「邪魔だ、どけ」
強い衝撃があって、突如意識が鮮明になる。鈍く痛む部分を抑えてうずくまったニョンは、横腹を蹴り上げられたのだと廊下の角に消えていくニェンの背中を見て理解した。
こうして彼に一発食らわされて目覚めるのも、もう何度目になるか分からない。というのも、ここ最近のニョンはほとんど朝までベッドで大人しく眠っていることが出来ないみたいだった。今日だって、人形たちと一緒になって廊下に転がっていたらしい。
いわゆる夢遊病というやつではないかと、ご主人様は疑っていらっしゃるそうだ。どこかまだ他人事のように感じている部分があって、例えば、幽霊が眠っている自分を夜な夜などこかに運んでいるのではないかと考えては夜毎ゾッと身を震わせていた。
朝食のためにキッチンを目指す道すがら、原因について考える。体が休まらないのか、流石のニョンも連日の寝不足で少々まいっていた。
普段から常用している大麻は真っ先に指摘され、ご主人様に禁止されている。しかし完全に断っているにも関わらず、夢遊病の症状は続いていた。そうなるとニョンには自覚できる原因は思い当たらず、もはや出来ることといえば、カウンセラーに近々休暇の予定があるかどうかを確認することくらいだった。
「……おはようございます」
ビーズカーテンの玉を潜りキッチンへ入ると、コーヒーの落ち着く香りが広がっていて、思わずニョンは鼻を鳴らした。シンクの前でカトラリーを洗っている女を見つけると、驚かせないよう少し足音を立てて隣に立った。瞼をこすりながら声をかける。女が視界に入るとどうしてか、目の奥がチカチカするような気がしていた。
「おはようニョン。何か飲む? ニェンはコーヒーだったけど」
「いえ……わたしはミルクを、ぬるめで」
「はいはーい」
女は明朗な返事で冷蔵庫を開ける。「マグカップにする? お皿にする?」と言う問いかけに対しニョンは少し考えた後、マグカップを選んだ。なんとなく、彼女の隣でポケットに片手を突っ込みすまし顔でコーヒーをすするニェンが脳裏に浮かんで嫌な気持ちになったから。思ったより今朝の一蹴を根に持っているのかもしれない。
女から軽くレンジであたためられたマグカップを手渡され、小さく頭を下げる。息を吹いて口を付けたあと、そういえばぬるめを注文したのだったと少し恥ずかしい気持ちになった。
「……ちょっと隈が出来てるね。もしかして、眠れてない?」
心配そうに眉を下げる女の優しさに触れて、ニョンは少し泣いてしまうかと思った。
実は、夜な夜な半分覚醒して屋敷を歩き回っているんです。そのせいで寝不足なんです。助けてください。正直そう言って縋りついてしまいたいほどにはほとほと疲れ切っていたので。
ミャオ……と力なく鳴くニョンを見て、女は何とかしてやりたいと心から思った。うんうんと思考を巡らせて、もしかすると寝具が合っていないのではないかと考える。確か、彼のベッドは二段ベッドで、体格に対して少し小さいのかもしれない。しかし「ベッドを買い換えてみたら?」というアドバイスは、上段を別の猫が使っている以上あまり現実的ではないように思えた。それならば、でも……。
一瞬思うところがあったものの、女は思いついた妙案を早速試してもらおうと、ミルクを飲み切ったニョンの手を引いてキッチンを後にした。
◆
誰かに頭を撫でられている。
あたたかい場所でまどろみながら、ニョンは前にも同じことがあった気がしていた。いつのことだったか思い出そうとしてみたけど、なにも思い出せなくて、でもまあいいかと思った。それよりもっと撫でていてほしくて、手の持ち主へ腕を伸ばす。何か柔らかいものに触れたので引き寄せると、少しひんやりしていて気持ちがいい。もっとくっつきたくて、腕の中に抱き込んだらいいにおいがした。意識が深いところに沈んでいくのを感じながら、ニョンは、ずっと昔からここにいたかったことを思い出していた。
――再び深い眠りについてしまった男の腕の中で、女はどうしたものかと小さくため息をつく。しっかりと抱え込まれてしまって、どうにもこうにも抜け出せそうになかった。
寝具が合わず寝不足の男にベッドを貸してやり、十分に時間が経ったので起こしてやろうと近づいてこのありさま。いくら猫として飼われているといっても、客観的にみて不健全すぎる。
それに女は知っていた。ごつごつした指先はあまり手入れされていなくて少し荒れていること、背後から近づくとき驚かせまいとわざと音を立ててくれること。女にとって、ニョンはひたすらにひとりの、人間の男だった。
嫌でも熱くなる頬を男の胸に押し付けて、もう一度ため息をついた。次はきっと、自分が寝不足になる番だ。