幼稚園から続けてきたサッカー。高校三年になりキャプテンを任され、自分でもそれなりに周りからの期待を感じるほどの腕前になって来ていたのに、三年最後の試合中、不注意で怪我をした。あれだけがむしゃらにやってきたサッカーだというのに、何も残せずそのまま引退。
それからオレは学校が終わればすぐに家へ帰る、そんな生活を送っていた。スポーツ推薦も取り消されたため、受験に向けての自主勉もしなくちゃいけない。塾は部活のメンバーも通っているから行く気にはなれなかった。幸いにもそこまで成績は悪くなかったから、その辺のことは親から口を出されることもなし、家でひたすらに過去問を解く毎日だ。
今日も帰ってからずっと勉強机に向かっていた。体をぐっと伸ばして時計を見れば五時過ぎを指していたけど窓の外はまだ明るい。
気分転換にコンポのスタートボタンを押せば、最近気に入ってずっと聞いている曲が流れた。姉ちゃんにおすすめされた男性アーティストの曲なんだけど、ひとつだけとても刺さるものがあった。それ以外の曲はそこまでだったけど、この曲だけは何度も何度も繰り返し聞いている。なぜかはわからない。けど初めてこの曲を聴いた時、涙が止まらなくなった。これを聴いている時だけは、怪我をして埋まらなくなったオレの中の何かが、少し満たされる気がした。
調べてみるとこの曲だけYukiという人が作詞作曲しているらしい。普通は歌手の方に送るんだろうけど、オレはその彼にファンレターを送った。曲調も歌詞もあまりにも今の自分に響きすぎて、まるでオレに宛てられているような気すらしたから。どうしてもこの感動とお礼を伝えたかったんだ。
今は近くのCDショップで彼が作った他の曲を取り寄せてもらっているところ。品切れ中らしくて、来月になりそうとか言っていた。早く着てほしい。これが最近の一番の楽しみだったりする。
カレンダーを眺めながらいつもの様にその曲を聴く。そしてなんとなしに外を見たその時、ふと隣の家のカーテンが開いていることに気が付いた。珍しい、いつも閉まっているのに。
そう思って見ただけだったのに、気が付いた瞬間にぎょっとした。そこに女の人の裸の背中があったからだ。
目を背けようとしたけれど、その前にカーテンの奥から現れた銀髪に目が奪われる。その髪が太陽を反射してきらきらと輝いていて純粋に綺麗だと思ったからだ。その人も上半身裸だだった。というか、腰から下は見えてはいないからもしかしたら全部裸なのかもしれない。一瞬、髪が長いから女の人だと思ったけど、その人物に胸はなく背も高い。さっきの女性はその人に絡むように腕を伸ばした。
何だかその動きが生々しくてゴクリと息をのみこんだその瞬間、銀髪の隙間から覗いた瞳がこちらを捕らえたのだ。
オレは咄嗟に体を机の上に伏せた。心臓が猛烈な速度で音を立てている。いけないものを見てしまったと思った。いや、あれはいけないものだろう。ていうか、お隣さん自体はじめて見た。半年ほど前に越してきたけど、あいさつ回りも特になく町内会に入ってもいないらしい。前に聞いたら、親たちもどんな人が住んでいるかわからないと言っていた。
どれくらいこの体勢でいただろうか。胸の音が静まるころに顔を上げれば、彼らの姿は消えていた。カーテンは未だ開いている。オレは慌てて立ち上がり、隣の家側のカーテンを閉めた。
なんでかこちらが悪いことをした気持ちになる。
だけど、なぜか目に焼き付いている彼の視線。思い出せば、再び心臓が早く動き始めた。
オレはごまかす様に、机に並ぶ参考書に手を伸ばしたのだった。
二度目に彼を見かけたのは、あれから一週間ほど経った学校帰りのことだ。
オレの家は住宅街の中でも奥まった所に建っていて、そんなに車通りも人通りも激しい方ではない。オレの帰宅時間帯は特にそうで、今日なんかは道すがらオレ以外誰もいなかった。そんな道のりをいつも通り歩いていた。もうすぐ家だ。だけどオレが家へたどり着くには、例の隣の家を通らなくてはいけない。今までだって一度として遭遇したことはないけど、それでもあれを見てからというもの前を通ることですら意識してしまっていた。
でも通らずには帰れない。仕方なしに彼の家の前に差し掛かろうとした瞬間、彼の家の玄関が開いた。
出てきたのはこの間の女性ではなく、二十代後半ぐらいの見目の整った男性だった。その彼が出て来たかと思うと、家の方を振り返り何かを話している。そして、少し間を置いて例の彼が出てきたのだ。
出て来たかと思うと彼が手を伸ばし先程の青年の後頭部に添えた。そして、ぐっと抱き寄せて青年の唇を唇で塞ぐ。青年も彼に両腕を伸ばし、昼間とは思えない濃厚なキスを繰り広げ始めた。
オレはそれを呆然と眺めるしか出来ない。どれくらいの時間が経っただろうか。呆けるオレを他所に、ちゅっとリップ音をさせて彼らの唇は離れた。青年は名残惜しそうに彼に手を添えた後、手を振ってこちらへ降りて来た。立ち尽くすオレを気にするでもなく、そのまますれ違いオレの来た道を帰っていく。
呆気に取られていれば、小さく笑う声がしてはっとする。声の方では銀髪の彼がこちらをじっと見つめていた。一見きつそうに見える切れ長な瞳が、優し気に細められている。
「おかえり」
ただそう言われただけなのに、カッと頬が熱くなった。オレは無言のまま足早に彼の家を通り過ぎて、カギを取り出し自宅のドアをくぐった。後ろ手で閉めて、ようやく息を深く吐き出す。
あんなに近くで見ることになるなんて思ってもいなかった。見た感じ三十代後半くらいだろうか。声は低すぎるということはないけれど、落ち着いた色気のある声音だった。そしてそれなりに歳は感じるものの、とても美しい人だった。
それにしてもあれは何だったんだろうか。明らかに両方男性だった。ゲイってやつなのか。でも、前に見た時の相手は女性だった。
告白はされたことはあるものの、サッカーばかりで彼女すらいなかったオレにとって、彼の行動は未知の世界だった。
処理しきれずに玄関で突っ立ていれば、奥から姉ちゃんがやってくる。
「ちょっと、そんなとこで何してるの。帰ったらただいまぐらいいいなさいよ」
「あ、ただいま……」
「ドアの音がしたのに無言だとなんか怖いでしょ」
いつも通りの姉ちゃんの小言が全く頭に入ってこない。
「ごめん」
とりあえず謝っておけば、それ以上何を言うでもなく姉ちゃんはリビングへと入っていた。
オレは靴を脱いで自分の部屋へ向かう。
彼の澄んだ海の様な瞳の色が、なぜだか忘れられなかった。
三度目に彼に出会ったのは、また学校帰りだった。今度は日を開けず翌日のことだ。
「おかえり」
昨日と同じ声音でそう言われ、見上げれば二階のベランダで煙草を吸う彼がひらひらと手を振っていた。
「君、お肉好き?」
唐突すぎる質問になんと答えるべきか迷った。そもそも一度として話したことなんてないのに、なぜオレは誘われているんだろうか。そんなオレに構わず彼は続けた。
「僕、肉食べれないんだよね。良かったら食べてくれない? ローストビーフにしてはあるけど、食べる人がいなくなっちゃってね」
色々引っかかる部分はあるものの、ローストビーフという単語につい気を引かれてしまう。そんなおしゃれなもの、家で出てきたことはなかった。
喉が動いたのを見られたのか、上からクスクスと笑い声が聞こえて頬が熱くなる。
「上がっておいで。玄関開いているから」
そう言って彼は部屋の中へ入って行ってしまった。正直、このまま無視してしまってもいいはずだ。そのはずなのに、オレの足は彼の家の玄関へ向かうべくコンクリートの階段を上り始めた。
「いらっしゃい」
「……お邪魔します」
中へ入れば、階段を下りる途中の彼がいた。彼を見た後、玄関ホールを見渡してみる。建物自体、オレの家と比べられないほどに洒落ていたけど、中もモダンで雑誌やテレビで見る芸能人の家の様だった。
「こっちがダイニングだよ」
呼ばれたままに付いて行く。案内された先には、四人掛けのテーブルがキッチンカウンターの前に置かれていた。こちらの部屋はモダンというよりも植物棚もあり、ナチュラルな雰囲気だった。
「そこに腰かけてて。準備するから」
そう言って彼は長く垂れた髪を両手でくくり、ゴムで止めた。ちらりと見えた項に、前に見た彼の上半身の肌を思い出し無駄にドギマギしてしまう。そんなオレを気にするでもなく、彼はキッチンへ立って手際よく冷蔵庫から色々なものを取り出し始めた。
「嫌いな野菜はある?」
「え、あ、何でも食べれます」
「ふふ、いい子」
褒められたはずなのに子供扱いをされているようで複雑な気分になる。それでも黙って手元を眺めていれば、あっという間にローストビーフ丼が出来上がった。パスタ皿の様なオーバルの皿に盛られたそれは、野菜の色どりも良く、肉もバラみたいになっていてカフェで出てくるものの様だった。
「うわ、美味しそう!」
「はい、お手拭き」
「あ、ありがとうございますっ」
渡されたウエットティッシュの箱を受け取り手を拭いていると、彼は目の前の席に腰を下ろした。
「どうぞ、召し上がれ」
「……いただきます」
両手を合わせ、箸置きに置かれた箸を手に取る。崩してしまうのはもったいないけど、食欲には勝てず真っ先に上に乗った温泉卵を箸で割った。そして、肉、野菜、ごはんとタレが良いバランスになるように口へ運ぶ。
「……」
カフェというより、レストランで食べる味がした。あまりの美味しさに身悶えてから、目前の彼を見つめる。
「……すっっっっっごい、美味しいですっ」
「ほんと? 良かった」
そう笑った顔は、純粋に嬉しそうに見えた。
「たくさん残ってるから、いっぱい食べてよ」
「……これって、昨日の人のために作ったんですか?」
「そうね」
「恋人……だったんですか?」
「んー、恋人、ではないかな。それに彼はもうここへは来ないよ」
「……その前の女の人は?」
「そうだった、君には色々見られていたっけ。彼女も、ここへはもう来ない」
そうにこやかに、だけど彼は断言した。
前者の青年なんて昨日あんなに濃厚なキスシーンを見せつけられたばかりだというのに、もうここに来ない? 一体どういうことなのだろう。全くもってよくわからなかった。唯一わかったのは、彼が普通の恋愛観を持っていないということだけだ。
悶々としながらも、手はこじゃれた丼を食べ進める。
「……君、彼女はいないの?」
じっと目を見つめられての唐突な質問に戸惑った。
「いません……けど」
「そうなんだ」
頬杖をついた彼は瞳を細める。その視線にまた胸が音を立て始めた。
だが、考えてみればこの状況こそ一体なんなのか。なんでオレはここでご飯を食べているんだろうか。なんで呼ばれるままに入ってしまったのか。
自分でも理由はわからなかった。
「今、定期便でお肉頼んじゃってるからしばらくはまだ送られて来るんだけど、良かったらまた食べに来てくれない?」
「……え?」
「だめ?」
オレよりかなり年上のはずなのに、小首をかしげる姿が可愛いと感じてしまった。なんだろう、これ……、ねーちゃんが良く言う『母性本能がくすぐられる』ってやつ? って、オレ男だけど……。
「……お肉、食べるだけなら」
「良かった。捨てるのはさすがに勿体ないじゃない」
だけならってなんだよって自分で言っておいて思う。だけどオレの返事に彼は上機嫌のようだった。
「ねえ、きみ、名前は?」
そう言われて、そう言えばお互い名乗ってすらいなかったことに気づく。
「春原……」
「そっちはさすがに知ってる。下は?」
「……百瀬」
「すのはら、ももせ……か、……モモ、って呼んでいい?」
「……いいですけど、オレはなんて呼べばいいんですか」
「千斗。折笠千斗。ユキって呼んでくれていいよ」
彼の顔に似合うきれいな名前だって思った。それに、どこかで聞いた名前のような気もした。どこだっけ……、あ、オレの好きな曲を書いてる人もYukiって名前だったけ。思いつくのはそれくらいだった。
「じゃあ、ユキさんて呼ばせてもらいます」
「ユキでもいいのに」
「それはさすがに……」
体育会系のオレ的にいっこ上ってだけでも呼び捨てなんてできないのに、こんなに年の離れた人にそんなこと出来るわけがなかった。だけど彼の反応はあっさりしたものだ。
「そう、残念」
とても残念そうには見えなかったし、寧ろおもしろがっているようですらあった。それにちょっとむっとした。この人、なにがしたいのか全くわかんないんだもん。
「ユキさんは、なんでオレを誘ったんですか?」
丼を食べ進めながら、投げやりに聞いてみる。そうすると、ユキさんはふっと口元をゆるめた。
「……なんでだろうね。なんでだと思う?」
オレが聞いたのに逆に聞かれてたじろいでしまう。そんなのわかるわけないじゃんか。
変な人だ。そもそも、昨日とその前のことを考えてもまともな感覚を持っているわけがなかった。それなのに、なんでオレはのこのこ付いてきてしまったんだろうか。やっぱりその問いに戻ってきてしまう。
「オレがわかるわけないじゃないですか……」
「ふふ、だよね」
やはり楽しそうな彼にオレは口をつぐむ。
「次も来るの、待ってるね」
年齢不詳の微笑みは、やはりオレを不思議な気持ちにさせるのだった。