君の背中風見班の執務室を訪ねるのは、これで何度目だろう。
降谷は廊下の向こうから風見の背中を見つけて足を止めた。
部下に指示を飛ばしながら、書類を確認し、次の対応に視線を走らせている。
余裕のない空気を纏いながら、それでも的確に場を動かしている様子に、降谷は小さく息を吐いた。
「忙しそうだな」
誰にともなくこぼす。
案の定、声をかける隙はなかった。
一度だけ目が合いかけたが、電話が鳴って、風見はそれに出てそのまま姿を消した。
(──また、背中だけ…)
来るたびに、そうだ。
書類に追われているか、誰かに呼ばれていてそもそもいないか。
顔はほとんど、見られない。
(僕にだけじゃない。風見はどんな仕事も丁寧で、皆に平等に優しい…。でも、僕のことだけを見ていた時期があった気がしていたのに)
そんな想いが喉の奥に引っかかる。
言葉にすれば子供じみているのはわかっていた。
だから、口には出さない。ただ、胸の奥でじくじくと疼かせた。
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降谷が風見の家を訪ねたのは、それから三日後の夜だった。
目的なんて、なかった。
理由を探すなら──ただ、風見の顔を見たかった。
鍵は持っている。
ノブを回せば、簡単に入れてしまうのがいけないのかもしれない。
灯りの落ちた部屋。
リビングを抜けて、静かに寝室の扉を開けた。
風見は寝ていた。背中を向けて。
カーテンの隙間から月が差して、その背中だけがうっすら浮かび上がっている。
静かな寝息。枕元に置かれた眼鏡。
(寝てるときくらい、僕のほうを向いてたって、いいだろう)
心のどこかが、じわ、と冷えた。
眠っている背中に手を伸ばすことはなかった。
ただ、ほんの数秒、降谷はそこに立ち尽くしていた。
「……いつまで、君の背中だけを見ていればいい?」
夜の静寂が答えることはなく、降谷は扉を閉めて部屋を出た。
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数日後、別の任務に就いていた降谷は、足に軽傷を負った。
動けなくなるほどではない──本来なら、誰かを呼ぶような状況でもない。
降谷は携帯を手に取ると、迷わずひとつの番号を押した。
本来なら、組織関連の任務中に呼ぶなどあってはならないことだ。
それでも。
浮かんだのは他の誰でもない、風見だった。
「……すまない。ちょっと、動けなくて」
短く、それだけを告げた。
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現場から少し離れた空き地に、風見はすぐに現れた。
その顔には、いつになく強い感情がにじんでいた。
降谷と視線を交わすと、黙って近づいてきて、しゃがみこんで背を向ける。
「車まで、おんぶしますから。右足、ですよね?」
「…ああ」
重さをかけたとき、風見の肩がわずかに沈む。
けれど揺れはすぐに収まり、しっかりと支えられた。
歩き出す風見の背中に、降谷はゆっくりと体を預ける。
これまで何度も見てきたはずの、あの背中。
(思っていたより大きいな…)
腕に力を込めながら、降谷はそっと額を肩に寄せた。
肌に触れるわけでもない、服越しの距離。
それでも、鼓動が伝わってくる気がした。
「久しぶりに、君の顔を見た気がする」
風見は、少しだけ息を飲むような気配を見せた。
けれど、何も言わずに歩き続ける。
降谷はその肩越しに、視界の遠くを眺めた。
風が通り抜ける。生ぬるくて、でも心地いい風だった。
こんなふうに他人に支えられるのは、いつぶりだっただろうか。
肩越しに見える空が、少しだけ遠く見えた。
「……こうやって見る背中は、悪くないな」
口にした言葉は、風に乗って流れていった。
風見の耳に届いたかどうかは、わからない。
それでも、降谷は少しだけ目を閉じた。
その背中が、自分のために進んでいる──
しばらく沈黙が続いたあと、風見が静かに口を開いた。
「今日はこのまま、病院ですからね。……しばらくは安静にしていてくださいよ」
「じゃあ、僕がいなくならないように見張っておかないといけないな」
「……え?」
(せっかく捕まえたんだ、もう少し僕のそばにいるといい)
降谷は少しだけ強く腕に力を込めるとその背中に額を寄せる。
(君の背中に、こんなに安心する日が来るなんて)
その想いを言葉にすることは、たぶんこの先もない。
けれど、それでも。
「…君はまったく、いい男だよ」
(おわり)