頭の中を、小さな数字たちがせわしなく走り回っている。
そんな馬鹿げたイメージが脳裏に浮かぶとき、ルーサーは自分が疲れすぎていると自覚していた。人間とは、考えることが多い。常にたくさんの問題を抱えていて、一つずつ、あるいは二つや三つずつ解決していかなくてはならない。時に、解決が新たな問題を生むこともあるだろう。なんてことだ。例えるなら、夜に食べた食事が碌に消化されないまま朝を迎えたような、そんなすっきりしない感覚を覚えて嫌になる。深く長くため息を吐きながら、なんて人間らしい悩みなんだと自分を誇らしく思った。
しかし、ずっと悩みの中にいたり疲れすぎていることは物事の停滞を招く。事態を好転させるため、いまルーサーに必要なものは、十分な休息、または心を安らげるための何か―――淹れたてのハーブティーやお気に入りのテレビ、ペットたちの顔と一緒にまた無数の数字が頭をよぎりだして、もう今日はこれ以上考えたくないとうんざりしたとき、扉からコッコッと小さなくちばしで突くような音がした。
「ルーサー、起きてる?」
ノックの音のあとに、ひかえめな声がかかる。ルーサー自身の計らいで、『一時的に』アイボリー邸に居候している女のものだった。その声色に後ろめたさや心細さのようなものを感じ取り、ルーサーは「入っておいで」と出来るだけ声を柔らかくして促した。
入室の許可を得た女は、飼われたての仔猫を思わせる慎重な動作で扉を開き顔を覗かせる。自分がかけていたベッドの隣に座らせると、当然の慈愛をもって尋ねた。
「こんな夜更けに、どうしたんだい」
「……その、こんなこと……この歳になって、恥ずかしいんだけどね……」
女の、ひとつずつ言葉を選んで音にする作業に、ルーサーは根気よく耳を傾けた。ぽつりぽつりと零すように話し終えた女は、この部屋に入ってからずっと気まずそうに逸らしていた視線をやっとルーサーに向ける。申し訳なさと少しの羞恥、それからわずかな期待。その視線ひとつでいくつもの感情を滲ませる女の複雑な動作に、ルーサーは改めて惚れ惚れした。
ところで、女が夜もふけようかという時分にやってきた理由としては、つまるところこうらしい。眠ろうと目を閉じると、今日見た凄惨な光景を思い出して怖くなってしまったと。
「それでわたし、ルーサーに会ったら安心するかと思って」
「……そう。わたしを頼って来てくれたんだね。嬉しいよ」
ルーサーは何故か一瞬食欲が沸き立つような気になって、思わず解放しかけたが、咄嗟にグッと口元に力を入れて堪えた。そして、繊細なガラス細工を扱うように、女の頭を撫でてやる。
今日の出来事は女にとって、確かに恐ろしい体験だった。なにやらキッチンが騒がしく、何事かと駆けつけてみると、そこらじゅうが血まみれの部屋で何匹もネズミが死んでいて―――やんわりとこの家の血生臭い部分から遠ざけられていた女にとって、あまりに猟奇的な光景すぎたのだ。きわめつけに、部屋の壁を這って歩く見知った男の目玉が、グロテスクに飛び出てぶら下がっていた。声も出せずに気絶していたのを、事態を治めにやってきたルーサーに起こされて、その胸で少し泣いた。
「ニェンの目も、本当に大丈夫なの?」
潰され、くり抜かれた目玉がよほど恐ろしかったのだろう。手当を受けたあとのニェンのことを、女がチラチラと見ては泣き出しそうな表情を浮かべていたことを思い出す。
「彼なら大丈夫だよ。わたしが生命線を書き足してあげたからね」
「生命線?」
これはルーサーなりのお茶目な比喩表現だったのだが、当然女には伝わらない。それに、今の時点では教えるつもりもないので「これでも手相を見るのが得意なんだ」と雑に誤魔化す。
「ほら、君も占ってあげよう。手を出して。ふむ……なるほど……これは……」
「これは……?」
「小さくて可愛い手だ♡」
男の冗談に、女は笑いながら「もう!」と楽し気に非難してみせた。
―――今回のラット問題は、ルーサーにとっても家族の信頼を揺らがせ、今の今まで頭を悩ませていた出来事だった。それが、女と話しているうちにうんざりする気持ちがなくなっていることに気づく。
同じ出来事で心に傷を負った者同士、慰めあう必要があるな……そう考えたルーサーは、この後どんな言葉を尽くせば、朝を迎えるまでの時間、彼女をこの部屋に引き留めていられるかについて考えを巡らせ始めるのだった。