気が付くと、あなたは森の中で佇んでいた。
辺りには、かすかな風の音と、遠くで鳴く獣の声だけが響いている。薄寒い空気が肌を撫で、あなたは思わず身を震わせた。
微かに立ち込める霧の中、目を凝らしてみると、木々の間から差し込む月明かりが道をぼんやりと照らしていた。車一台通るのがやっとの細い道だ。じっと湿った地面は所々ぬかるんでいて、タイヤの跡ででこぼこしている。
あなたは、その道に向かって迷いのない一歩を踏み出す。この先に何があるのか知っているからだ。夢の中で、もう何度も歩いた道だった。
あなたは今、夢をみている。
その一本道をしばらく進むと、少し開けた場所に建物が現れる。年季が入っているが、洋風で薄ぼけた象牙色の大きな屋敷だ。
あなたはいつも通り、教えられた通りにドアノッカーを三回鳴らす。返事はない。あなたは自らドアを開け、「おじゃまします」と一言添えて屋敷に足を踏み入れた。
屋敷の中は不思議な意匠をしている。床も壁も妙に波打っていて、辺りには人形やお面のようなものが乱雑に散らばっている。あなたはそれらを少し不気味に思いながら、うっかり蹴とばしてしまわないよう、気を付けて歩みを進める。
あなたには目的の部屋があった。この夢をみるとき、必ず訪れるようにと彼と約束をした部屋だ。起きるたび部屋の間取りは変わってしまうのだけれど、不思議とあなたにはいつも行くべき道がわかっていた。
扉を三つくぐって、廊下を四回曲がって、一つの部屋に辿り着く。子供部屋みたいなプレートのかけられた部屋だ。あなたはここでも三回ノックをして扉を開く。部屋の中は、廊下よりもずっと多く物が散乱しているにも関わらず、どこか閑散とした印象だった。
雑然とした部屋の中、無数の人形に囲まれて少年が寝そべっていた。日本的な学生服に白い手袋、黒い額縁眼鏡の少年はあなたに気付き、勢いよく起き上がって頬を膨らませた。
「やっと来た! 遅いよ、先に起きちゃうかと思った」
子供らしい仕草で不機嫌を表現してみせる彼――ランダルは、あなたの夢の中の友達だった。
あなたは「遅くなってごめんね」と、なだめるようにランダルの頭を撫でる。肩まで伸びた髪は少し硬くて、錆びた鉄のような色をしている。そんな風に例えてしまうのは、ランダルがいつもほんのり血のような匂いを帯びているからかもしれない。夢の中だと確信しているはずなのに、感触もにおいも本物みたいだ。そう感じるたび、あなたは仄かに不安な気持ちに襲われた。
「今日は昼寝をしなかったから、きっと長く眠っていられるはずなんだ。でもあなたが来るのをちょっとの間――わたしにとってはまあまあの時間待っていたから、やっぱりそんなに遊べないかもね」
ランダルは残念そうに首を振ってカーペットの上に座りなおした。続けて「今日はいつも通りの時間に眠らなかったの?」とあなたを見上げて尋ねる。あなたは決まりが悪そうに、言葉を選ぶように答える。答えながら、足元の人形をいくつか、そっと脇に寄せてランダルの隣に腰を下ろした。
「今日は……色々あって、眠れる気分じゃなかったの」
「ふうん。大人でも眠れない夜があるってわけだ」
「たぶん、大人とか子供とか、歳は関係ないよ。人間は死ぬまでそんな夜を持ち続けるんだと思う……」
そう口にした途端、あなたは思い出したかのように悲観的な気持ちになった。目の奥がツンと痛んで、視界が歪む。夢の中で、それもうんと年下の男の子の前で泣くなんて変だ。せめて顔だけでも見せたくないと、あなたは立てた膝に顔をうずめる。
例え、ランダルが自分の無意識下の分身――アニムスだったとしても、あなたにとっては大事な友人で、そんな彼に情けない部分を見てほしくなかった。
「わっもしかして泣いてるの? どうしよう、わたし、大人が膝を抱えて泣くのを初めて見るよ。ちょ、ちょっとよく見せて……」
そんなあなたの意固地な気持ちもつゆ知らず、ランダルは興奮を隠せない様子であなたの周りを落ち着きなくぐるぐると回って、興味津々に見回してくる。しまいには、床に這いつくばらんとしてまで泣き顔を覗き込もうとしてくるありさまで、あなたはとうとう可笑しくなって、声をもらして笑ってしまった。
自分の中に、こんなにも天真爛漫で、奔放で、素直な人格があったなんて。現実でも、ほんの少しでもこうあれたら良かったのに。あなたは何だか馬鹿馬鹿しくなって顔を上げる。ランダルが「あなたって、そんな顔で泣くんだね」と恍惚の表情で言って、ちょっと嫌な気持ちになった。
「恋人にふられたの」あなたは独り言みたいに呟いた。改めて言葉にすると、余計にみじめな気持ちがする。ランダルに、可哀想な女だと思われたくなかったあなただけれど、もう、彼が同情なんてしない性質であることは改めて思い知らされていた。
「この人と結婚するんだろうなって思ってた。でも向こうは違ったみたい。私といてもつまらないんだって。私と結婚して、つまらない人生を送るのは嫌なんだって」
あなたが努めて淡々と話す間、ランダルは膝を抱えて座り、膝に耳をつけてあなたを見つめていた。先ほどとはうって変わって大人しいその様子に、あなたは少し居心地が悪くて、自分の指の爪の形が気になっているふりをする。
心の中では、様々な感情が渦巻いていた。悲しみ、怒り、そして少しの安堵。自分が、今はもう過去になった男との人生を本当に望んでいたのか、よくわからない。ただ、ランダルの静かな視線が、少しだけあなたの心を軽くしてくれるような気がした。
「……わたしは、あなたのことつまらなくないと思うけど」
ぽつりと蚊の鳴くような声で零された言葉に、あなたは爪から目を離してランダルを見た。視線を外して、口を尖らせたランダルの不健康そうな頬がほんのり赤らんでいる。ランダルがこんなに人間らしい表情を見せるのは、あなたにとって初めてのことだった。
驚いた気持ちでそのまま見つめていると、ランダルは緊張した面持ちであなたと視線を合わせる。
「結婚なら、わたしとしたらいいと思うよ……」
顔中に汗をかいたランダルの拙いプロポーズに、あなたは胸がいっぱいになった。暗く燻っていた心に一筋の光が差し込み、温かい感情が広がっていくのを感じる。目の奥がじんじんと熱を持つのがわかった。
ランダルは、所在なく白い手袋の指先をいじって、あなたが何か言うのを待っている。あなたは、目頭に滲んだ涙を手のひらで拭いながら「夢の中で結婚って、ちょっとロマンティックかも」と笑みをこぼした。