雨、心、思いもよらぬ「……寒いッ! 」
戸を豪快に開け放ち、玄関に転がり込んだブロッケンの第一声がそれだった。常なら戸の開け方やら玄関先での大声やらに、苦言の一つでも呈しているところだ。しかし、今日ばかりは許してやるつもりでいた。
「いや、まさかあそこまで降られるとは……」
「本当だぜ、全く……。土砂降りになるまで、本当に一瞬だったからな。故郷を思い出す」
「ふふ……まさしく通り雨というやつだな。お陰ですっかり濡れ鼠だ」
閉めた戸の外から聞こえてくる雨音に、思わず溜め息を吐く。
買い出しを終え、さあ帰宅だと歩き出したその瞬間。そこを狙ったように降り出した雨は、瞬く間に何もかもを濡らし尽くした。
そんな予報は聞いていなかった我々は、当然傘など持っていない。休みを利用して少し遠出したのが災いして、まさかの全力疾走をすることになってしまったのである。
努力の甲斐あって、買ってきた品々はなんとか守り抜いた。悪くなる前に生鮮品を冷蔵庫に片付けてしまえば、完璧な守りであったと言い切れるだろう。悲惨なのは持ち手二人の方だ。
ブロッケンのジーンズは片側だけすっかり色が変わってしまったし、ラーメンマンのシャツもずいぶん重たくなった。当然ながらボトムスも無事ではない。
(私も撥水性のある上着を着ていくべきだったな……)
脱いだウインドブレーカーから水を払うだけで済むブロッケンが、今は少し羨ましい。そう言えばドイツでは通り雨が多く、わざわざ傘を持ち歩かずに服の工夫で済ます者も多いと聞く。先の発言から察するに、ブロッケンの服装もそう言う類のものだったのだろうか。
そういう所は見習うべきだなと感心していて、ふと顔を顰める。濡れたシャツが肌に貼り付き、非常に気持ちが悪い。着替えだけで済まそうと思っていたが、これはいっそ風呂に入ってしまった方が良さそうだ。
不快なそれを剥がすようにして、ボタンを二つほど開ける。綺麗な着方とは言えないが、どうせ脱ぐから構わないだろう。弊害と言えば、空気に触れるところが少し寒いくらいだ。
眉間の皺を深くしながら、買い物袋を取り上げる。早くこれを片付けて風呂に入るとしよう。そうでなければ風邪を引く。
「ブロッケン、お前はそこの袋を持ってきてくれ……ブロッケン? 」
言いながら廊下に踏み出しかけて、返事がないことに気づく。不思議に思って振り返れば、何故か固まるブロッケンの姿があった。というより此奴、上着の下はタンクトップだったのか。若いって良いな。
そんな余計なことを考えているうちに、元気な若者は我に返ったようだった。
「ラッ……いやお前それ、それよお……! 」
「何が言いたいのかさっぱり分からん……」
それ、と言いながらこちらを指すからには、ラーメンマンの方に何か気にかかる点があったのだろう。しかし、残念ながら何を言いたいのかが分からなかった。これではどうにもしてやれそうにない。
首を捻っていれば、盛大に溜息を吐かれた。何なのだ、本当に。思わず顔を顰めるラーメンマンをよそに、ブロッケンは乱暴に頭を掻きむしりながら言う。
「そうだよな、分かんねえよな……! もう良い、とりあえずお前は早く風呂に行け! 」
「は? いや荷物が、」
「俺がやっとくから! いつも通り入れとけば良いんだろ? 」
「あ、ああ……細かい処理は夜にやるからな……」
「じゃあもう俺だけで問題ねえだろ。ほら早く! 」
身体の向きを変えられ、ぐいぐいと背中を押される。 反射的に踏ん張ってしまったので全く進んではいないが、ラーメンマンの脳内にはとにかく疑問符が浮かんでいた。
だが、その無意識の抵抗と考えている時間が気に食わなかったらしい。焦れたように「あーもう! 俺が先行った方が早い! 」などと言い放ち、四つある買い物袋を全て掴み上げた。そして、そのままバタバタと騒々しく駆けていく。
嵐のように去っていった姿を見送りながら、一人首を竦める。
「何なんだ、全く……」
謎を残したまま立ち去るのはやめてほしい。やれやれと息を一つ吐き、自身もまた足を進める。行き先は当然ながら風呂場である。
結局何が言いたかったのかと問うのは、入浴を済ませてからでも構わないだろう。急かされる間も無く、身体も冷えてきたことであるし。
肩を摩りながら扉に手をかけたところで、ふと名案が浮かんだ。思いついたままに、キッチンの方へと声を上げる。
「ブロッケン、それが終わったら風呂へ来い! お前も冷えていることだろう! 」
被害はラーメンマンより少ないとはいえ、あいつも多少は身体を冷やしている。風呂であったまる利は確実にあるし、それなら一緒に入った方が効率がいい。そんな思いからの発言だった。
それなりの声量を出したはずだが、返事がない。聞こえなかったのだろうか。仕方がない、もう一度と口を開きかけたところで、キッチンに繋がる扉からひょこりと丸い頭だけが覗いた。それから、一言。
「お前、ホントに後で覚えとけよ……」
恨みがましげな呟きを残して、扉が荒っぽく閉じられる。もう少し優しく、なんて小言を溢すより前に、浮かんできた疑問は一つだけ。
「いや、だから何をだ……? 」
弁髪から滴ろうとする水気を受け止めながら、ラーメンマンはまた首を傾げるのだった。