こはくのしずく さくらあめ 秋の夜長と言うのか、少しずつ肌寒さを感じ始めた夜に、そいつはひっそりと現れた。
「よぉ、さぁくらぁ」
オレの名前を呼ぶその表情は緩く、腕や首に色んな模様が入っている厳つさを忘れさせるくらい穏やかだ。
「久しぶりだなぁ」
世間話を始めそうな勢いのそいつ、──── 棪堂哉真斗を、オレは思い切り睨み付けた。
「……どっから来てやがる」
というのも棪堂は、ベランダ側の窓を開けて入って来ようとしているのだ。
ここは2階で、上がって来ようと思えば上がることは出来るが、やってることは泥棒と同じだ。
うちに盗るもんなんか何もねぇが、不審過ぎるにも程がある。
布団を敷いて寝ようと思った瞬間に、ふと見た窓の外に人が居るのは、恐怖と言ってもいいだろう。
思わずデカい声を上げちまったじゃねぇか……。
「めっちゃ驚いてたもんな」
さらにニヤニヤ笑いになった棪堂を追い出そうと、勝手に開けられた窓を閉めようとするが、太い腕がそれを阻んだ。
「入れてくんねぇの?」
「なんで入れて貰えると思ってんだよ」
「せっかく桜に逢いに来たのに」
「知らねぇし頼んでねぇ」
「まあまあ」と言いながら、棪堂はビニール袋を押し付けて来て、反射的にそれを受け取った瞬間に、窓をガラリと全開にされた。
ぴゅぅと冷たい風が頬を撫で、オレは思わず身震いをした。
窓を開けてベランダ越しに話しているのも肌寒く感じて来たので、オレはしぶしぶと棪堂を部屋の中に入れてやる。
「サンキュー」
靴を脱いで上がって来た棪堂は、いったん靴を持って玄関へと向かって行った。
だったら始めから玄関から入って来い……。
心の声が表情に出ていたようで、棪堂はニヤリと口端を持ち上げた。
「ちょっと驚かせてみたくてさ」
棪堂の思惑通りに驚いたことが癪に触って、思わずムッとした顔をした。
「……で、何の用だよ」
「近く寄ったから、土産を渡そうと思ってな」
先ほど渡された腕の中にあるビニール袋を覗いてみると、九州の地名が書いてある菓子の箱がいくつか入っていた。
「土産寄越す関係でもないだろ……」
ほとんど土産なんて貰ったことの無いオレは、どうしていいのか判らずにそんな言葉を口にする。
「え~? むしろオレが土産買ってく相手なんて、桜しかいねぇんだけど」
逆に棪堂は意外そうな顔で、またしてもケラケラと笑った。
「直接顔も見たかったしな。……返信もくれねぇし」
棪堂とはスマホのメッセージアプリで遣り取りをしていた。
しかし、怒涛のように送られてくる旅行先の写真やメッセージに、返信が間に合わなくなるのだ。
「……ちゃんと既読にはしてるだろ」
一応、見てはいる。
見てはいるのだ。
何をどう返信していいのか判らないだけで。
棪堂は、梅宮と焚石とのケンカが終わった後、焚石と一緒に全国を放浪しているらしい。
『おもしろい人間を探す』という目的の旅は、行く先はとくに決めていないらしく、棪堂から届くメッセージは色んな土地の風景が映っていた。
「桜はどんな景色が好き?」
「よく判んねぇけど、お前が送って来る写真は、嫌いじゃねぇよ……」
「マジで? そしたらまた送っていい?」
「どうせ勝手に送ってくんだろ……」
ニシシと笑った棪堂は、オレの言った通りに、今後も勝手に送ってくるのだろう。
メッセージが送られてくることも、見知らぬ土地や物の写真が送られてくるのも嫌いじゃないから、オレはそのまま受け取り続けるだけだ。
「今日来たのはさ、しばらく日本を離れるから、挨拶しようと思って」
挨拶なんて、そんな殊勝なことを言うやつには見えないが、こいつのコロコロ変わる表情からは、他意や裏は感じられなかった。
「何処行くんだよ」
「海外を点々とかな。焚石が行ってみたいっていう国を、何ヶ月かかたっぱしから行ってみようと思って」
焚石と一緒に行動することが当然だという棪堂の言葉に、何故か胸がチクりとしたが、気にせずに「ふ~ん」とどうでもいい風に返す。
「桜、旅行したことねぇって言ってたろ?」
「ああ」
「学校卒業したら、一緒に世界回ろうぜ」
なんとなく肯定も否定も出来なくて、オレは「考えとく」と曖昧な返答をした。
* * * * *
その日から数日後に日本を脱出したらしい棪堂は、空港の写真から始まり、行程を細かに送り付けてくる。
そんな調子でメッセージが送られてくるものだから、棪堂とのトーク画面のアルバムには、画像がどんどん増え続けた。
『桜、これ好き?』
まるで本人が喋っているときのように、メッセージと画像がひっきりなしに届く。
メッセージの量には辟易するが、オレ自身が行ったことの無い場所の景色が送られてくるのは、なんだか楽しい気分になった。
『桜に見せたい景色があってさ、電話していい?』
そんな風に唐突に電話が掛かってくることもあった。
ビデオ通話にすると、棪堂の顔が一瞬見えた後、空や海や街の景色が映し出される。
『今、居んのは海のど真ん中でさ、空と海の境界があいまいになんだよ』
言いながらカメラを向けられたが、暗い中に小さな灯りがいくつか見えるだけで、海なのか空なのかは判らなかった。
「あんま判んねぇな」
正直に感想を言うと、棪堂は苦笑しながら「写真送るわ」と言って、すぐにトーク画面に写真を添付してくる。
送られて来た写真は、黒というより深い青の空と、同じような色の海。
写真の中には人工的な灯りが何一つないのに、ほんのり光っているようで、たくさん見える星が日本では見られない景色だった。
そんな風に棪堂は、毎日毎日旅先で見た景色を送って来たし、アルバムにも追加していった。
それだけでなく、唐突にその国の風景写真の絵はがきを、オレのアパートに送りつけて来ることもあった。
海外から手紙なんて貰ったことが無かったオレは、アルファベットで書かれた宛名にびっくりしたが、一緒に日本語で書かれた名前と一言のメッセージで、棪堂が送り付けてきたものだと理解した。
そのはがきの風景は、メッセージアプリの遣り取りで聞いていた国とタイムラグがあったけれど、実在するものなのだと、何故か温かい気持ちになったりもした。
棪堂と最後に会ってから、メッセージだけのやりとりが、ひと月、ふた月と続き、日本はすっかり冬になっていた。
けれど、棪堂から送られてくる写真は、南国だったり砂漠だったり、全く気候が違う景色で、本当に遠い場所に居るのだなと、時々切ないような気持ちになった。
『次の国はネット環境悪ぃから、今までみたいに連絡できねぇかも』
棪堂からそんなメッセージが届いたのは、2月に入ったばかりの頃だった。
風鈴では梅宮たちの卒業が近付いていて、来年度に向けて忙しなくなっている状況でもあったから、オレはあっさりと『別にいいけど』と返信したら、棪堂からは『つれねぇなぁ』と、泣きながら笑っている絵文字が送られて来ていた。
それが最後のやりとりになってから、一週間程。
オレのメッセージアプリのトーク一覧の中で、いつも上の方に居たのに、気付けば少し下の位置になっていた。
まだネットに繋がらない環境に居るのか、それとも…………。
『まだ電波繋がらねぇの?』
棪堂とのトーク画面に一言メッセージを入れて、送るか送らないか迷った末に、紙飛行機のマークを押した。
その後、棪堂からの返信は無く、それどころかトーク画面を開いて確認しても、いつまでも既読にすらならなかった。
* * * * *
そんな風になんとなく気になりながらも、棪堂に対して何もできない日々が続いていた。
連日引継ぎやなんかで屋上に行くのが習慣化していたため、その日もオレは授業が終わると屋上へと向かった。
「ねぇ、それって本当に……?」
「ああ、焚石と棪堂が紛争に巻き込まれたらしくて……」
屋上の扉を開いたところで唐突に耳に入って来た聞き覚えのある名前に、オレは思わず動きを止めてしまう。
入ってすぐのテーブルセットに、梅宮たちが座って話をしていた。
「なんで梅のところに連絡が行くのよ?」
「焚石のスマホの連絡先、オレと棪堂のしか入ってなかったらしくてな……」
「あぁ……」
椿野の問いに梅宮が答え、柊が小さく頷いていた。
「紛争に巻き込まれて、どうなったんだ……?」
オレは思わず近付いて、梅宮に疑問を投げ付ける。
急に話に割って入ったオレを、梅宮の後に立っていた杉下が睨んでいたが、そんなことは気にならなかった。
「──── から連絡があって、焚石と棪堂が死んだらしいって……」
何を言われたのか全く分からなくて、オレの頭の中を梅宮の言葉がぐるぐると回る。
死んだ? あの焚石と棪堂が?
そんなこと、信じられるはずがない。
殺したって死にそうにない二人だぞ?
紛争に巻き込まれたからって、そんなに簡単に死ぬものか……?
紛争ってなんだよ。
なんでそんな危ねぇ場所に行ってんだよ。
そんなの旅行じゃねぇだろ?
『おもしろい人間』なんて、そんな場所じゃなくても探せるだろ?
だいたい、なんで焚石の言う事ばっかり聞いてんだよ。
オレに惚れたなんて言ってたクセに、結局それが何のことなのかさえ、明かさなかったくせに。
毎日毎日、うるさいくらいに連絡寄越してきた奴から、急に連絡が来なくなったら、どうすればいいんだよ……。
脳内の言葉が棪堂への文句で溢れてしまい、オレは梅宮たちに挨拶もそこそこに、屋上を後にした。
* * * * *
それから1ヶ月が経った。
数日前に梅宮たち3年生が卒業し、1/3の生徒がいなくなったことで、学校が随分と静かになったように感じた。
秋の中頃から冬の半ばまで、ほぼ毎日棪堂から来ていたメッセージは、一ヶ月以上音沙汰が無くなっていた。
時折、棪堂とのトークルームを見てみるが、最後に自分が送ったメッセージは、いつまでたっても既読が付かない。
そのタイミングでトーク画面をスクロールすると、棪堂からのメッセージと写真が並んでいるのが目に入る。
オレからはリアクションの絵文字だけとか、一言の返信しかしていないのに、棪堂はその何倍もの情報量を、オレに送ってくれていたのだ。
メッセージの文字を目で辿るだけで、棪堂の声が脳内で再生される。
出会った当初やケンカの最中に聞いていたのは鋭い毒の強い声だったのに、その後から聴いていた穏やかで低い声を心地いいとさえ思っていた。
自分が送ったメッセージを最後に、途絶えてしまったトーク画面に、胸がぎゅっと苦しくなる。
既読すら付かない最後のメッセージが、本当に棪堂が死んだことを証明しているようで。
『お前、本当に死んだのか?』
文字を入力して改めて読み返すと、自分で打った文字なのに酷く苦しい気分になる。
けれどこれを送ったら、『んな訳ねぇじゃん』と、軽い口調で返信が届くんじゃないかと期待もしてしまう。
ただメッセージを遣り取りするだけの間柄だったのに、オレにとってとても重い存在になったような気がして。
オレは奥歯をぎゅっと噛み締めて、紙飛行機ボタンをタップした。
棪堂からのメッセージが来るかも知れないと思うと、スマホを気にしてしまうようになった。
最後に送ったメッセージにも、返信も無ければ既読も付かないのに。
トーク一覧の下の方に下がっていく棪堂との遣り取りを、時折開いては何も変わらない画面に小さく溜息を吐く。
不意に、淡い色の花びらが、ふわりとスマホの画面に落ちた。
見上げれば川沿いの並木の桜が、満開になっていた。
この街に来たのは1年前だ。
最初は自分と同じような奴らがいる場所で、てっぺんを取ってやろうと思っていた。
けれどこの街の人間も風鈴のみんなも、これまでオレが出会って来た奴らとは違って、オレを受け入れてくれた。
敵だった連中とも和解したり仲良くなったりして、友人と呼べる人間も増えた。
棪堂だって最初は敵だった。
それが今では死んだことを信じたくないくらいには、オレに影響を与えている。
帰宅途中にぼんやりと考えごとをしながら、何度もスマホを確認していたら、気付けば家の前に立っていた。
相変わらず鍵を掛けていないドアを開くと、暗い床に何かが落ちている。
電気か水道の使用明細か何かかと思って拾い上げると、それよりも硬い紙だった。
暗い中に浮かぶ、アルファベットで書かれた文字。
内容をちゃんと確認したくて、閉じ掛けていたドアを大きく開け放つ。
見慣れたオレの住所と名前が書かれていて、そして棪堂の名前の下に、1行だけのメッセージが書かれていた。
『このはがきが届く頃には、お前に直接逢いに行くな』
クセのある日本語の文字からは、あの声が聞こえてくるようで。
はがきを裏に返すと、異国風の公園と桜並木の写真だった。
その写真の上にも油性ペンで一言メッセージが書かれていた。
『海外にも桜はあるけど、やっぱ日本の桜がいいわ』
もう一度はがきを裏返し、切手の上に押された消印を確認する。
何通も海外からのはがきを貰ったお陰で、消印の日付が読めるようになっていた。
それは、棪堂が最後にメッセージを送って来た前日の日付だった。
「……っ」
思わず喉から押さえられない声が漏れた。
喉の奥がぎゅっと苦しくなり、鼻の奥がツンと沁みるように痛む。
視界が一気に水の膜に覆われて、ポタリとはがきに水滴が落ちた。
「……くっ」
一滴涙が落ちると、引き摺られるように次から次へと涙が零れていく。
なんでこんなに泣けてしまうのか。
なんでこんなに胸が苦しくなるのか。
なんでこんなに会いたいと思ってしまうのか。
もう叶わない望みが、とりとめのない日常が、これほど自分に深く突き刺さっていたのかと、思い知らされた。
「……なんで玄関で泣いてんだよ」
唐突に聞こえた声に、オレはハッと顔を上げる。
目の前には、少し日焼けして驚いた表情をしている棪堂が立っていた。
「は? え? お前、死んだって……」
驚き過ぎて、持っていたスマホを取り落としそうになった。
棪堂が死んだと聞かされてから、全く連絡の無かったスマホのメッセージを慌てて確認するが、やはり既読にはなっていない。
目の前に居るのは、本当に棪堂なのか……。
「いやぁ、スマホぶっ壊れちまってさ……」
目の前でメッセージの確認をしたからか、種明かしのように言いながら、棪堂はヘラヘラとしている。
それを見ながらオレの中で、フツフツと怒りのようなものが湧き上がって来た。
「オレの電話番号、言ってみろ……」
「080-XXXX-XXXX」
淀みなく答えた棪堂の胸に、オレは拳を押し付けた。
「覚えてんなら、連絡くらいして来いよ……」
「驚かそうと思って……」
いつかと同じセリフに、オレはドンと棪堂の胸を叩いた。
「さくら……?」
オレの顔を覗き込もうとする棪堂を制するように、オレはまた拳で棪堂の胸を叩く。
ドン、ドン、ドン。
棪堂はしばらくオレの好きにさせた後、両手でオレの顔を持ち上げて上を向かせた。
「泣いてたのって、オレのせい?」
「違う!」
反射的に否定したけれど、棪堂の顔はデレデレとしている。
「桜のこんな顔が見れんなら、死んだ甲斐があったな」
こっちの気を知りもしない態度にムカつき過ぎて、棪堂の顎を狙って拳を付き上げる。
しかしヒョイと避けられて、余計に腹が立った。
「土産は何も持って帰れなかったからさ、土産話だけでも聞いてくれよ」
それまでの揶揄うような表情から一変した柔らかい笑顔に、オレはまた、ジワリと目の奥から涙が溢れそうになった。
「何で死んだことになったのか、ちゃんと説明しろ」
涙が溢れそうなのを誤魔化すように、眉間に力を入れて棪堂を見上げれば、酷く優しい眼差しとぶつかった。
「もちろんもちろん。中でのんびり茶でもしながらじっくり聞かせてやるよ」
棪堂は持っていたビニール袋を掲げてそんなことを言う。
恐らく、中に飲み物でも入っているのだろう。
「部屋に上がること前提かよ」と思ったけれど、何も言わずにオレは頷いた。
久しぶりに棪堂の声を、じっくりと聴いていたいと思ったからだ。
棪堂を部屋の中に入れるために前を通すと、棪堂の服から、ひらりと桜の花びらが1枚落ちた。
ふと道路の向こうを見れば、風に流されて桜の樹から花びらが舞っている。
散る花びらを見て、先ほどまでとは違う気持ちになっていることに気が付いた。
end