偶然目に止まったリップが中々よさげな色をしていたから、暇つぶしに店に入っただけだった。
「それ買うんですか?」
「…」
なんでいるんだコイツ。
当然のように隣に立って男が手元を覗き込む。今日はこの大男に会うつもりなど全くなかったので厚底を履いてこなかった。僅かに背を折る姿勢が癪に障る。
めんどくせーな…露骨に顔に出すと、首を傾げた。
「そう邪険にせずともいいでしょう。恥ずかしいんですか?」
「違ぇよボケ」
「そう。リップ、まだ試していないでしょう」
「……いらん」
急に生えてきたかと思えば、挨拶もなしにこの腑抜けた発言。今日は普段以上に構いたがりの気配がする。早い段階で距離を取らなければ、面倒さが増すのは随分前に学習した。開けたばかりの蓋を閉じてリップを戻す。
「塗ってあげようか」
まじまじと顔を見る。来た時と全く変わらない表情で見つめ返された。
「いらねぇっつったろ」
「物は試しですよ」
「聞いてんのかカス。そもそも
「新品未使用のがうちにあります」
︎︎ふざけてんのか」
段々眉間にシワが寄る。
この大男が時々こちらの話を聞かないのには慣れている(だからといって許しちゃいないが)。まあそう言わずに、とか言って向こうのペースで話を進めるのはよくあることだ。
しかし今のは。完全なガン無視。
どこの汚物が使ったか知れないテスターを試さないのも、最初から何を買う気がないことも見越しているくせに、こちらの意見は少しも聞くつもりがないらしい。
…機嫌が悪いのかなんなのか知らないが、なんであろうとこちらには関係のないことだ。コレの気まぐれに付き合うつもりは微塵もない。
「かまちょです」
「あ"??」
「かまちょです」
この大男の口から出てくるとは思えない、いかにも頭の弱そうな単語が出てきたもんだから反射で聞き直してしまった。クソッ、ご丁寧に繰り返しやがって!わざとか?
「貴方も暇でしょう」
一方通行な応答にしびれを切らし、舌打ちをして踵を返す。小さな店員が、視界から消えるほど縮こまりながら道を開けた。足早に外へ出て、邪魔くさい通行人がいない道を選んでさっさと歩く。
硬質な足音が、いつまでも後を追ってくる。
「随分ご機嫌斜めですね」
「ついてくんな」
「私も似たようなものですが」
「うるせぇ」
「わざわざ探したわけではないんですよ。貴方がそこに居たものだから、つい」
ああ喧しい、鬱陶しい、しつこい。
「テメェさっきからなんのつもりだ。殺すぞ」
「どうぞ」
「…………」
「やってみなさい」
…うっすら感じてはいたが、やはりいつもと様子が違う。このまま歩き続けてもどこまでもついてくるか、あるいは。
2,3歩離れて立つ男と真正面から顔を合わせる。
「かまちょ」などとは言葉ばかりの、いつもの構いたがりだと捉えていたが、恐らくそれは見当違いだった。
あれで回りくどいやり方はとらないタチだ、ここまでの会話になっていない会話にさしたる目的はないのだろう。煽る時はもっと小賢しく煽るので、こちらが怒る様を楽しんでいるわけでもない。
何より、挑発というにはあまりに粗末な罵倒にこうも素直に応じるなど、“お行儀のよい“姿でいなくともこの男の性格では考えにくい。
動かすことを放棄したように、会った時から全く変わらない無表情。喜怒哀楽の一切を忘れたような覇気のない顔をして、そのくせいつもの生真面目そうな立ち姿はちっとも崩れていない。どころか、穴があきそうなほど真っ直ぐに視線を返してくる。
未だに意図は読めない。しかしアレが今やっていることはとてもシンプルだ。
望む反応を引き出そうとしているのではない。ただこちらの一挙手一投足を『観察』している。
「っとに気色悪ぃな……!何なんだ」
「退屈しているんです」
「何用だって聞いてんだよ!」
「殺さないのですか?」
「いい加減にッ」
「では私が殺します」
間一髪でガードを間に合わせる。
左前腕の骨が丸ごと砕かれるのではないかと思わせる衝撃。僅かな痺れが走る。
この男、本気で殴りやがった!!
怒鳴りつける間もなく、既に顔面ド真ん中へ向かう2撃目を交差させた腕で受けるが、3発目は止めきれない。咄嗟に半身を引いて腹部に迫った拳をスレスレで避ける。
顔面目掛けて拳を叩き込もうとするが、今度は向こうが素早く身を引き右手が空を穿った。
相変わらず眉一つ動かさない男に、際限なく苛立ちが募る。
いきなり出てきてべらべらしゃべくって、しまいにはなんの前触れもなく殴ってくるとはどういう了見だ。オレですら不愉快だとか気に食わないとか動機があって殴る。
だいたい、すぐ手をあげるなムカついても殴るなと散々小言を寄越してきたやつが「退屈だから」で暴力に走ってんじゃねえ!!
「(何がかまちょだ!!当たり屋か通り魔の間違いだろうが!!!)」
怒髪天を衝く。向こうがその気ならこっちも叩きのめすだけだ。既にコイツを殴らない理由はない。
完全にスイッチが入ったのを悟った男が、微かに目を細めた。
殴る、引く、片腕を掴んで鳩尾へ
頬を掠める、怯まず殴り返す、受け流されてカウンターをくらう
髪を鷲掴む、胸ぐらを掴み上げられる
5分はやりあったか。実際は2分も経っていないかもしれない。どうでもいい。
互いに手加減なしに猛攻を続けているはずだが、へばるどころか勢いは加速する一方だ。数発もらっているうえ一度は鼻面にモロに入れられたが、痛みも疲労も大したデバフにはならない。まだ殴り足りない、全く足りない!
今日という今日はこの無駄に長い髪を毟って、澄ましたツラを踏み倒してやらねば気が済まない!!
「ッオ"、」
今度は確実にいいボディーブローが入った。僅かに背を折る姿に愉悦を覚えるが気は抜けない。間髪入れずに頭目掛けて蹴りを入れ、
がしり、と脚を捕られた。
「はっ、」
ふうぅ、と低く息を吐き出し、静かに、されど鋭くこちらを見据える。
両手で握り潰す勢いで掴まれている、引くのはまず無理だ。当然ながら軸足は動かせない。頭をひっつかむにも微妙に距離がある、コイツが動き出すまでに反撃に出られる体勢ではない。
間に合わない。
一層強く足首が締めあげられ、一気に浮遊感に襲われる。感情のない顔が見えなくなって、
衝撃。
横っ腹から落ちたはずみで切れた思考が繋がる。
片腕でどうにか半身を持ち上げようと試みて、ほとんど無意識に僅かに息を吸う。
空の肺へ届ききる前に吐き出す。
跳ねるような痙攣、胸に爆ぜるような激痛。
「っカっっ、?!ォ"…っゴフ、ゲホ!!げッ、ごほっ!!!…ッカふ………!!あ"ァッ…??!」
体が呼吸を拒絶して這い蹲る。
手のひらで地を押すも、情けなく腕が震えて使い物にならない。腹筋に力を入れて無理やり上半身を起こそうとするが、迫り上がる吐き気に耐え切れず胃液を吐き散らす方が早かった。
平衡感覚がすっかりバカになって気持ち悪い。頭をめちゃくちゃに揺さぶられているようだ。まともに受け身をとれないで壁に叩きつけられたせいで、強かにぶつけた背中が焼かれているように熱い。
地に放った半透明に赤色が混じっているのを見て、咆哮だか喘ぎだか分からないくぐもった声が漏れた。
「堪えると余計苦しくなりますよ。息は吸わずに、吐くことに集中しなさい」
揺れる視界を影が埋めて、黒い爪先が映った。
いつまでも惨めに地を這っていたくなくて、気合いでノロノロと顔を上げる。ようやく焦点が定まった頃にむこうがしゃがみこんだ。吐瀉物を意に介さず顎を掴み、容赦なく上向かせられる。
「んグっ、」
「よかった。どこも折れてはいませんね」
「ッハ、はぁ"ァ…!クソやろ、ぅがッゲほっ!!ぐッ、げ…!」
よかった、などと微塵も思っちゃいなさそうな顔に悪態をつくのを遮って、突然背中を叩かれる。残っていた分まで吐き出したのを見てとると、今度は痛みを鎮めるような手付きで背を擦り始めた。
心底気持ち悪いことこの上なくて総毛立つ。何もないのにまた吐きそうだ。今すぐ振り払いたいのにロクに力が出ず、乱雑に振った腕はペシ、とあっけなくあしらわれた。
あぁクソ、また負けた!見下ろされた、吐かされた、服も髪も台無しにされた!なんてザマだっ、クソ、クソ!!
絶え間なく怒りが沸き続け、顔が歪む。ひとまず形になった程度の荒い呼吸を繰り返しながら、今にも噛み殺さんとする形相で睨み付けた。
…男が、薄ら笑いを浮かべる。
「元気そうで何より。さ、起きなさい。もう少し貴方とじゃれていたいのは山々ですが……ここまでにしておきましょう。やめられそうにないので」
見るからに…少なくともカイトにはそうと分かるほどに…機嫌良さげな笑顔ですいと立ち上がり、道の先を横目で見やる。
「その格好で歩きたくないでしょう?寄っていきなさい。お詫びもしますから」
言いながら、ポケットから出したハンカチで手を拭う。こちらが壁伝いに体を起こして座り込む間に、雑に転がしていたショルダーバッグを拾い上げ、小さなペットボトルとポケットティッシュを取り出し目の前に置く。一連の動作をジッ、と睨めつけていると、指を離したところで動きを止めた。
「流してあげましょうか?」
無言で手をひっぱたきペットボトルをぶんどる。大して気にした様子もなく身だしなみを整え始めた。手櫛で髪を梳かすも、すぐひっかけて不満気な顔をしているのも、小さく咳をして口の端を雑に親指で拭っているのも今は面白くない。
水を吐いて、これみよがしに大きな舌打ちをする。ため息のような笑い声が聞こえた。