。
きっとそれは今、僕が僕を信じるための柱の一つになっている。
幸せな記憶は時に痛みを伴うが、きっとそれは生きるために必要な痛みなのだと。
そう分かるようになるまで、何度も繰り返し教えてくれたのはあの人だ。
だから、愛している。
愛している。
「可愛い貝殻を見付けたね。」
柔らかい指がそっと貝殻に添えられた。
その細い手首に揺れる薄紅色の桜貝。
貝殻達は歌う。
どうかいつまでもこのままで、と。
二〇二五年八月一〇日 かがみのせなか