穏やかな日差しが包み込むように肌を照らす。目を瞑り、深く息を吸い込む。雨上がりの湿った土の匂いと爽やかな晴天の香りがした。
エデンの園。
ここにいれば飢えることも苦しいことも死ぬことすらない。
豊かな大地を踏みしめるたびに力強い鼓動を感じる。雨が降れば優しく頬を撫でるように降り注ぎ、生まれたばかりの生命は無垢で穢れを知らず愛おしい。
全てが満たされている。こんな素晴らしい場所をなんの対価もなく享受していた。
ある日、木陰で動物たちとうたた寝をしていた。葉の隙間から漏れる陽の光が心地よく、生まれたばかりの生き物は温かい。互いに体を寄せ合って眠る。
「やぁ」
夜の風のように凪いだ声が聞こえて目を開ける。そこには麗しく光輝く天使がいた。
「初めまして天使さま」
「うん、初めまして。君がアダムだね」
「はい」
どうやらこの天使はアダムのことを知っているらしい。大天使ミカエルとそっくりな相貌でにっこりと微笑み、アダムだけを真っ直ぐ見つめる天使。
この天使からはミカエルとは違う、なんとも言えない気味の悪さを感じた。そんな感情を抱いたのは生まれて初めてで少し混乱する。
「会えて嬉しいよ。人間は初めて見るから…」
まじまじと観察するように見つめられて居心地が悪い。喉元に引っかかる違和感を奥へと追いやり無理やり飲み込んだ。
「私も、嬉しいです…えっと…」
「あぁ!すまない!私の名はルシファー。これからよろしくね」
「よろしくお願いします、ルシファーさま」
朗らかに笑う天使さまは美しい…が、彼の笑顔は向けられると落ち着かない。もちろん嫌な意味で。これの違和感はきっと正しい。この天使には近づかない方がいいのかもしれない。
「おはよう、アダム。今日もいい天気だよ!」
「……おはよう、ございます…」
天使は毎日のようにアダムの元へとやってきた。やんわりと避けようとしたり、あの天使を見掛ければそそくさと隠れたり、地味に奮闘しているのだが、毎日毎日飽きずにアダムの元へと通っている。
「元気がないね…大丈夫かい?」
貴方のせいです。
…なんて口が裂けても言えないので曖昧に笑って誤魔化した。
「今日は君にいいものを見せようと思ったんだ」
「…なんですか」
天使はいつも物珍しいものを作ってはアダムに見せにきた。
動物の毛の色を変える薬だとか、植物の成長速度が異常なほど早くなる魔法だとか。
美しい創造物たちを汚す危険思想にも程があるので、あまりいい気はしない。
それでもアダムが天使の作ったものを見てしまうのは、自分自身のどうしようもない好奇心によるものだった。これは良くない感情だと知りつつも芽生えたソレを無視することは難しい。
「ほらこれだよ」
天使が見せてきたのは赤く輝く宝石だった。
「っ…綺麗、ですね」
キラキラと輝く宝石に思考ごと奪われるようにうっとりと見つめる。
天使はうっそりと微笑んで宝石をゆっくりと傾ける。深い赤色が角度を変えるたびに深さを増していく。それと同時にだんだん意識がぼんやりとして、膜を一つ被ったように思考が鈍くなった。
「アダム」
名前を呼ばれてる。それだけは認識できた。
顎を掬われ顔を上げさせられる。
体の力が抜けて地面に座り込みそうになると天使はその細い腕で腰を抱いて立たせてくれた。
「アダム、約束しよう。いつか君の…」
名前を呼ばれているのはわかる。それ以外は何もわからなくて、ふわふわとする意識をどうにかして戻そうとする。瞼が異常に重い。
「す………を…………ける。わ………かい?アダム」
何か話していたみたいだ。怠い頭が考えようと懸命に動くが理解できずに終わる。
「…す、みませ……な、ぜか…ねむ……」
体がドロドロと溶けてしまいそうなほど力が抜けて、気がつけば今だに腰を抱いたままでいる天使に全てを預けていた。
「うん、そうだろうね。でもまだ寝てはダメだよ」
眠くてたまらないのにその言葉を聞くと目が閉じれなくなって、無理やり意識が浮上した。しかしどこか夢現で現実味がない。
「…な、に…」
「私はわかったかと聞いたんだ。君はなんと答えるべきか?」
「…ぁ、…ぅ、ね、むい…」
「ははっ、あと少しだけ頑張れ。頷くだけでいい。そうすれば後はぐっすり眠れるから」
頭の中に霧がかかっているみたいだ。言葉の意味を深く考えようとすると急激に意識が別の場所へと隔離される。
この天使が言っている意味も言葉も何もわからないが、優しい声に絆されてゆっくりと頷いた。
頷くと胸にあの宝石が当てられる。心臓がチクリと小さく痛んだような気がした。何の痛みだろうと疑問に思っていると柔らかな歌声が聞こえる。幼児を寝かしつける優しい旋律に耐えられず、やがて目を閉じた。
次に目を開けたときにはあの天使の姿はなく、胸の痛みのことも忘れていた。
それ以来、天使がアダムの元にやってくることはなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ミカエル!!」
ドアを激しく開ける音と愛おしい人の子の声が聞こえてミカエルは顔を上げる。
夜の帷も下り、とっぷりと夜が更け始めた頃、エクスターミネーションから帰ってきたアダムはミカエルの書斎室へとやってきた。
ちょうどデスクワークにも飽きてきた頃だ。アダムはいつもタイミングがいい。
「おかえり、アダム。今日はどうだった?」
「どうもこうもない!いつも通り地獄は今日もクソだった!」
ズカズカと部屋の中に入ると行儀悪く大きなソファーに寝転んだ。
紅茶を淹れてやるためにミカエルは立ち上がる。今まで飲んでいたポットの紅茶はすでに冷め切っている。
新しいのを淹れてやらないと。
ケトルで沸かしたお湯でカップとポットを温める。温めたポットに最近お気に入りの茶葉を入れて、沸騰したてのお湯を注ぐ。
蒸らしている間に、前にアダムが美味しいと言っていたクッキーを皿に並べ、ソファーの前にあるテーブルに置いてやる。最後に茶こしで茶ガラをこしながら、濃さが均一になるようにカップにまわし注ぎ入れて完成。
綺麗な赤色の紅茶を見て頬が緩む。
「アダム、冷めないうちにどうぞ」
今だにソファーに寝そべる彼に紅茶の入ったティーカップを差し出す。のそのそと座り直して、差し出されたカップを受け取った。
「…うまい」
「ふふ、よかった」
クッキーも食べるように促すともぐもぐと食べ始めた。
「…これ、前に美味いって言ったやつ」
「君が気に入ったと言ってたからね。いつも用意してるよ」
アダムの隣に座り、頭を撫でていると不貞腐れたように眉を寄せる。
「子ども扱いしないでください…」
そう言いつつも手は振り払わない。こういうところが可愛いのだ。
「…ミカエル」
「なんだい?」
アダムが不安そうな声で名前を呼ぶ。
仮面越しでは美しい顔が見れないのがとても残念だ。
「最近…夢を見るんです」
恐る恐る話始める。不安そうにしているので手を握ってやると強く握り返してきた。
「どんな夢なんだい?悪夢?」
「いや、わからない…起きたら忘れてるんだ…」
「ならどうしてそんなに怖がっているんだい?」
指を絡めてぎゅっと握る。空いている手で仮面を取ると均整のとれた美しいアダムの顔が現れた。
「あぁ…こんなに窶れて…」
顔には疲労が現れている。よっぽど寝れていないのだろう、目の下には大きな隈ができていた。
そっと頬に触れた。
「ど、んな夢かは、…覚えてないんだけど、いつも心臓の痛みで目が覚める…」
胸を抑え、こちらを見つめるアダムはひどく不安定だった。
睡眠は人間の3大欲求の一つ、寝れないのはかなり辛いはず。
苦しそうなアダムに心痛めながらミカエルはアダムの言葉を待つ。
「ミカエルなら、なにか、何かわかるかな…って…」
窓から柔らかな風が吹いて、アダムの髪がふわりと揺れた。
仮面を取ったことで、彼の柔らかい髪を撫でることができる。そっとその髪を撫で付けるように触る。
「夢…心臓…か。わかった見てみよう」
魔法でアダムの体を見てみる。
見てみたところ、魔術や呪い、病気の類はなさそうだが、彼のことだ。誰にも相談せず、ずっと黙っていたのだろう。随分と長い間、我慢していたことが垣間見えて悲しくなった。
「…特に君の身体には異常はなさそうだ」
「やっぱりそうか…見てくれてありがとうございます、ミカエル」
そう言って立ち去ろうとするアダムの腕を引っ張って引き止める。
「…?ミカエ、…ッルゥ?!」
グンっと引っ張って膝の上に頭を乗せる。仰向けにソファーの上にアダムが放り出される。
「ちょっ、ちょっと待て!何してんだ?!これ?!?!」
「見てわからないかい?膝枕だよ」
「そんなことはわかってる!!なんで!今!膝枕なんです?!」
ジタバタと暴れ、立ちあがろうとするので寝かしつけるようにトントン…っと叩く。
「碌に睡眠も取れていないのだろう?」
「だからって!こんな…」
顔を真っ赤にしているアダムは恥ずかしさでいっぱいらしい。目を細めて笑いかけるとさらに顔を赤く染めて横を向かれる。
「あーぁ…可愛いアダムの顔を見せてくれないのかい?」
「い、や、だ!!」
ぷりぷりと怒るアダムは実に愛らしい。
そのまま寝かしつけようと昔よく歌っていた子守唄を歌うと眠くなってきたのか、うっつらうっつらとしている。
「このまま寝てしまっても大丈夫だよ」
「…ん」
少しすると寝息が聞こえ始める。
寝顔は驚くほど幼く、目元の隈や顔色の悪ささえなくなれば、エデンの園にいた頃となんら変わりない。
少しでもよく眠れるように髪をかき分け額に祝福を込めたキスを送る。アダムの顔がほんのすこしだけ和らいだ。
「おはよう、よく眠れたかい?」
「…おはよぅございます…」
くわぁっと欠伸を一つした後にアダムはミカエルを見つめる。
「こんなに眠れたの…久しぶりだ…」
「ふふ、よかった」
少し顔色が良くなっている。少しの間でもぐっすりと眠れたみたいでよかった。
アダムがミカエルの隣に座り直して、少し視線を逸らす。
「…ありがと、膝…」
「いーえ、どういたしまして」
照れくさいのか、そっぽを向くので頬を突く。
「…っ〜〜!!!もう!子ども扱いやめろって!!」
「あはははっ!」
「…ったく、貴方はすぐ俺…いや私を子ども扱いする」
「私の前では“俺”でもいいのだけど」
「揶揄わないでください…」
「ははっ!」
可愛い。どれほど時が経っても変わらない。
アダムはあまりにも長い時間の流れの中でも変わらずにいてくれる。この人の子はそれがどんなに素晴らしいことかわかっていない。
愛おしい人の子に微笑みかける。
「悪夢は見たかい?」
「いや、見なかった…ミカエルがいたからか?」
「嬉しいことを言ってくれるね」
テーブルの上に置きっぱなしのティーカップを手に取り、生温い紅茶を飲む。
アダムも紅茶を飲もうとしたのでポットを魔法で温めてカップに注いでやる。
「…いつも思うんだけど、今みたいに全部魔法でやった方が早くないですか?」
温め直した紅茶を受け取ったアダムはそう言った。
確かにそうかもしれない。だが…
「なんでも魔法でしてしまったら面白くないだろう?」
人智を超えた力は便利だ。魔法を使えばなんでも片付いてしまう。でも、それでは過程は何も残らない。それを人は余計な手間だと呼ぶのかもしれないが、ミカエルはなんでも自分の手でするのが好きだった。
「ふーん…そういうもんか」
「そういうものだよ」
困惑するアダムの頭を撫でる。慣れてきたのか、少し照れくさそうにしながらも受け入れてくれる。
「ねぇアダム、私がいることで君の悪夢が解消されるなら、これから一緒に寝ないかい?」
「?!……いいんですか?」
「うん。でも、君も私も忙しい身だからいつも一緒に寝れるというわけではないのだけれど……君の力になれるのなら」
両手で彼の頬を包み見つめる。喜びの表情を浮かべた後、アダムはすぐに眉を寄せて曖昧に笑う。
「いや、でも、…迷惑になる」
「私がそうしたいんだ」
ダメかい?と首を傾げるとぎゅっと目を閉じてしまう。
「ま、眩しい…」
「なんだい?それ?」
綺麗な顔に皺が寄っているのが面白くてケタケタと笑ってしまう。
「よし!そうと決まれば、2人用のベットを用意しなくては!!どんなものがいいかな?君はロックが好きなんだっけ?パンク系の方がいいのかな…っ!もしかしてデザインじゃなくて、品質をこだわる方?なら質の良いものを揃えた方がいいか…枕は硬めか柔らかめどっちがいい?シーツや毛布は?」
「ちょっ、ちょっと待て!一回落ち着け!!」」
まくし立てるように話続けると流石にストップが入った。口を抑えられる。
「…細かいことはまた、追々で…」
「ほふはい?(そうかい?)」
口を抑えられたままなので、声は言葉になりきれなかったが伝わったみたいで、アダムは強く頷いた。
「そんなことより、腹減った!新しくできたレストランに行きませんか?スペアリブが置いてあるんだってさ!」
スクっと立ち上がると早く行こうと催促してくる。
「ミカエル!」
嬉しそうに名を呼ばれては答えないわけにもいかない。アダムの後を追うように立ち上がった。
「ミカエル」
仕事に追われて書斎室に篭っていると荘厳で芯のある声が聞こえた。
立ち上がってドアの方へと振り返り、恭しくお辞儀をする。
「ご機嫌よう、セラ。どうされました?」
振り返った先にいたのは我らの上司であり、統率するセラだった。
「えぇ、ご機嫌よう。ミカエル、貴方は最近アダムと一緒に寝ているそうね」
「…そうですね」
なるべくバレないようにしていたのだが、さすがは我々を統べる者。
誤魔化しは効かない。
「ハッキリ言います。あまりアダムを甘やかさないで」
あまりにもキッパリと言われて、ミカエルは思わず笑ってしまう。
エミリーに甘い貴方には言われたくない。
「…彼はずっと寝れていなかったんです。前までの彼の顔を貴方は見たことがありますか?十分に睡眠を取ることもできなくて、とても窶れていたんですよ。それが私と一緒なら寝れると言ってくれた。可愛い人の子に手を差し伸べ、導くのが我々の仕事でしょう?」
用意していたかのようにスラスラと話すミカエルに、セラは眉間に皺を寄せて、頭を抱えた。
「確かにそうだけれど、貴方は度を超えています。いくらアダムが特別だからと言って、全ての人の子は平等であるべきでしょう」
険しい顔をしながらミカエルを見据える。
痛いとこを突かれたなと呑気な自分が囁いた。そんな状況に焦りもせず、ミカエルはただゆったりと笑う。
「…」
「沈黙は肯定と捉えますよ…全く、そもそも私たちには睡眠は必要がないでしょう?貴方に回した仕事がなかなか返ってこなくなっていれば、流石に気がつきます」
黙っているとさらに追撃される。困ったように笑うがセラの視線は厳しいままだ。
嗜めるような視線でミカエルを見ながら、セラはため息のように言葉をこぼした。
「それに、1人の人間に執着すればどうなるか、貴方が一番わかっているのでは?」
ゾワっと全身が粟立つ。
表情筋がうまく動かせない。
腹の奥がドロドロと煮えたぎった苛立ちが込み上げてくる。次から次へと込み上げてくる自身の感情に収集がつかなくなって、激情に飲まれそうになる。
セラの前でなければ、怒りに任せて叫び出しそうだった。
「…わかってます」
全てを飲み込んでふわりと笑うと、セラは気味が悪いものでも見るかのような視線を向けてくる。
クルリと背を向け、口からため息をこぼす。彼女は最近よくため息を吐いている。
「…これからはくれぐれも、よろしくお願いしますよ」
フワッと翼を広げたかと思うと飛び去るように光の粒子となってセラはいなくなった。
久方ぶりに聞いた愚弟の話題に気分が悪くなる。
紅茶を一口飲んだ。
紅茶はすっかり冷め切っている。冷めてしまった紅茶はあまり好きではない。
冷えた紅茶と冷やされた紅茶とでは訳が違う。
淹れなおそうか?いや、なんだか面倒臭い。もう魔法でやってしまおう。
控えめなノック音が3回鳴った。ノック音を認識すると、魔法を使おうとしていた手は自然と紅茶缶に伸びていた。
「どうぞ、アダム。おかえり」
「ただいま、ミカエル」
仮面を外し、ふにゃりと笑うアダムを見ると心が和らいだ。
本当に彼はタイミングがいい。
「今から紅茶を淹れようとしていたところなんだ。君も飲むだろう?」
「もちろん!」
嬉しそうに来客用のソファーに腰掛けるアダムを視界に入れつつ、テキパキとお茶の準備をする。
茶菓子には柔らかいフィナンシェを盛り付けてテーブルの上に置く。カップに紅茶を注いでアダムに差し出し、自分の分も入れてアダムの隣に腰掛ける。
「…いただきます」
「どうぞ」
紅茶に一口、口をつける。ふんわりとした香る甘さが疲れた体にちょうどいい。
ほっ…と一息ついていると、じぃーとこちらを見ているアダムに気がつく。
「どうかした?」
「ミカエル…疲れてます?」
心配そうにこちらを見るアダムの言葉に目を見開いた。顔色や雰囲気からはそんなことわかるはずがない。いや、わからないようにしている。
驚いて固まっているとアダムが顔を覗き込んだ。
「んん?やっぱり!疲れてるんだな!」
自分は大丈夫だと、安心させるためにニコッと笑いかけるがうまく笑えていなかったらしい。真剣な顔で見つめてくるので、渋々答えた。
「ふぅ…セラからお小言をもらってね。それでちょっと疲れただけだよ」
この話は終わりとばかりに簡潔に説明して、茶菓子を食べる。洋酒が効いてて美味しい。
「…俺のせいか?」
「違う!!」
ポツリと呟かれたその言葉に対して声を張り上げてしまった。
ミカエルのこんな姿は初めて見たのだろう。アダムはビクッと大袈裟に体を跳ねさせた。
「…っ、すまない、アダム。でも君のせいじゃない。それだけは本当だ」
「…いいよ別に、本当のこと言っても。セラがミカエルに話すことなんて、見当がつくし」
アダムは茶菓子に手を伸ばす。行儀悪く菓子を掴むと口の中へと放り投げた。
もぐもぐと咀嚼する彼の口を見ながら唖然とする。
「どうせ私を甘やかすなとか言ったんだろ?」
菓子を飲み込み、紅茶を啜った後、アダムはなんでもないようにそう言った。
「アダム…」
「…やっぱりな。貴方は嘘がつけませんね」
目を細めて笑う姿は儚く、美しい…が、言い寄れない寂しさを感じた。
「これから、エクスターミネーションの期間が短くなる。そしたら互いに忙しくなるはず…ミカエル、貴方は貴方がなすべき事をしてください……私はもう大丈夫。ありがとな」
その瞳は真っ直ぐ先を見据えている。
ハッキリとアダムの口から大丈夫だと言われてしまえば何も言い返せない。
視線を逸らすとクスリと笑う声がした。
「全く、いつまで経っても子離れ出来ないんだな」
「…そうだね。きっといつまでも、出来ないんだろうな」
「違いない!」
口を開けて大きく笑う姿は問題など何にもないとでも言うようで、突き放された残酷さをまじまじと感じさせた。
「さぁ、飯食おうぜ!飯!久しぶりに私が作りますよ!」
「君だけに作らせるわけにはいかない。私も手伝うよ」
「飯くらい1人で作れますぅ!!だから、子どもじゃないってば!!」
1人ですると言って聞かないアダムを宥めつつ、2人でキッチンに向かう。
冷蔵庫には何があったかな。彼の好きなスペアリブはあったはず。
大丈夫。何も心配はいらない。
心配はいらないと、
この胸騒ぎには蓋をして。
「すみません、殿下…我々は負けました」
「…地獄の王が、出てきたのだもの。仕方がないわ」
会議室の奥からセラと誰かが話しているのが聞こえた。気づかれないようにそっと柱に身を隠す。愚弟の話題が出てきたので少し耳を傾けた。
「悪魔が天使を殺すなんて地獄ができて以来の災悪です。早く手を打たないと…」
セラらしくない焦った声。普段は避けられる話題である愚弟の話。エクスターミネーション。嫌な予感がする。
そして嫌な予感ほどよく当たった。
「アダムも…」
「アダムが、なんだって?」
二つの視線が一斉にこちらを向く。彼女と話していたのはアダムの右腕のリュートだった。彼女がいて、アダムがいない理由。
あぁ、嫌だな。考えたくない。
これ以上話を聞きたくないのに、体が勝手に動いて彼女に詰め寄る。
「アダムはどうした?」
「…っ」
「なぜ答えない?」
「ミカエル!」
セラの嗜める声が聞こえた。
後ろを振り返る合ると眉を吊り上げ、非難するような視線でミカエルを見ていた。
「そんなに貴方から圧をかけられれば、話せないに決まっているでしょう?」
思わずセラを睨みつけそうになった。
深く深呼吸をする。煩わしさも一緒に息と吐き出した。
「…すまない。ただ、いつも君はアダムと一緒だったから。彼に何かあったんじゃないかと思って」
ミカエルは柔らかく笑った。
リュートに向き直ったミカエルは表面上だけいつもの優しい天使の皮を被った…が、取り繕えてはいなかったらしい。彼女は明らかに怯えていた。
「…ボ、ボスは…っ、アダ…ムは…」
「アダムは先日のエクスターミネーションで敗れました」
口がもつれて言葉を発せられない彼女に代わってセラがミカエルに言い放つ。突き放すような言い方に腹が立った。
「…それでアダムはどうなったんです?」
「アダムは…」
言い淀むセラにミカエルは表情一つも変えずに表面上は穏やかに聞いた。
「殺された、のですか?」
「…ええ」
想像していた以上に最低最悪な事態に悪寒が走った。なんとか自分を宥め、努めて冷静に質問を繰り返す。
「それで?彼の遺体はどこに?魂さえ無事ならば体の傷を治して直ぐにでも復活できる。アダムの遺体は持って帰ってきているのでしょう?」
「………遺体は地獄に」
「…すみません、セラ。よく聞こえなかったみたいです。アダムは…」
「アダムは地獄にいます」
いつも飄々と笑うミカエルの顔から感情が全て抜け落ちた。恐ろしいほど美しい天使が何の感情も乗せず、セラを見ている。
押しつぶされそうな圧にリュートは息が詰まった。
ミカエルはスイッチが切り替わったように目を細めて綺麗に笑い、セラに向かって微笑む。
「今から地獄に行ってきます」
「ミカエル、言ったはずです。1人の人間に執着すれば、っ、ルシファーのよう…」
「あぁ、セラ。愚弟の名前は出さないで欲しかった」
セラの言葉にわざと被せたミカエルは悪びれる様子もなく、むしろ大仰に話を続ける。
「忘れましたか?アダムは、あの人類の祖は、我々が塵から創ったのだと。我々が育て、導き、慈しんだ我が子同然の愛し子が、あの裏切り者が管轄する地獄にいるのです。もう私は気が狂いそうですよ。いや、むしろ狂っていた方がマシなほどに。アダムは我々の、私の大切な…」
「ミカエル!……少し落ち着きなさい」
セラは口調を強める。嗜めた途端ケロッと元の慈悲深い天使の表情に戻った。
「すみません、不躾でした」
普段は飄々としていて掴みどころがないくせに、アダムの話になると顔に感情が乗らなくなる。
ミカエルのこういう所がセラは苦手だった。天使の皮が剥がれるとそこには歴とした執着があることをこの天使はわかっているのだろうか。彼をまるで自分のものであるかのように振る舞うのも気味が悪かった。
「とにかく、貴方が地獄に行くのは許しません。それに純粋無垢な魂は例外なく天国へと向かいます。アダムの魂が消滅していなければ、戻ってきます。その時に肉体を作れば済む話でしょう」
「…セラ、私は、アダムの肉片の一欠片も、失いたくはないのです」
「貴方の気持ちも、わかります…しかし、こればかりは駄目です。弁えなさい」
「…」
ミカエルは口角をゆっくりと上げるだけで何も言わない。こういう自分にとって都合が悪い時は、絶対に返事を返さない。セラは頭が痛くなる。
アダムさえ関わらなければ素晴らしい天使だというのに…兄弟揃って原初の人間に狂わさせている。
「ミカエル」
声色をすごみ名を呼ぶと、彼はふふっと軽く笑ってセラに向き直る。
「わかりました。ただ、地獄との会合には私に行かせていただきたいのです」
「……何もわかっていないじゃない」
「いえいえ、貴方は地獄に行くなとおっしゃったんです。ホログラムでならいいですよね?久方ぶりに愚弟ともお喋りしたいですし」
本心からの言葉ではないくせにお茶目にウインクまでするミカエルに呆れてしまう。セラはもう頭の痛みを隠しもせずに頭を抱え込んだ。
「はぁ…いいでしょう。ただし、くれぐれも余計なことはしないように」
「ふふ、はい」
軽い足取りで会議室から出ていくミカエルを2人は見守る。
出ていく際、驚くほど冷たい目線でリュートを見つめた彼の威圧感に、彼女は足がすくんで倒れそうになる。
「……セラ殿下」
「…ごめんなさい、リュート。彼はアダムのことになると止まれないのです」
「いえ、ボスを守れなかったのは、遺体を持って帰れなかったのは私の責任であります。ミカエルさまが怒るのも無理ないかと」
「貴女は………本当にすみません」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
天国との会合はいつも憂鬱だが、今回ばかりは気分がいい。
娘のホテルも順調そのものでルシファーのテンションはいつも以上に高かった。
それにアレの調教も漸く終わったので達成感が半端じゃない。
るんるん気分で天国大使館に行く。
大使館の中は荘厳で埃一つも落ちていない。まさに潔癖症の天使がいるに相応しい場所だ。
「そうは思わないかい?ルシファー」
「……はぁ、まさか貴方が来るとは……」
一気に気分が下がったルシファーに対して、ミカエルはくすくすと鈴を転がすように笑う。
「久しぶりだね、ルシファー。会いたくなかったよ」
「…ミカエル“兄様”。元気そうで、なにより」
ミカエルが座るように促すと、ルシファーは優雅に椅子に腰掛ける。ルシファーが座ったのを確認すると、ミカエルは魔法で用意していた資料を目の前のテーブルの上に置いた。
「にしても、久しぶりですね。何年振りくらい?」
「さぁ…?君が反乱を起こして以来じゃない?」
「もうそんなに経っているのか…」
「私も、君も、お互いがお互いのこと嫌いすぎて会わないようにしてたからねぇ…」
「えぇ、本当に!顔も見たくないってのに」
「毎日鏡で見ているだろう?私たちは顔“だけ”はそっくりだから」
「まぁ確かに」
軽いやりとりを交わしながら、ルシファーは渡された資料をめくる。内容は殆ど前と変わり映えがなかった。
「さて、次のエクスターミネーションなのだが、予定は今のところは未定となっている」
「やっぱりな。天国はいつも慎重すぎる」
「それには賛同、かな。それで予定が決まり次第、また始めることになる。恐らくだが今まで通り罪人のみが粛清対象だからよろしく」
「…無くなりはしないのか」
「当たり前だろう?」
ミカエルは花が綻ぶように笑った。
「だってアダムが企画してくれたものだもの」
口には笑みを湛えているが目が笑っていない。
やはりこの男にはバレていたのか。
深みを持たせて笑い返すとミカエルは途端に無表情になる。
重厚な圧力が自身に降りかかるが、ルシファーは低浮上していた気分が上がっていくのを感じていた。あの“兄様”が苛立っている。それだけで心が弾み、胸が躍る。
嬉しそうなルシファーの姿にミカエルは鬱陶しそうに目を逸らした。
「さて、ルシファー。いい加減本題に入ろう」
ミカエルは自身が持ってきた資料を雑に魔法で投げ捨てた。
久方ぶりに感じるあの圧にルシファーはゾクっと肌が粟立つ。
「アダムはどこだ?」
これは確実に確信があって聞いてきている。この男はいつもそうだ。自分が絶対的に正しいと信じて疑わない。
「さぁ?と言うより、貴方も聞いたでしょう?アダムはただの清掃員に殺されたのだと」
「えっ!そうなの?!……帰ってきたらお説教かな…」
「知らなかったんですか?……いやそもそも、もう死んでいるので帰れませんよ」
「いや、アダムは生きている」
ルシファーは顔を顰める。
深くため息を吐く。昔からこの男のこういう強引なところが嫌いだった。
正しいことを正しく讃え、間違いを間違いだといって無慈悲に切り捨てる。そこに情なんてものは存在しない。例え、間違いを犯したのが弟だとしても、ミカエルは何の感情も抱かず、驚くほどあっさりと切り捨てることができてしまうのだ。
この男に感情が乗るのはいつだってアダムに関することだけだった。それ以外には平等…といえば聞こえがいいが、興味すらなかったのかもしれない。
「…何でそう思うですか?セラにも言われたでしょう。アダムは死んだんです」
「いや、死んでない。死んだら彼の魂は私の元へ戻ってくるようにしてあるからね」
「おぇー…、執着心丸出しのくせに、よく私を責めらるな…」
「ふふ、私のアダムだからね」
トロリと、とろけるように頬を緩ませるミカエルにルシファーはドン引きした。
いつまで経っても平行線のこの会話にも、表情の変わらないミカエルにもいい加減飽きてきた。
ちょっと煽ってやるか。
「なら、魂が消滅したのでは?」
「ルシファー」
冷たい声で名が呼ばれる。
ほら、自分だって一端にアダムに執着してるくせに、よく自分だけが正しいとでもいうような態度取れるものだ。
「君だろう?アダムを隠したのは。さぁアダムを返してもらおうか」
「……さて、何のことやら」
「別に惚けなくていいよ。さっさと返して貰えればそれでいいのだから」
ミカエルは足を組み替え、ゆったりと紅茶を啜る。
黙ったままでいるとミカエルは首をこてんっと傾げてルシファーの言葉を待つ。
長い沈黙が互いの間に流れて、先に折れたのはルシファーの方で、嫌々言葉を捻り出した。
「それは、……無理です。アレには私が先に手をつけましたから」
ルシファーの言葉は苛立ちを募らせるばかりで、有益なものは一つもない。こちらの願いはただ一つ。アダムを返してもらうことだけだというのに。
「…君は本当に私を機嫌を損ねる天災だな」
「ははっ、貴方には負けますよ。それで?何でわかったんです?」
「アダムの魂に私の魔法を組み込んでいるからね。彼の魂は消滅する前に私の手元に還るようになってある」
ミカエルは、魔法で紅茶を入れ直すとゆっくりと飲み干す。甘い匂いのするその紅茶は、アダムが好んで飲んでいたものだ。
「それが還ってこないとなれば、誰かが持っているということになるだろう?あの膨大な力を孕んだ魂を保有できるのは、地獄では君以外あり得ない」
鋭い眼光が突き刺さる。
ミカエルは立ち上がると足音を鳴らしながら、ルシファーに近づいていく。
普通の悪魔なら縮み上がり、近づかれただけで焼き切れそうな神々しさを放ちながら、ルシファーを睨め付ける。
差し出された手は真っ白で、瞳の奥にあるドロリとした執着をより際立たせていた。
「さぁ早く、還してくれ。でないとあの時のようにお前を捻り潰しそうだ」
普段からは想像できないような恐ろしい声色に、ルシファーは怖気付くのでもなくただ、うっそりと微笑んだ。
「相変わらずの執着で安心しました」
「御託はいい、さっさとしろ」
「まぁまぁ落ち着いてください」
完全に天使の皮を取り繕わなくなったミカエルに対しても、ルシファーは焦る訳でもなく、むしろこの状況を楽しんでいる。
「そんなに見たいなら見せてあげますよ」
「“見たい”ではない。私は“還せ”と言っているんだ」
「綺麗に整えたんです。きっと貴方も気にいる」
ミカエルの言葉を無視して、ルシファーはミカエルの求める男をポータルから呼びだした。
「…っ、アダム!」
暗い顔をしたアダムがポータルから現れ、ミカエルが名を呼ぶ。ミカエルに気がついたアダムは目を見開いた。
「み、ミカエ…」
「アダム」
「…っ」
ルシファーに嗜められて口を績ぐ。
ミカエルはそのことに気づかず、アダムに向かって手を伸ばした。
伸ばした手がバチッと弾かれた。訳がわからず、思考が停止する。
「っ…!……………ルシファー、お前…」
「くっ…、ふふ、あはははっ!!!」
耐えきれず、小馬鹿にするように吹き出すルシファーはなんとも悪魔らしい姿をしている。
「いやぁ、まさか!貴方にも気づかれなかったとはね!これは傑作だ!!」
「…アダムに、何をした?」
「ふふふ!もう気づいてらっしゃるでしょう?」
「…」
「ミ、カエル……」
愛おしいアダムが泣きそうな顔でこちらを見てくる。ミカエルはそんな視線なら逃れるように目線をルシファーに向ける。
「……お前の、悪魔の魔力を飲み込ませたのか」
「ははぁ!そうです!その通り!!」
手を叩いてルシファーは愉快そうに笑う。ひとしきり笑い終わると暗い顔をして視線を下に向けるアダムに語りかけるように話し出す。
「高貴な天使様は悪魔に…いや、地獄の王によって穢れたこの魂に触れることさえもできない!!」
その言葉を聞いたアダムは膝から崩れ落ちる。絶望で顔を真っ青にしているアダムに手を伸ばそうとしたが、その手がアダムに触れることはなく、空を切った。
悪魔らしくケタケタと狂ったように笑うルシファーを睨みつける。
「……リリスだけではなく、アダムまでも手に入れようとするだなんて、傲慢にも程がある」
「はははっ!傲慢結構!……私は貴方のようにちまちまとそばに置くだけでは足りないのです。私は欲しいものは絶対に手に入れる」
ルシファーはアダムを抱き込むようにして背後に回る。絶望するアダムの顎を後ろから片手で持ち上げ、もう片方の手で彼の服を引き千切らんばかりに服の襟首を引っ張った。
グイッと引っ張られ、ぶちぶちと布が切れる。
顕になった美しい素肌に似つかわしくない赤がある。ちょうど心臓がある位置に仰々しく、悍ましい血のような宝石が埋め込まれていた。
心臓の代わりに体の血液を回し、悪魔の魔力を潤滑させるそれは遥か古代より根を張り、身体中に絡みつき、アダムの魂までも縛っている。
もはや、この忌々しい宝石によって生かされていると言っても過言ではない。
「ふふ、言ったでしょう?“先に手をつけたのは私”だと」
「……烏滸がましい…それはお前のものではない」
「貴方のものでもないでしょう?」
見せつけるようにアダムの首筋に舌を這わせ、アダムの瞳から溢れそうな涙を舐めとる。
ずっと欲しかったものが手に入った子どものように無邪気に頬を赤らめ笑っているくせに、瞳の奥はトロリと溶けてしまいそうな淡く甘い光を帯びている。
「……私が先に目をつけて、手を出して、やっとの思いで手に入れた…誰にも渡さない」
背後からアダムを抱きしめる腕はアダムを締め殺さんばかりに強く巻き付いている。苦しいのか、アダムは浅く息を吐いていた。
無遠慮に触れるその手も、雁字搦めにしてアダムの自由を奪うその魔法にも怒りが溢れて爆発してしまいそうになる。
「永い…それは永すぎるこの時をずっと待っていた。天使共からコレを奪い去ってしまいたくて仕方がなかった。埋め込んだこの宝石がアダムに馴染むのを、ずっと、ずっと、ずぅっと待っていた」
ボソボソと喋るルシファーはアダムを離そうとしない。
ミカエルは冷めた目つきでルシファーを見下ろし、抱きすくめられているアダム諸共吹き飛ばそうと光の矢を構える。
アダムは顔を真っ青にしてミカエルを見上げた。
「ミカエル…まさか……」
ルシファーに向けていた冷たい視線から一転して、慈悲深い天使の顔で甘くアダムに言葉を落とす。
「大丈夫、ルシファーに汚された君の肉体を綺麗にするだけだから。本当は肉体も返してもらいたかったけど…そんな汚い体じゃ天国に帰れない」
キラキラと光の粒子がミカエルの手の中に集まっていく。
アダムはそれを過呼吸になりながらただ見つめることしかできなかった。
顔色が悪いアダムを抱きしめ、宥めるように頬にキスを送るルシファーはミカエルに向かって笑いかける。
「無駄だ、ミカエル。永い年月をかけてアダムの魂に絡みついたんだ。魂ごと消滅しかねない」
「この力は清らかな魂には傷一つ、付けることはできない。汚れた部分だけ綺麗さっぱり消してくれるさ」
「…ふふふ、私がなんのためにあの実を渡したと思っている?」
ミカエルは言葉が出てこなかった。
そんな遥か古代からこの人間に目をつけていたのかと思うとますます気持ち悪い。
…これは完全なる同族嫌悪だな。
口いっぱいに苦味が広がるような、不快感が、気持ち悪さがまとわりついた。
「忘れたのか?こいつの罪は“原罪”だぞ?人類最初の罪。何よりも罪深いじゃないか。それに今回の失態。流石の貴方ご自慢の天秤も傾かざる負えないのでは?」
ルシファーはアダムの髪に顔を埋める。ふわふわの髪からは昔と変わらない人間の匂いがした。恋人に接するようにアダムの肌や髪に触れる。
そんな様子をミカエルは不愉快そうにただ見据えるしかできない。
「一度目は許された。二度目はない。アダムは堕ちたんです。私が、私自らこの崇高なる魂を堕とした!堕ちた魂はもう二度と天国の門をくぐることはできない!!」
「やめろっ!!!!!!!」
アダムが耐えられなくなってルシファーの口を抑えた。
ミカエルにこれ以上聞かれるのが嫌だった。
ミカエルの前で間違えるのはもう、嫌だった。
ポロポロと星屑が流れるように涙が零れ落ちるアダムを恍惚とした表情で見つめるルシファーは実に歪んでる。
実際はミカエルを煽っているように見せかけて、アダムを煽ってる。追い詰めて、首を差し出すのを待っているのだ。性格が悪いとしか言いようがない。ミカエルはため息を吐いた。
「アダム」
ミカエルはブルブルと恐怖に震えるアダムに向かって声をかける。
厳かで、まっすぐで、正しいその声にアダムはこれから断罪される殉教者のような心持ちでミカエルを見た。
「お前は何者だ?」
「…え」
ミカエルは一言、そう言うと黙ってしまう。
アダムは間違えないように必死に言葉を探す。
「わ、たしは……私は、アダム…」
小さく、消えるような声で自分の名を口にする。その声を聞いて、ミカエルは大きく頷き、笑いかける。
「そう、お前はアダム。我々天使が塵から創った清く、正しい人類の祖“アダム”だ」
息が一瞬止まった。潰れたはずの心臓が力強く鼓動を奏でる。
「私は私の正しさを裏切れない。私は私自身の正しさを信じている」
一歩一歩近づいてくるミカエルを鬱陶しそうするルシファーを無視して、アダムに目線を合わせるため地面に膝をついた。
「この私がお前を信じている。お前の正しさを信じている…人類の祖よ、我々が創りし愛し子よ。希望を抱け、前に進め。お前は…」
“アダム”だろう?
ミカエルの手がアダムの頬に触れそうな位置で止まった。
「あぁ、君に触れられないのがこんなにも苦しいだなんて…、早くこちらへ帰っておいで」
いつものアダムに甘いミカエルに戻って、愛おしそうにこちらを見つめる。
暗い光を宿していたアダムの瞳がキラキラと輝き始めるのを見て、ルシファーは舌打ちをする。
これだから、ミカエルにだけは合わせたくなかったのだ。
正しさとは絶対で不変的なもの。人の基盤となるような重要で計り知れない力を持っている。心の弱い人間はそんな正しさに惹かれ、身を預けてしまう。
古来より人々を導いてきたこの大天使はその絶対的な正しさで人々を鼓舞し、希望を与え続けてきた。
そんな天使自らが鼓舞し、優しげに、愛おしそうに見つめてみろ。人は希望を抱き、できないはずのことまで、できると錯覚する。
このままでは…駄目だ。せっかく堕としたのにまだ奪われてしまう。
こちらの存在を認識させるため強くアダムを抱きしめる。
振り返ったアダムは最近は鳴りを潜めていた反骨心を剥き出しにルシファーを見ていた。
そんなアダムの様子にルシファーはミカエルを強く睨みつける。地獄の王に睨まれていると言うのに、彼は朗らかに笑った。
「お前如きが我々の愛し子を手にできると思うな」
「………それでも今は、私のものだ」
「いずれアダムはこちらに戻る。期間付きの宝玉だ。お前の手には余りすぎる」
ミカエルは立ち上がる。アダムも顔を上げ、彼を見つめた。
「とは言っても、アダム。正真正銘君の肉体や魂は汚染されている状況だ」
寂しそうにそう語るミカエルは小さな子どもを諭すようにアダムに話す。
子離れできていないにも程がある。ホント嫌になる。
そしてコイツも、アダムも親離れできていない。一種の依存関係だ。
苛立ちを押し込めるため、ルシファーは無意識に自身の頬の肉を噛み締めた。
「そこの愚弟が言うように、私の天秤が傾いているのも事実…だから少しの間、お別れだ。君が正しくあり続ける限り、魂は浄化され、いずれ天国への道は開かれる」
大仰だ。ありえない。一度堕ちればそこで終了だ。そんなことあっていいはずがない。
喚き散らしたい気持ちになる。
せっかく掴んだ宝石が手から溢れ落ちそうで、繋ぎ止めようとアダムを抱きしめる。
この男には慈悲なんてものはない。
現実のみを切に教えてくる。
「正しくあり続けることだ。その正しさがお前を救う」
ミカエルに伸ばそうと上げたアダムの腕にルシファーは引き止めるように指を絡ませた。
ミカエルは一瞬、哀れなものを見据えるかのようにルシファーに視線を向け、すぐにアダムへと向き直る。
「…名残惜しいがそろそろ終わりにしないとね。セラに釘を刺されているんだ……ルシファー」
名を呼ばれて肩が跳ねた。昔、ミカエルに諫められた時のことを柄にもなくルシファーは思い出した。
「アダムを大事にしなさい。その魂は、その肉体は、我々天使が創りし神聖なものなのだ。傷つけることは許さない。それに…」
いつも優雅に笑みを浮かべるミカエルからは想像できない悪戯っぽい笑い方でルシファーを一瞥した。
「好きな子を虐めて許されるのは幼児だけだ」
じゃあまたね、アダム。
キラキラと光の粒子となってミカエルが消え、その場にはアダムとルシファーが残された。
未練たらしく、アダムの心に希望を残して消えたミカエルに苛立ちとやるせなさが募る。
ミカエルにバレた時点で詰んでいたのだ。
「アダム」
声が震えた。
せっかく手に入れたのに。自分のものになったのに、離れてしまうのか。
「アダム、言ったよな。地獄は永遠に続くのだ、と!地獄が永遠に続くなら堕ちたお前は…っ!ずっとずっと私のものだろう?!」
天使に示された崇高なる使命に心奪われたアダムには、もう悪魔の声など届かない。
ミカエルが去った後をただじっと見つめている。
「なぁアダム。お前は…天国になど、戻らない…よな…」
最後の方は声が小さくなってしまった。それこそ、本当に、子どもみたいに。
抱きしめると柔らかな皮膚の温もりを感じる。触れれば確かに鼓動を感じる。
それなのにアダムが酷く遠くにいるようで、涙が出そうになった。